滅亡の国の私とあなた

 8月31日に、私がそれまで生きていた世界は滅亡した。



 懐中時計を持ったうさぎを追いかけた覚えもなければ、英国の駅で煉瓦造りの壁に激突した覚えもないのに、私の目の前の光景は一変していた。

 晩夏の太陽は天中近くまで昇っていて、人影のない街をじりじりとしぶとくいている。私は独りでスクランブル交差点のど真ん中に立ち、眩しい日光に照りつけられていた。

 周囲の光景を街、と呼ぶことにはやや抵抗も感じた。横断歩道は掠れたように消えかけ、信号機は沈黙し、建物の外壁やガラスはぼろぼろに崩れ落ちて、表面を覆い尽くさんと蔓を伸ばす植物の勢いに、今にも降参しそうになっていたから。

 陽射しは強烈なのに、まったく暑さを感じないのが不思議だった。蝉と鳥の鳴き声がいやに大きく鼓膜を揺るがす。ここに人間は私しかいないのかもしれない。

 ああ、世界は滅亡したんだな。

 と夢の中で真理を悟るように理解して、自分の狭量さに苦笑する。ヒトはなぜ、人間の滅亡イコール世界の滅亡と結論づけたがるのだろう。

 私は周辺を探索することにした。

 人工物が活動を辞めた世界。人間がいなくなって窮屈な制約から解き放たれ、自然の秩序を取り戻し、大いなる荒々しさを剥き出しにした世界。そんな荒廃した世界の光景を、私はとても美しいと感じた。

 もうひとつ分かったことがある。地面の向こうに、また別の世界があるようなのだ。足元をよく見るとうっすら透けていて、水溜まりに景色が映り込むみたいに、私が元々いたと思われる世界が広がっているのが窺える。無数の人間たちはこちらに足裏を見せながら、逆さまの格好でせかせかと歩いていた。

 あっちから弾き出されたんだな、となんとなく思った。私は、世界が憎かったから。

 なぜそこまで憎んでいたのだろう。その理由は自分でも定かではなかった。どうも私の記憶から生身の人間の記憶はほぼなくなっているようで、家族のことすら上手く思い出せなかった。

 私は打ち棄てられていた自転車を見つけ、それをギコギコ漕ぎながら散策を続けた。しばらくそうしていても、人間は私以外に見当たらない。身ひとつでこの世界に来てしまったらしい私には、持ち物が一切なかった。仮に通信機器が手元にあっても、この荒廃具合では通じるか怪しいものだが。

 時間が経つにつれ、染み入るような孤独が心臓の周りに浸透してくる。私にとって孤独とは安らぎだった。それくらい、自分はきっと人間が嫌いだったのだろう。

 陽が傾いたころ、どこをどう走ったのか、海が見える場所へ辿り着いた。遥か水平線を眺めてほうっと息をつく。お腹も空かないし、喉も渇かない。人間でなくなったような感覚だった。


「うそ、アイちゃん?」


 突然人の声がして、名前を呼ばれた私は振り返った。そうだ、私の名前はアイだ。独りでいる限りは名前なんて要らないから、意識するのも思い出すのも忘れていた。

 服の裾を潮風にはためかせてそこに立つ人。彼女の顔かたちに、私は見覚えがあった。

 人間に関する記憶をほぼ無くした私が、唯一覚えている大切な人の姿。


「え? ユウちゃんなの?」


 思わず声が高くなる。ユウちゃんはネットで知り合った相手で、一回だけ直接会ったことがあった。彼女と私は同じような境遇で、夜にこっそり連絡を取り合って、互いに励まし合いながら日々を生きていた。

 ――同じような境遇って、何だったっけ。

 私たちは手を取って喜びあった。人間に絶望していた私にとって彼女は唯一の支えであり、癒しであり、友人だった。


「アイちゃんはいつからここにいるの?」

「たぶん、お昼くらいから」

「じゃあ、私と同じ感じだね。ねえ、聞いて。私さっきまで海に入ってたんだけど、水中でも息が苦しくならなかったんだよ」


 ユウちゃんは水の中でも呼吸ができて、水圧も感じなかったことを説明した。わくわくした。それってつまり、私たちは地球上のどこでも行けるってことだから。

 二人以外が滅亡した世界で、私たちはどこでも行ける気がした。何でもできる気がした。根拠もないのにその予感はきっと、間違っていないと断言できた。

 私たちは手を繋いで歩きだす。元の世界の私たちはもう死んでいるのかもしれない。それでも良かった。だってこちら側ではもう死なないってことだから。ここに私がいて、ユウちゃんがいる。世界はそれで完成されていた。

 歩いているうち、私と彼女は大学に行って勉強したいことがあったのに、家庭環境のせいで行けなかったのだとぼんやり思い出した。生活能力がない母親の世話をしなきゃいけなくて、毎日バイトもして家計を支えて。高い学費を親に払ってもらって大学で遊び呆けている同級生の噂が流れてくると、ぶつける先のない怒りで血が沸騰するようだった。生きているのがめちゃくちゃしんどかったことも朧気おぼろげながら思い出したけれど、それらはすべて過ぎ去ったことだ。

 私たちは白昼夢みたいな光景の中心で、ころころと笑い合う。


「私ね、行きたいところがいっぱいあるの」

「私も! ねえねえ、どこ行く?」

「そうだなあ、ガラパゴス諸島には絶対に行きたいな。あ、それだと小笠原の方が先かな。あとはイエローストーンにも行きたいし、アラスカは外せないし、コスタリカもでしょ。それにタンザニア、南極、オーストラリア、ニュージーランド、マダガスカル、パタゴニア……本当にいっぱいある!」

「いいね、最高! あと今の私たちなら深海にも行けると思うんだあ。マリアナ海溝ってどんな風なんだろう。気にならない?」

「チャレンジャー海淵かいえん、行っちゃう」

「行きたい~! でもいざ行ったらそこから戻るのが大変そうだね」


 顔を見合わせてくすくす笑った。心が通じ合った相手と、人類がほぼ滅亡した世界で二人きり。多幸感でくすぐったくて、我慢できずに私は子供みたいにぴょんぴょん跳ねた。

 これからたくさん見たいものを見よう。何もかも好きなようにしよう。それがたとえ、何の意味もなさないのだとしても。



 8月31日に、私がそれまで生きていた世界は滅亡した。

 今目の前に広がっているのは、私にとっての楽園だ。

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