閉じかけたドアを開いて(全年齢BL)
三十代半ば。ほんの僅かに、しかし確実に変化していく、昨日と少しだけ違う今日を重ねて、このまま老いていくのだと思っていた。
孤独を癒してくれるものを城に並べて、その小さな王国へと逃げこんで。
きっともう、他人を愛することなんかないから。
彼がやってきたのは、自分がオーナーである店のドアにかかる札を、OPENからCLOSEDに裏返したちょうどそのときだった。
その日、僕はいつもと同じ時間に起き、いつものように身支度をして、いつも通りに店を開けた。
僕の店、と言っても、そんなに大したものではない。五十平米くらいのワンフロアに、キッチンが付いている簡素なカフェだ。カウンターとテーブル席を合わせても二十もない。
ただし、通常のカフェと違って、店内にはところ狭しと僕の趣味の産物でしかない商品が並んでいる。大半は世界各地で産出した色とりどりの様々な鉱石で、その中に地球儀であったり、瓶に詰められた透明標本であったり、恐竜化石の模型であったりが混ざっている。乱雑さと秩序が絶妙なバランスで均衡を保った、僕の王国。
店内に並べられたそれらが、抑えた照明の中で浮き上がる様はばらまかれた宝石箱の中身のようで、開店前の僕の心をいつも浮き立たせてくれた。
それら自分の好きなものを仕入れ、販売もしつつ、サイフォンで淹れたコーヒーと年代物の蓄音器から流すジャズを静かに楽しんでもらう。それが僕の店のスタイルである。
このカフェに来る人は皆寡黙だ。僕と同じように。
まるで深海魚のようだ、と思う。世間の眩しさに居心地の悪さを覚え、なんとか呼吸できる場所を求め、ここに潜ってくる人たち。僕は、そういう人々が好きだ。
穏やかで過不足のない日々。それでも、僕の気持ちが満ち足りることはない。あの日から――「先生」と離ればなれになった日から、僕の心は隠しようもないほど欠損していて、その
「『純』という字は、とても良い字です」
僕と先生が初めて顔を合わせた――僕は大学の新入生で、彼は地質学の教授だった――日に、名簿の「
「皆さんご存じのように、物質の純粋な集合体は結晶になる。結晶は特異な形をとります。それらは美しく、人智を超えた感銘を私たちに与えてくれる。まさに、私はそういうものが好きで地質学の世界に飛び込んだのです」
突然の身の上話に、学科の新入生はぽかんとしていただろう。僕も半分は唖然としていたが、半分じんと感じ入って、教授の紳士然としたにこやかな顔を見ていた。よくある自分の名前を、そんな観点で褒めてくれた人などいなかったから。
彼の名は
僕の名前の字を褒めるその低く甘い声が、心臓に深く突き刺さったようだった。それは陳腐な言葉で表すと、恋であったのだと思う。
僕は彼を、三瀬先生と呼んだ。教授よりも身近な響きは、ある意味で悲しくもある、僕の密やかなこだわりだった。
三瀬先生の顔を見て、短く言葉を交わすだけで胸がときめいた。誰かに言ったら驚くだろうが、それがおそらく僕の初恋だった。幼少の頃から他人に興味が持てなくて、感心の対象は本であったり、石であったり、犬猫や虫などの生き物であったりしたの僕の、ささやかすぎる初恋だ。
もちろん、彼とどうにかなりたいなんて考えたことは一度もなかった。三瀬先生は奥さんと離別しているらしかったが、息子さんと一緒に暮らしていると話してくれ、その口ぶりがとても幸福そうだったから。自分がその生活のリズムを崩して割って入るなどとんでもないし、僕は彼の日々の平穏だけを願っていた。彼がほほえみ、彼と言葉を交わせるだけで僕はこの上なく幸せだった。
一度だけ、彼の肌に触れたことがある。僕は彼の研究室に所属してなお、二人の関係性を平行線のまま辿りきったのだが、彼が卒業式の日に力強く握手してくれたのだ。慈愛に満ちた眼差し、僕にかけてくれた優しい言葉。そして、年齢の刻まれた節の目立つ手がとても愛おしかった。あの感触は生々しく、まだ僕の掌に焼きついている。
卒業して民間企業に就職してから、三瀬先生に会う口実はなくなってしまった。僕は、自分の内部が空っぽになったような、自分の肉がごっそり持っていかれたような、そんな気持ちに打ちひしがれた。先生の存在しない、自宅と会社を往復する繰り返しの日々は打ちのめされるほど空虚なものだった。
研究室のOBとして大学に顔を出せば良かったのかもしれないが、そんな行動に出れば、この道理を逸した並々ならぬ想いが彼に伝わってしまうかもしれない。そう考えると足元の感覚がなくなるほど怖かった。それは己が想像できる中で、最も恐れる事態だった。
自分は人生のうちで、先生のそばで過ごしたあの四年間が最も幸せで、大切なものはすべてあの日々に置いてきたのだ。彼と離ればなれになってようやく分かった。
企業に数年勤めたあと、僕は貯金を元手に自分の城を築いた。
三瀬先生が亡くなった、と大学時代の同期伝いに聞いたのは、つい一ヶ月前のことである。僕は通夜にも葬儀にも顔を出さなかったし、線香すら立てに行かなかった。そんな資格が僕にあるとは思えなかったし、彼が
その日から、悲しみよりもぼんやりした真っ白な感情が、心の中を綿のごとく充たした。この世に彼がいない。仕事中にふと、そういった思索が脳裏を走り抜けていくと、見るものすべてが妙に白けて見えるのだった。
そして、店の表のOPENの札をちょうどCLOSEDに裏返したそのとき、「彼」はやってきた。
薄闇が路地の奥から迫ってくる頃、後ろから「ちょっといいですか」と若い男性に声をかけられる。
「すみません、もう閉店で――」
軽く頭を下げながら振り返って、呼吸が止まるかと思った。いや、確実に数秒止まっていただろう。
そこに佇んでいた長身の男性の顔を見た瞬間、自分が十年以上も昔にタイムスリップしたような感覚に陥った。背景がぼんやりと希薄になっていき、彼の姿以外の道路が、ビルが、鉢植えの植物が、電信柱が、遠景が、全部霞んでいく。彼の切れ長の美しい形の瞳や、高い鼻梁、整髪料できちんとまとめられた色素の薄い長めの髪、それらが僕の目を縫いとめたのではなかった。彼が身につけている、レトロな生地の三つ揃いのスーツに見覚えがあった。それは忘れようもない、三瀬先生が学会発表の際に着ていたスーツの生地そのものである。ただし、今目の前に立っている彼のものはかなり細身だ。
「小椎葉純平さん?」
薄い唇が言葉を紡ぎ、僕ははっと我に返る。
「は、はい……」
やっとのことで首肯すると、相手はすぐには反応を返さず、僕の頭の先から爪先までを無遠慮にじろじろ見る。そんな風に見られた経験がなくて、僕は決まり悪くもじもじしてしまう。そして、次にかけられた言葉によって、驚きのあまり目を見張った。
「俺は三瀬
三瀬。それはよくある名字ではない。それに、既視感のあるスーツ。先生のスーツを、彼の体型に合うように仕立て直してあるのか。二十代半ばと思われる彼の顔をよくよく見れば、確かに先生の面影を感じる。
三瀬先生の、息子さんだ。
硬直し立ち尽くす僕と、じっと対峙する相手の横を、ちらほらと人が通りすぎていく。
「どうぞ、中に……」
僕は閉店時間を過ぎた店のドアを開いて、彼を中に招き入れた。
薄暗い店内を、三瀬先生の息子さんらしき青年は、物珍しそうに眺め回す。
「あの、何か……飲まれますか」
「俺は客じゃないんで」
そう言って僕を見る双眸は、奥に険を帯びた光を宿していて、馴れ合いが目的でないことをはっきり物語っていた。
「話と、仰いましたが」
「俺の親父のことです。分かるでしょう?」
「はい……たぶん。K大学の教授だった――」
「そのとおりです。小椎葉純平さん、あなたは親父の研究室に所属していましたね。親父は死ぬ前の何年間か、あなたの話ばかりしていたんですよ」
更なる驚愕が胸に去来した。なんてことだ、と思った。僕をそこまで記憶にとどめていてくれたなんて、想像の外の外の、そのまた外の事態だ。
「どうして線香も上げに来ないんですか」
「え……」
「俺は悔しかったんですよ。親父にあんなに思い出を刻みつけたくせに、葬式にも来ずに親父のことを忘れてのうのうと生きてるなんて。だから、探し出してどんな奴なのか確かめたかった。どんな
「それは、その」
「でも、俺の顔を見た反応から察するに、あなたはそうじゃない。そうでしょう?」
話し続ける彼に、やっとの思いでついていこうとする。話を聞きながら、色んな想いが込み上げてきた。
やっぱり卒業したあとも、会いに行けば良かった。自分をずっと覚えていてくれて嬉しい。彼が本当にこの世にいないと直接突きつけられて、悲しくて寂しい。それらの感情が複雑に絡み合い、初対面の人の前で、僕はみっともなくさめざめと泣いた。それがどういった種類の涙なのか、正確に言い表すのは難しかった。
空臣くんはじっと、僕の涙が落ち着くのを待っていた。そのタイミングで、やや表情を緩めていた空臣くんが距離を詰めてくる。その近さに、思わず背中を仰け反らせた僕の耳元に、低い囁きが吹きこまれた。
「親父のこと、好きだったんですか? 恋愛対象として」
「え……」
突然の指摘に、顔が火照るのが分かった。顔面全体が真っ赤になっているに違いない。他人に恋心を
さらに低さを増した声が耳朶をかすめた。
「あなた、可愛いですね」
その真意を問う暇もなく、空臣くんの腕が伸びてきて、店のテーブルの上へ強引に押し倒された。肩甲骨がごり、と木のテーブルに押しつけられる。痛みを知覚するかしないかの刹那に、乱暴に口を塞がれた。命を脅かされる恐怖に、びくりと体がこわばる。が、それが相手の唇だと気づくと、さらに金縛りに遭ったかのように、全身がぴくりとも動かなくなった。
何が起こっている? どうして三瀬先生の息子さんがこんなことを? 疑問と混乱ばかりが意識にのぼる。
その状態は、どのくらい続いたのだろう。いつしか至近距離から、空臣くんの透き通った目が僕を見つめていた。
「考えが変わりました。俺はあなたの思い出を塗り替えたい。親父が気に入るのも分かります。こっちを向かせたくなりました」
僕は彼に組み敷かれたまま、呆然とその宣言を聞いている。
「嫌なら、通報して」と空臣くんは呟いた。
「い、いえ……嫌では……ない、です」
どうしてだか、僕はそう答えている。
「ほんとに?」
「本当、です」
「じゃあ、これからよろしく。――純平さん」
空臣くんは初めてほほえみ、名前を呼びながら、僕の鼻の頭にちゅ、と軽くキスを落とす。
当惑の中、止まった時間が再び動き始める予感があった。こうして、僕の閉じかけたドアを開いて、空臣くんという嵐はやってきたのだ。
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