多少の縁でも大切に!

 私とモモが出会ってから、今日でちょうど十年経つ。

 リビングのテーブルの上には、最近評判になっているケーキ屋のホールケーキが、ででんとふたつ乗っていた。モモ以外のアシスタントは全員帰った後だから、これを私たちでできる限り食べないといけない。私はモモと目を合わせ、同時にぷっと噴き出した。


「いや、先生がこんな気の利いたことするとは思わないじゃん? しかもケーキの種類が被るとかある?」

「長く一緒にいると、考えることも似てきちゃうのかねえ」

「かもねー。ていうか、こんなにずっと一緒にいるとは思ってなかったよね」

「ほんと、ほんと」


 十年間、色々あった。私とモモが共にここにいることを、改めて何者かに感謝したい気持ちになる。

 我々の出会いは秋だった。


 * * * *


「ふへへ……なんとか間に合ったぜ……。私はやればできる子……」


 私はやじろべえのようにふらふら揺れながら、燃えないゴミを指定の場所に出すというミッションを完遂した。端から見れば完全に不審者だが、午前三時に出歩いている異常な人間など自分以外にいない。

 徹夜で作業をし、明け方に原稿を送った私の頭は変な脳内物質が分泌されまくって煮えていた。本来の締め切りは金曜日だったのだが、編集に「月曜の始業までに送って下さい。それに間に合わなければマジで終わりです」とデッドラインを提示れ、それに滑り込んだ形だ。


「こうやって締め切りギリギリの成功体験を積み重ねることでどんどん自分を追い込んでいってしまう……締め切りと勝負するの、だめ絶対……」


 帰ったらベッドに直行し、遮光カーテンを一分の隙もなくぴっちり閉め、夕方まで惰眠を貪ろう。そうしよう。

 ゆらゆらときびすを返したところで、見慣れない光景が目に飛び込んできた。

 植え込みのそばに、人影がうずくまっている。

 私の喉から「ギョッ……」と珍妙な呻き声が漏れる。もしかしてこれが、世に言う幽霊というやつか? 霊感なんて持ってないと思って生きてきたから、不意打ちを食らって私の心臓は激しく鼓動を打ち始める。

 しかしよく見ると(冷静になったのではなく恐怖で硬直して動けなかったのである)、どうも人影は普通に生きている人間らしかった。それも女の子で、そのうえまだ若い。軽装で、道端だというのにうとうとしているようだった。

 私は無意味に左右へ視線をやって様子をうかがった。こんな若い子が外で無防備に何をしているんだ? 誰かに、特に良識のない異性に見つかったらまずいことになる。

 ということで。

 私は衝動的に、うつらうつらしている女の子の肩を支えて、自分のアパートの一室へと連れてきていた。

 ――いやいや、思わず運んじゃったけど。どうすんだよ、このシチュエーション……。

 ソファにもたれて眠っている女の子は、鮮やかな青髪が印象的な……一言で言うとギャルだった。明らかに十代、というか高校生以下に違いなく、めっきり秋めいたこの頃には相応しくない、胸元がばっくり開いたカットソーを着ている。

 ――いいなあ。女子キャラの作画のモデルになってほしい……。

 なんて、現実逃避的な思考が脳に入り込んでくる。なにせこの状況だけ見れば、未成年者を大人が連れ込んだと そしられても言い訳ができないのである。どうしたらいいか考えたいが、寝不足で鉛みたいに重くなった頭は全然回ってくれない。

 何分経っただろうか。やがて、女の子の睫毛が震え、瞼がゆっくり持ち上げられて、視線がこちらを捉えた。


「……おねーさん、誰?」

「それはこっちの台詞。外で寝てたら危ないよ。ここは私の家。あなた、迷子? 家出? とりあえず、親御さんに連絡させて」

「それは駄目」


 ぼんやりした女の子の意識は、〝親〟という単語で急に明瞭になったみたいだった。それだけで、この子が訳ありだと分かる。分かったところで、今後の名案が浮かぶわけでもないのだが。

 無理だ。眠気が限界だ。私はよろよろと立ち上がって、頭痛がしてきたこめかみを押さえる。


「ごめん、ちょっと一旦寝させて……さっきまで徹夜しててさ、あなたも寝ていいから。おなかが減ってたら冷蔵庫の中身とか食器とか勝手に使っていいんで……」


 訳ありギャルを拾って私が真っ先にしたこと。それは睡眠だった。



 どこからかいい匂いが漂ってきて目が覚める。一瞬、実家に帰ってきたんだっけ、と錯覚するような親しみのある匂い。

 徐々に意識がはっきりしてきて、そうだ、謎のギャルが落ちてたんだった、と慌てて身を起こす。この家を出てどこかに行った後ということもなく、青髪の女の子はリビングのソファにちょこんと座っていた。ほかほかと湯気を立てる、ふたりぶんの朝餉あさげを乗せたテーブルの前で。


「え、えっと……?」


 目の前の光景が咄嗟に飲み込めずに狼狽える。ギャルはこちらを仰ぐとにこっと笑い、「おねーさん、おはよー。もう十一時だよ。寝坊助ねぼすけさんだね」と親しげに手を振ってくる。え? 前世から友達でしたっけ?と思うくらいにこの部屋に馴染んでいる。


「おはよう……? あの、なんでご飯……」

「えー、だっておねーさんが使ってもいいって言ったんじゃん? だから有り合わせの野菜炒めとー、お味噌汁とー、温豆腐。作っちゃった」


 味噌汁はインスタントのやつだけどね、といたずらっぽく笑うギャルに何も言えぬまま、私はからくり人形みたいなぎこちない動きで席につく。


「ま、とりあえずご飯食べてから話そーよ。冷めちゃうし。いただきまーす」

「いただきます……?」


 これではどちらが家主だか分からない。

 ギャルが作った朝ごはんはめっぽう美味しかった。炊きたてのご飯に、絶妙な味の濃さの野菜炒めがべらぼうに合う。豆腐の上には焦がしネギと熱した胡麻油がかけてあり、それに醤油を垂らすと言葉をなくすくらい美味しかった。心なしか、インスタントの味噌汁もいつもより数段美味く感じられる。

 私の口から「美味しい……」と感嘆がこぼれる。いつも食べているのはよくてスーパーの安売りの惣菜かコンビニの弁当で、締め切り前になると片手間にゼリー飲料やバーを口にするだけの生活を送っている私には、温かい出来立ての料理は染みに染みた。

 しかし、と私は若干引っかかりを覚える。高校生くらいの年代で料理上手というのは普通だろうか。好きでやっているなら何も問題はないが、もしやむにやまれぬ事情があるとしたら。

 ちらりと向かい側に目線をやると、なにやら嬉しげなギャルと視線がかち合った。


「おねーさんって漫画家なの?」

「ギクッ」


 突然生業を当てられ、反射的にオノマトペが口から迸る。

「ギクッて本当に声に出して言う人いるんだ」とギャルはしげしげと私の顔を見つめる。


「なななな、なんで分かったの?」

「だって同じ漫画の同じ巻が新品で五冊くらいずつあったから。さすがに好きな漫画でもそんなには買わないでしょ。だから、作者なのかなって」

「むむ、鋭い」


 私が寝ているあいだにギャルは本棚を観察していたようだ。


水分みくまりジュンノスケ先生」

「ウワーッ!」


 唐突にペンネームを呼ばれて私はせた。編集者からその名前で呼ばれるのは慣れてきたが、こうやって面と向かって言われるのはまだそわそわする。


「やっぱりそうなんだ? なんで男の人の名前なの」

「しょ、少年誌で連載してる漫画家とかね、私みたいなペンネームの人はけっこう多いんだよ……」

「ふーん」

「そう言うあなたの名前は?」

「……モモ」


 モモ、か。本当に本名なのか、どういう字を書くのか、今は深く聞き出さない方が良さそうだ。


「あのね。私、先生の漫画のおかげで今まで生きてきたんだよね」


 んん? いきなり核心に迫るような話が始まったぞ。私はご飯を頬張ったままで、少しだけ俯くギャルを見る。伏せられた睫毛は繊細で長い。まじまじと見るとこの子、めちゃくちゃ美少女だ。


「先生のデビュー作、あるでしょ。主人公とヒロインがバチバチにやり合うやつ。私の家、漫画とかアニメとか一切禁止なんだけど、先生の漫画が中高の図書室にあってさ。いつでもうっすら死にたかったんだけど、漫画の続きが気になりすぎて今まで生きてきたようなもんなの。先生は私の推しなんだ。だからこの偶然にびっくりしてる」


 綺麗な声でつらつらと語られる熱い想い。私は絶句して女の子を見つめる。私が? この子の推し作家? 私の作品を読むために生きてきたって?


「……その割には、落ち着いて見えるけど」


 ああ、なんでそのまま言葉を受け取れないんだ、私。

 モモはにっこりと暖かい笑みを浮かべてみせる。


「そんなことないって。推しが私の前にいて私の作ったものを食べて美味しいって言ってくれてる、そのことがめちゃくちゃ尊い~って思ってるよ」

「アワワ……」


 ストレートな言葉に頬がぼぼっと熱くなる。ギャルってすげー。私みたいないんの者にとっては、バンジージャンプで飛ぶくらいの心構えがいる台詞を、いとも簡単に言ってのける。

 漫画を描いて生活しているからか、私はつい擬態語みたいな言葉を口にしがちだ。漫画家はみんなそうなのかと思っていたが、同業者に訊いても誰もそんなことはないらしい。

 お互いご飯を食べ終え、人心地つく。避けては通れない話題を、私は思いきって舌に乗せた。


「えーと。モモ、さん。家に帰る気は、ないんだよね?」


 モモはこっくりとうなずく。さっきまでキラキラしていた表情が、この話になった途端に急激に曇る。きっと口にしたくない複雑な事情があるのだろう。何も知らない私が、決して好奇心で踏み込んではいけない事情が。

 だから私は、居住まいを正して切り出した。


「分かった。だったら、私があなたを雇う」

「え」


 モモが目を見開く。年齢より大人びて見える彼女の、年相応に幼い表情。


「ちょうどアシスタントが欲しかったんだよね。ベタと消しゴムかけくらいはできるでしょ? あなたは住み込みのバイトの面接を受けにここまで来た。そういうことでどう?」


 モモの顔が見る間にぱああと明るくなる。こくこくと首肯する彼女は、本当に生き生きとして嬉しそうだった。

 この選択が正しいのかはまだ分からない。でも、彼女より十年くらいは長く生きている私が彼女を助けることは、大人としての使命なんじゃないかと思うったのだ。

 モモはぺこりと頭を下げた。


「ありがとう! 今日からよろしくお願いします、水分ジュンノスケ先生」

「いや、ペンネームフルはやめて」

「あ、そうそう。良かったらご飯も作るよ。先生、スーパーとかコンビニに頼りっきりでしょ?」

「ドキッ……なぜバレた?」

「先生って分かりやすいねー。だって空容器がいっぱいあったもん。誰でも分かるって」

「……作ってくれるのはありがたいけど、無理してない?」

「全然だいじょーぶ! 先生すごく美味しそうに食べてくれるから、いっぱい作りたくなっちゃって」


 モモは茶目っ気たっぷりに力こぶを作るポーズを取る。私も釣られて笑ってしまう。

 きっと、モモは私の元からすぐにいなくなってしまうだろう。彼女が居場所を見つけるための、言わばここは繋ぎの場所。私たちの出会いはおそらく、運命でも何でもないささやかな偶然に過ぎない。

『袖振り合うも多生の縁』という言葉があるように、細く頼りない縁だからこそ、今だけは大切に心を砕いてもいい。そう思うのだ。

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