最後の十日は犬と一緒に
さんざん悪どいことをしてきた自分には、こんな末路がお似合いだ。
誰にも顧みられることなく、ぼろ切れみたいに
それで充分だ。これで、良かったんだ。
そう噛み締めるようにして俺は死んだ。死んだはずだった。
しかし、周りが温かい光に包まれたと思ったら、人の姿をしたやたら神々しい何かが俺の前に現れ、こう言ったのだ。
「あなたが生前の
俺は自分の口の端が皮肉っぽく歪むのを感じた。
「へえ。あんたが全知全能の神様ってことかい? 悪行しかやってこなかった男に対して、ずいぶん優しいこった」
「私はあなたがたに言葉を伝えるための、単なる使いにすぎません。大いなる存在のお考えは、あなたがたには理解できないでしょうから」
慈悲深い顔でずいぶんはっきり言うものだ。つまり、人間の善悪の物差しなんて、全能の存在には通用しないってことか。
そうしているうちに周囲の光量がどんどん増していき、あまりにも眩しくて何も見えなくなって。
気づくと俺は、生まれ故郷の丘の上で、ぼんやりとベンチに座って美しい朝陽を眺めていた。
夜明けの空のグラデーションを、網膜やフィルムや液晶画面に焼きつけようと、大勢の老若男女が集まっている。そのさざめきを聞きながら、俺は両手の指を曲げ伸ばししてみた。ちゃんと動くし、肌に爪を立てれば痛みを覚える。やはり、夢ではないみたいだ。
あの光に満ちた世界で見聞きしたことを信じるなら、俺は一度命を落として、もう一度十日間の命を与えられた、という状態らしい。つまり、今の俺の余命は十日。人生のボーナスタイム――サッカーで言えばアディショナルタイムってところか。十代の頃から裏社会に身を投じ、ずっと殺し屋として生きてきた男に慈悲を与えるなど、神様はよほどの酔狂らしい。
自分の身なりを確認すると、服装は死んだときのままだが、血やほこりなどの汚れは綺麗に消え、破れやほつれも最初からなかったように直っていた。ポケットには財布があり、
しかし、と俺は考え込む。たった十日で何ができるというのだろう?
太陽が昇りきった頃合いで、俺は丘を下ることにした。郷里など何年ぶりに来ただろう。全体的には見慣れているが、部分的には見慣れない故郷の街をぶらぶらとそぞろ歩く。したいことも、見たいものも、特に思い浮かばない。親類縁者はとうにいなくなっていたから(親類がいれば殺し屋なんてならずに済んだだろう)、会いたい人や行きたい場所だって俺にはなかった。こんな寂しい思いを味わうために、俺は十日間を与えられたのかもしれなかった。
日が昇りきると、街はにわかに賑やかになった。仕事へ行くために自転車を漕ぐ人の群れ。ひっきりなしに道路を行き交う、小さな綺麗な路面電車たち。時期は秋口で、暑くもなく寒くもなく、空も高く澄んでいる。河口付近からなんとなく河畔沿いを遡っていくと、のんびりとベビーカーを押す親子連れの姿や、道端で弦楽器や管楽器を演奏する人たちがいた。岸に停泊している小舟はぷかぷかと揺れ、海鳥たちがやかましく飛び交う。時おり降ってくる、教会の鐘の
魚のフライが挟まったパンを移動販売車から購入し、それを頬張りつつ歩みを進めるうちに、この間延びしたような時間を好意的に感じている自分に驚いた。
思えば、血で血を洗うような人生を送ってきた。誰も彼も信用できず、信じられるのは
だが、この光景はどうだろう。道行く人々に色々な事情はあるだろうが、平和そのものだと言って差し支えない。俺が生きる世界のすぐ裏側に、日差しと音楽と笑い声に満ちたこんな世界が広がっていること。生きているうちは、そんな風に想像したこともなかった。
不意に、目頭が熱くなった。自分が悲しいのか嬉しいのか、それすらも分からない唐突な感情の揺れ。
もしかして、と自分の冷静な部分が思考する。俺がこうして内省するのを見越して、神様は十日の時間を寄越したのだろうか?
だとしたら神様ってやつは、相当に性格が悪いに違いない。
それから一週間ほどがあっという間に過ぎた。
安宿に連泊し、日中は街の往来をぼんやり眺め、夜になれば酒を一杯だけ飲んで寝床へ帰る。おそらく、宿の人間からは浮浪者だと思われているだろう。別に構わない。こうして動いて見て食べている自分は死体と一緒なのだから、真実はもっと酷い。
一週間何をしていたかというと、俺はずっと街中の犬を見ていた。まだ比較的幸せだった子供の頃、近所の毛足の長い人懐こい犬が好きだったと思い出したのだ。
猫くらい小さい犬、人間よりも大きい犬、スレンダーで華奢な犬、がっしりとした体つきの犬、ふわふわな犬、つるつるした犬、常に笑みを浮かべた犬、厳つい表情をした犬、生まれてから日が浅い犬、老いてゆっくり歩く犬、色々な犬がいる。俺が見かけた犬は全員、飼い主と共に幸せそうに散歩したり走り回ったり遊んでもらったりしていた。
俺自身は犬を飼った経験はなかった。死ぬ前に一度飼ってみたい気持ちはあったものの、どのみちあと数日で飼うことはできない。飼い主と心を通わせている犬たちを眺めているだけで、俺の胸の内は温かなもので満たされた。
そうやって、ついに最終日になった。二回目の死はいつ、どのようにもたらされるのだろう。猶予期間の最初に見たものが日の出だったように、日没と同時に命が尽きるのか。それとも、零時になる瞬間にふっとこの世から消えるのか。何にせよ、後腐れなく独りで逝くのに越したことはないだろう。
夕刻、まだ早いうちに宿へ向かう道すがら、反対方向から少女と犬が歩いてくるのが見えた。犬は中型犬で、まだ若いらしく元気いっぱいだ。躾の途中のようで、制止しようとする少女に構わずリードを目一杯引っ張っている。
ちょっと危ないな、と思った瞬間、犬の首から首輪がすっぽ抜けた。
あ、と喉から声が漏れ、少女の口も俺と同じ形にぽかんと開く。その後はすべてがコマ送りのように、スローモーションに見えた。
水を得た魚のように走り出す犬。「捕まえて!」と叫ぶ少女の悲鳴。犬に気づいて騒然としだす通行人たち。
そしてあろうことか、犬は車道へ一直線に飛び出した。
体が、勝手に動いた。交互に蹴り出される脚が、俺を自由の身の犬へと肉薄させる。犬に迫る自動車と、犬とがどんどん大きくなって。
間に合わない、と思った。犬を抱きかかえ、自分も一緒に歩道へ避難するのでは間に合わない。俺は夢中で、犬の体を歩道に押しやった。大丈夫、犬は無事だ。俺は助からないが。
一瞬、車の運転手と目が合った気がした。一生のトラウマを植えつけてしまうかもしれない、と想像すると申し訳なく、俺はできる限り安心させようと、精一杯の笑顔をつくる努力をした。それが成功したかは分からない。
心は凪いでいた。殺し屋稼業に身を浸してきた男が、犬を助けるために命を落とす。これはこれで、悪くない結末なのではないか、と思えたから。
さんざん悪どいことをしてきた自分には、こんな末路がお似合いだ。
誰にも顧みられることなく、ぼろ切れみたいに呆気なく死ぬ。
それで充分だ。これで――良かったんだ。
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