推しがあと10日でいなくなると聞かされたオタク高校生の話
住宅街の一角にある公園のベンチで、高校の同級生である
かれこれ一時間ほど経っているだろうか、時刻は19時になりかけている。5月で日中は暖かいとはいえ、夜は冷えるしもう周りは薄暗い。
さすがに心配になってきて、私は潜んでいた植え込みの陰からそっと抜け出した。
「あのー、津々見さん? 大丈夫?」
「……誰?」
恐るおそる声をかけると、切れ長の双眸が訝しげに私に向けられる。認知されていないのは当たり前だ。私はずっと津々見さんを見てきたけど、津々見さんにとって私は学校で時々すれ違う同級生Aでしかないのだ。
気まずい思いを感じつつ目礼する。
「私、隣のクラスの
暴れそうになる心臓をなんとか抑えつつ、当たり障りのない台詞を心がける。
津々見さんは「ああ……」と泣き出す前みたいにくしゃりと表情を歪めてから、声を押し出すようにして言った。
「余命宣告されたんだ」
「えっ」
想像の遥か上を行く返答に絶句する。余命宣告って、私が知ってるあれ? じゃあ、津々見さんはあと数年の命とか、そういうこと? いや、この深刻ぶりから察するに、もしかしてす、数ヶ月とか……。
頭の先から血の気が引いていく。よろめきそうになるのを、両足に力をこめて我慢する。
「よ、余命ってその、どのくらいなのか訊いてもいい?」
「……あと10日」
「ええっ!?」
あまりに短すぎる時間に頓狂な声が出る。余命10日なんてそんなの、今すぐ目の前で津々見さんが倒れたとしても不思議じゃないくらいだ。
でも、と私ははたと理性を取り戻す。津々見さんは顔色が悪いとはいえ、外見は平均的な高校生から外れてはおらず、身体的には健康そうに見える。外見に現れない病気だってたくさんあるだろあけど、そんな今すぐにでもどうにかなりそうな体調には感じない。
「ど、どうしてそんな……」
私の疑問を察したか、津々見さんはふうっと重い息をつく。
「加瀬さん、だっけ。良かったら話を聞いてくれる? 他の人にとっては下らないことかもしれないけど、自分にとっては重大なことなんだ」
「う、うんっ。聞く聞く!」
「じゃ、座ったら」
促されて、私は津々見さんの隣に腰を下ろした。うわー、私いま、津々見さんと同じ木材の上にいるんだ。自覚するとドキドキしてしまう。
津々見さんは独り言みたいに話し始めた。
「自分はその……アイドルオタクで、長いあいだ推してきたアイドルがいるんだ。
ひゅ、と私の喉から変な音がした。今月末、つまりそれが10日後だ。
「い、引退って……でも、アイドルから俳優に転向とかあるんじゃ」
「芸能界から引退するんだって。完全に、芸能活動を辞めるんだ、彼女は」
津々見さんの瞳からぽろぽろと透明な雫が滴り落ちる。それを拭うこともせず、津々見さんは感情を押し殺しながら言葉を継いでいく。
「あと10日しかないんじゃ、ライブでお別れさえできない……こんなことってある? オンラインの友達には『不祥事で引退するよりいいでしょ』なんて言われたけど、そんなの比べられることじゃないじゃん。加瀬さんには伝わらないと思うけど、推しは自分の命と同じなんだ。だから本当に、どうすればいいのか分からない」
津々見さんがぐすん、と鼻を鳴らす。
「彼女がいない世界じゃ生きていけない。もう……自分が生きてる意味、なくなるかも。だから」
「だから、余命宣告ってことなんだね……」
津々見さんがこくりとうなずく。その姿は吹けば消えそうなほど儚かった。
津々見さんが身を捧げるほどに推しているアイドル。その存在を、私はもちろん知っていた。
そして、推しがあと10日でいなくなると聞かされたオタクの気持ちが、私にも分かる。
分かってしまう。
津々見さんに比べたら歴は浅いけど、私も命を賭けるほど推しに入れ込んでいるから。
「津々見さんの気持ち、分かるよ」
「そんな、分かりっこない。だって」
「推しがあと10日でいなくなると聞かされたオタクの気持ちでしょ? 分かるよ。私の推しは、あなただから 」
ああ、言ってしまった。誰にも言ってなかったのに、よりによって推し本人の前で。
案の定、津々見さんは目を丸くしてあんぐりと口を開けている。
「推し? 加瀬さんが、自分を? なんで、意味が分からない」
「……絵」
「え?」
「津々見さん、絵を描いているでしょう。私、あなたの絵が好きなの。ほんっとーに心の底から、涙が出るくらい大大大好きなの。初めて見たときに一目惚れしたんだ」
津々見さんの絵を初めて見たのは去年の文化祭、美術部の展示だった。雷で打たれる、なんて表現があるけれど、本当にそういう出会いがあるのだとそのとき思い知ったのだ。
津々見さんの作品は抽象画で、具体的なものは一切描かれていないのに、絵を描いた人の情熱だとか狂おしさだとかときめきだとかが、ズギュンと心臓に突き刺さってきた。色がたくさん使われているのに、すべてに意味があることが素人にも分かる。絵の具の盛り上がりもすごく生々しくて、私は脈拍が
私は津々見さんの絵に出会ってから、描き手のことも気になりだして、高校にいるあいだはずっと津々見さんのことを気にするようになった。廊下の陰からちらちら見守るだけじゃ飽き足らず、進級したときに美術の教科係になり、美術準備室で制作途中の津々見さんの絵を見て鼻血を出しかけたり、今日みたいに帰路を途中まで追いかけたりしている。いや、自分のヤバさは重々意識している。だからこそ推しバレ回避にはめちゃくちゃ気を遣ってきたのだ。もう、その努力も水泡に帰したけれど。
「だからね、私には分かるの。私も、津々見さんが世界からいなくなったらどうしていいか分からないから」
私が熱意やこれまでの行動を早口で説明し終えると、津々見さんはドン引いていた。それはそうだろう。私だって周囲に自分みたいな常軌を逸した人間がいたら引く。だから隠していたのだ。
私はただの重すぎる津々見さんオタクだ。津々見さんの絶望をどうにかなんてできっこない。推しがいなくなると聞いてうちひしがれている津々見さんに、生きてほしいとか死なないでとか、無責任に励ますことも違う気がする。
「……ねえ、描いて」
次に私の口から飛び出したのはそんな言葉だった。懇願の色を帯びた、切実な響きだった。
「津々見さん、人間の感情をどれだけ自分の筆で表現できるか挑戦したいって、学年通信の2月号のインタビューで言ってたでしょ。だったら描いてみない? 今のあなたの気持ちを」
「……。そんなことまで覚えてるの?」
「覚えてるよ。私、自分でも引くほど津々見さんオタクだもん」
津々見さんが俯いて下唇を噛む。表情に表れているのは、逡巡と葛藤だ。
「でも……不謹慎じゃないかな。推しが引退するときの気持ちをネタにして、作品にするのって」
「だったらさ! 私にしつこく頼まれて、延々とお願いされて、脅されたから断れなくて描いたって思えばいい。それじゃ、駄目?」
私が勢い込むと、津々見さんは反対に上体を仰け反らせた。ああ、失敗した。その場のテンションだけで推しを怖がらせてしまった。もう、終わりだ……。
私がショックを受けた顔がよほど酷かったのか、津々見さんの口元にふっとほのかな笑みが浮いた。
笑った。笑ってくれた。私の目の前で、推しが。
ふるふると、半ば諦めたように津々見さんが頭を振る。でも、その表情は何かを吹っ切ったみたいに晴ればれとして見えた。
「加瀬さんって面白いね。顔は大人しそうなのに」
「め、面目ないです。恐縮です」
「あは、何それ。……加瀬さんに言われて気が変わったよ。どのくらいできるか分からないけど……やってみる。描くよ」
「! ほ、ほんとう?」
「うん。このぐちゃぐちゃな気持ちを絵に描いて、そのあとどうするかは……絵を完成させてから考える」
津々見さんの一言ひとことが、私の魂を震えさせる。安堵して視界が潤んだ。凛々しい表情に戻った津々見さんは、えもいわれぬほど格好よかった。
「さて、そろそろ帰らなきゃね」と津々見さんが呟いて立ち上がる。私たちは二人して同じ柄のスカートをぱんぱんと払った。
「ねえ、連絡先交換しようよ」
公園の出入口に向かいながら、津々見さんが言う。思いがけない提案に私はぴゃっと飛び上がった。
「ひえっ!? い、いや、推しの連絡先が自分のスマホに登録されてるとか解釈違いなので……無理です」
「ええ……」津々見さんの呆れた声。
「め、めんどくさくてごめん」
「いや、いいよ。オタクってめんどくさいよね。私もそうだから分かる。……でも、もう私たち友達でしょ? 自分は、ゆかりと連絡取り合いたいけどな」
「んぷゃっ!?」
「なに、今の声」
いやいやいや、そんな無邪気な笑顔でこちらを見ないで頂きたい。推しからの突然の呼び捨て名前呼びなんて破壊力がありすぎる。危うく私の余命がゼロになるところだった。
観念して、上擦りそうになる声をなだめながら彼女の提案を受け入れる。
「わ、分かった。交換、しよう」
「うん。あと、今後付きまといはやめてね。普通に話しかけてほしい。……明日から真剣に絵に取り組むから、見ててね。ゆかり」
私は壊れた玩具のようにぶんぶんぶんと大きくうなずきを返した。
推しがあと10日でいなくなると聞かされたオタク二人は、こうして変な経緯で友達になったのだった。
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