第8話

月明かりが射しこむ夜のこと、いつもは閉めているカーテンをあえて開け放ち、私は隣人が再び訪ねてくるのを寝たフリしたままベッドのなかで待った。

深夜二時を回ってウトウトし始めたとき、外から戸を開ける音がした。

 来たな、と思った私は薄眼を開けてガラス戸に視線を送っていると、壊れた壁をくぐった隣人が私の部屋の前に立った。下ろした髪は肩甲骨の辺りまで届き、ときおり風になびいていた。外にいたら寒いのではないだろうか。

隣人は切れ長の目をさらに細めて部屋のなかを覗き、私が寝ているかどうかを確かめているようだった。それから胸に手を当て、静かに深呼吸していた。

やがて意を決したように息を吸ったまま止め、息を吐くような声で子守歌を歌いだした。

 か細い声でもその歌は私の耳に届き、せっかく振りほどいた眠気が再来してきた。

 このままでは負けてしまう、と私は腕に力を込めて起き上がり、ベランダに向かった。彼女にどんな意図があろうと、正体さえわかっていれば怖いものではない。ガラス戸の鍵を開け、戸をスライドさせて彼女と邂逅した。

 まさか出てくるとは思っていなかったのか、隣人は驚いたような表情のまま固まっており、耳に嬉しい歌声も止まってしまった。

「なに?」

 これはどっちの声だろう。私のものにも思えるし、隣人のものにも聞こえた。どうやら私は緊張しているらしく、自分が話しているのかどうかもわかっていなかった。

「子守歌、なんだが」

 隣人はそう言った。なぜそんなものを人の部屋に不法侵入してまで歌っているのかはわからないが、彼女の青くなった唇や微かに震えている指先を見て、手を取って部屋のなかに引きずり込んだ。

「あの」

 隣人の呼びかけを無視して暖房のスイッチを入れ、彼女に毛布をかぶせた。キッチンでココアでも入れようかと思ったが、親にバレるとまずいので部屋からは出なかった。寒かろうと我慢してもらうしかない。

「いつから?」

「えっと、一〇分くらい前から」

「じゃなくて、何日前からこんなことしてたのかってこと」

「それなら、一昨日から」

 毛布にくるまれ、おそらく正座の姿勢であろう隣人は私を見上げ、申し訳なさそうな、または困っているかのような表情だった。

「何で私が怒られなければならないのかはわからないけれど、歌えって言ったのは君だろう。下手、だったかな」

「いや、言ってないし」

「いや、確かに言った。一昨日の深夜二時ごろ、ベランダにいた私に向かって部屋のなかからそう言ったんだ」

 隣人は膝立ちになり、今にも掴みかかってきそうな勢いで話し始めた。

「わけはわからなかったけれど、私のことを必要としてくれているんだと思ったら嬉しくなって、気づいたら壁を蹴破って君の所に来てた。一曲歌い終わる頃には君も静かになって、眠っていたんだろう? 昨夜は会いに来てくれたから、今夜は話せると思ったのに、知らないだなんて」

 熱が冷めていくようにだんだんと力の抜けた話しかたになり、最後は聞き取ることさえ難しくなった。

「あー、もしかして、寝言かな」

 私はいい辛いことだが、最も可能性の高そうなことを挙げた。隣人は目を見開き、頭を振ってなにかを否定しようとしていた。

「今日まで知らなかったんだけどさ、どうやら私は寝言がひどいらしい。はっきりした口調なんだって」

「でも、私が歌い出すと静かになった。あれは聞く態勢だったり、眠ったりしたからじゃ」

「私にもわからないけど、子守歌はよかったよ。すごく眠くなる。それでも、あなたに頼んだ覚えはないよ」

 そんな、と隣人は顔を俯かせ、肩を落とした。

「そう。あなたにも、私は必要なかったのか」

 そのようすがあまりにも見ていられなかったので、いくつか聞きたいことを聞いて、嫌な空気の払拭を試みた。

「あのさ、今朝、何で写真撮ってたの?」

「うなじが綺麗だったから」

 衝動だけで撮るのか。

「歌、得意なの?」

「好き」

「なら、何で音楽専攻しなかったの?」

 なぜそんなことまで知っているのだろう、といったようすで隣人がこちらを見上げてくるが、クラスメイトの姉から聞いたなど、経緯を説明するのが面倒だったので黙殺した。

「どうせ、虐められてるし、自分の好きなものまで貶されたくなかったから」

「でも、歌いたかった?」

 隣人は頷き、すがるような目つきで私を見た。私から歌を取らないで、といったところだろうか。

「私の寝言さ、歌うと聞こえなくなったんだよね」

 隣人はうなずいた。

「もし、あなたの歌を聞くことで、私の寝言が収まるならさ、互いにとっていいことだよね?」

 隣人は頷かなかった。私の言っている真意がわからなかったのだろう。

「もしかしたら偶然かも知れないからさ、寝言が収まるって証明できるまで聴かせてよ。あなたの歌」

「いいの?」

 隣人の顔はみるみるうちに明るくなり、私に飛びついてきそうな勢いだった。それから彼女は立ちあがって私をベッドに押し込むと、ベッドの近くに座りこんで小さな声で歌いだした。

 軟水のように柔らかく私の耳朶に染み入るその声を聞いた途端、もっと聞いていたいと思う気持ちに反して眠気はより強い力で私を襲ってきた。

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