2話目 性善説とメンソール

 都心にある高層マンション最上である47階。学生から社会人になり、20年以上戦い続けて手に入れた私の城。ここから見下ろすと、人は視認できない砂粒になり、空が廻れば、街は万華鏡のように姿を変えた。


 私は何を見るでもなく、胸ポケットからタバコを取り出し、先端をデュポンのライターで点火する。吸い込んだ煙は肺へと染み渡り、血管を細め、脳内の酸素を奪う。それから生じる酸欠状態と細胞の自浄作用が、一種の快感と興奮へと変わる。


 昼間の街は光の下で無味乾燥に統一、あるいは個性を殺すよう強いられたかのような無機質な色彩を放ち、夕方になれば落ちる夕日の赤と、黒の影を纏い、夜を迎える頃には存在を訴えかけるように、思い思いの光を放つ。夜明けには朝を産み出すように、あるいは逃れるように、ひとつひとつと消えていく。



 私はここから見る景色を愛していた。光のそばには人がいて、それぞれの人生がある。だが今日は、多数の人間の中に在るのに、独りであるという思いを強く感じた。


「誰でも死んで消えていく。 迎えに来てもらうか、自分から向かうかの違いじゃないか」


 どこからか生まれ、口から漏れ出した言葉は、私にある種の陶酔と背徳感をもたらし、死への決意と生への希望を諦めるように促しているようだった。私は気恥かしさから、自嘲をこらえられなくなった。


 しかし今日は、感じるよりも温かくはないようだ。タバコを持つ左手が、ずっと震えている。温めてやろうと右手で包み込もうとすると、左手首に長く走る傷が目に入る。


「ははは、そうだったな……」


 何を迷うことがあったのだろう。すでに、死へと臨んでいたじゃないか。何度も繰り返して、その度に踏みとどまって、背徳と焦燥に陶酔していたじゃないか。死んで償うという思いから死に旅立とうとして、土壇場になって生にしがみつく。その繰り返しから生まれる、後悔と無力感というナルシシズムに浸っていたではないか。


 喜多嶋肇、そんなことがお前に許されるのか? 償いを口にするだけで、先延ばしにするだけの大馬鹿野郎でいたいのか? お前を知り、愛し、信頼するものはお前の不誠実を許容してくれるのか? 犯した罪から目を背け、生きていけるだけの狡猾さと図太さがあるのか?


「悪は例外なく裁かれる。自分が思う正義を貫きなさい」


 私には死ななければいけない理由がある。それが償いであり、愛する家族からの教えなのだから。自分の意思を伝えに部屋へと戻る。

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