(5)

 黒いシルヴィアが窓の鍵に手を伸ばした。

 かちり、と小さく音がしてガラスの窓が開く。

 ひんやりとした夜風が黒い髪となめらかな頬をなでる。

 その風を受けて、部屋全体がぐらりと揺れた。

 板で作られた直方体の展開図のように、部屋の壁が四方に開く。

 壁と天井と絨毯が、僕のはるか背後へと一瞬に遠ざかる。

 さっきまで窓の中だけに閉じ込められていた夜空の景色が僕の周囲いっぱいに広がった。

 豪華に整えられた調度類も、すべてかき消されるようにして見えなくなる。

 黒いシルヴィアの姿は、いつの間にか、なかった。

 おそらく、自分の配置に付いたのだろう。

 見渡せば四方も、足元も、頭上も、冷たい星の光がとても遠くで瞬く夜空の只中だった。

 数えきれないほどの星々と星雲状の銀河のいくつかが、細かな宝石を振りまいたかのように暗闇の中に散らばっている。

 その星々が、僕の左右を高速で流れ始めた。

 僕の遥か前方で輝いていたはずの星と銀河とが、次々と目の前に現れては、あっという間に左右を通り過ぎてゆく。

『回廊』が引き延ばされているのだ。

 九歳から、十六歳へと。

 無数の光が針のように闇を突き刺しながら流れてゆく。

 どっと吹き付ける風がはるかに前方から押し寄せて、僕を包み込む。

 思わず両手で自分の肩を抱く。

 寒い。

 吹雪の只中に晒されているかのように、凍てつく風が僕に吹き付けてくる。

 一度は完全に失われていた七年ぶんを一息に引き延してゆく反動が、『回廊』全体を震わせる。

 嵐のように吹きすさぶその音が、僕の鼓膜をひっきりなしに響かせる。

 やがてはるか前方に散らばっていた星々と銀河のほとんどが、僕の後背へと流れ去った。

 暗く冷えきった空間に存在するのは、僕と、僕の手の中にある銀の鍵だけ。


 だけど。

 まだ、あった。

 ひとつだけ。

 息を飲んで、『それ』を見つめる。

 銀の鍵を握りしめながら。

 


 激しくうずまく緑青色の銀河がひとつだけ、真っ暗な夜空の中心に輝きながら残っていた──

 


 星雲状の銀河は、よく見ると、らせんのように渦を巻きつつも、その中から時折鋭い牙や、長く伸びた鉤爪が飛び出している。

 ごつごつとした骨の足が生えては、すぐに銀河の渦の中へ沈んでゆくのを繰り返していたが、やがて全ての脚が星雲の中から生えそろって四足獣の姿になった。

 それはまだずっと遠くにいて、僕のところからでは指先ほどの大きさにしか見えなかったが、そこから次第に実体を確かにしてゆく様子がはっきりと見えた。



──ティンダロスの猟犬。



 巨大な頭を不格好に突き出し、引き裂かれた顎がぱくりと開いて、長く伸びた牙と注射針のように先の尖った真っ青な舌をのぞかせる。

 あいつをおびき出さなければならないというのか。

 僕自身を餌にして。

 自分で自分を両腕で抱きしめて、それでも僕のふるえは収まらなかった。

 けれど、そうしなければ、僕は永遠に僕自身を取り戻せない。

 


──いや、僕だけじゃない。



 じんわりと手の中に残るぬくもりと和毛の手触りを思い出す。

 肩からはなした右手をそっと開く。

 


──銀の鍵。



 太陽の光はおろか星の輝きすらもない漆黒の闇の中で、小さな鍵の青い宝石が僕の手のひらの上で優しく光っている。

「シルヴィア……」

 目を閉じる。

 もう一度、鍵を握りしめる。 



──大丈夫だよ。僕が、いるから。ずっと、いるから。


 自分が言った言葉を、自分に繰り返す。


──そして必ず……。



「僕を捜しているんだろう!」

 再び目を開き、彼方で渦巻く青緑の銀河に向かって僕は叫んだ。

「ここにいるぞ!」

 はるか前方でひたすら円周を描いていた軌道が、その場で回り続けるのをやめ、ぐるりと方向を変えてこちらを向いた。

 遠くから、咆哮が轟いた。

 僕の呼び声が聞こえたのだ。

 緑青色の『猟犬』がやってくる。

 今度こそ、僕の存在全てを食い尽くし、飲み込んで、僕の持つ『回廊』の力を手に入れるという身の毛もよだつ欲望を果たすために。

 緑青をふいた骸骨のような四肢が星ひとつない闇を踏んで、不気味な燐光の火の粉を振りまきながら一目散にこちらへ駆けてくる。

 巨大な顎を持つ頭と胴体が星雲状の銀河の渦から飛び出しながら走ってくるのが、まるで長々となびくマントかたてがみを引きずっているかのようにも見える。

 その青緑にたなびくガス状の銀河が突如、丸く切り取られる。

 見えないコンパスで、くるりと円を描いたように背中の一部がかき消される。

「え……?」

 二度、三度と繰り返し、漆黒の虚無が『猟犬』の渦状の胴体と脚とを削り取ってゆく。

 いや。

 目を凝らす。

 切り取られているのは『猟犬』だけではなかった。

 僕と『猟犬』以外に何もないはずの空間が、それよりもっと暗く、底知れぬほどに深い淵の中へと向けて次々と、見えざる誰かの手ですっぱりと切り落とされていっているのだ。


──『回廊』を切断する。

──そこへ『猟犬』も巻き込んでしまえばいい。


 そんなことができるのは、一人しかいない……。


 異変に気付いて『猟犬』は辺りを見回しながら怒りの声を上げたが、そんなことを仕掛けてくる相手に反撃などできるはずもないと気付いたか、削られつつある渦の中から再び緑青色の骨の四肢を伸ばして駆け続ける。

 左前脚から頭の半分までもが一瞬に削り取られながらも、次の刹那には青緑に煙る星雲の中から再び失われた部分が生えてくる。

 そいつには諦めることなど微塵も浮かんでは来ないのだろう。

 消される前に、喰らってしまえばいいのだと。

 僕を目がけて襲いかかる。

 まっしぐらに。

 見る見るうちに近づいてくる。

 駆け抜ける彗星のように素早く。

 青黒く燃えるガラス玉の目が僕を捉えている。

 ごくりと、僕の喉が鳴る。

 心臓が激しく早鐘を打つ。

 もうそこまで来ている。

 腐臭の混じる吐息と吠え声が僕の顔にかかる。

 鋭く伸びた鉤爪も、無数に牙の並んだ顎も、そこからのぞく針のように先の尖った長い舌も、今や僕の目の前にいる。

 時計塔の影の中から僕を貫いたときのように。

 その時と同じ声が、僕を呼んだ。

 銀の鍵の中から──



──ランディ……!



「シルヴィア……!」

 僕に力を。

 銀の鍵を握りしめ、祈りを込める。

 そう。

 今こそ、鍵を──



「シルヴィア!」



 目も眩むばかりに輝く銀の雷(いかづち)が天頂方向から真っ直ぐに降り注ぎ、『猟犬』の身体を轟音と共に貫いた。

 耳をふさぎたくなるほどの絶叫が果てない闇の中に響く。

 遥か真下からも、同じほどにまばゆい雷撃が駆け上り、緑青色の胴体に深々と突き刺さった。

 続いて右からも、左からも、四方八方から次々とほとばしる銀の光が真っ暗な夜空を裂いて駆け巡り、目の前に迫った獣の図体を激しく串刺した。

 雷(いかづち)を受けるたびに『猟犬』は大きく裂けた口からひっきりなしに苦痛の咆哮を上げる。

 だが、貫いた雷光は消え去ることも無く、そのまま僕の目の前で『猟犬』を闇の只中で突き刺し続けている。

 めった刺しにされながら、なおも『猟犬』はじりじりと僕の方へと迫ってきたが、その長い爪がもう少しで僕に届くかというところで、斜め上下から同時に打ち込まれた雷光に縫い止められるようにして遂にそこから一歩も動けなくなった。

 まるで、銀色の蜘蛛の巣にかかった虫けらのように、『猟犬』は僕の目の前で無様に捉えられていた。

 九歳の僕がはるかに見上げるほど巨大な四足獣の身体が激しく痙攣する。

 磔(はりつけ)にされたままの『猟犬』は、それでも起死回生の望みをかけて、僕の方へと必死で首を伸ばし、大口を開け、鋭い牙で僕の喉笛に食いつこうとした。

 間断なくうなり声を上げながら、僕を引き裂こうとする前脚の鉤爪が、僕の鼻先を何度も横薙ぎになぎ払う。

 今にもそれらの凶器が僕の身体に届いて喰いちぎり、切り刻み、すべてを終わらせてしまいそうで──

 だが僕は眼前で猛り狂う『猟犬』から目をそらすことはなかった。

 針のように先のとがった長く鋭い舌が目の前をかすめる。

 底なしの恐怖が僕を押し潰そうとする。


──シルヴィア。


 目を閉じてもう一度、鍵に祈った。

 奈落に向かって崩れ落ちてしまいそうになる自分を、かろうじて繋ぎ止める。

 シルヴィア。

 再び目を開く。

 目の前の『猟犬』が、ずらりと牙の並んだ顎で僕に食いつこうと大きく口を開いている。

 だが寸前で、顎に並んだ無数の牙はぞろぞろと抜け落ち、暗い虚空の中へと溶け落ちていった。

 耳障りな吠え声が、徐々に力を失ってゆく。

 異様に細長い舌も途中でぶつぶつと千切れて落ち、蒸発する。

 そのままゆっくりと、動きを止める。

 渦巻く星雲状の胴体が求心力を失い、闇の中に吹き散らされる。

 手も脚も、本物の緑青のようにぼろぼろと崩れ、夜空に消え去る。

 骸骨のように残った身体が急激に色を失う。

 やがて氷河のように真っ白に凍り付いたかと思うと、無数の亀裂が全身を覆い尽くし、鉄槌を振り下ろされた塩の彫刻のようにあっけなく、『猟犬』は微塵に砕け散った。



「あっ……」



 白銀の光が一瞬視界を奪い、僕は片手を上げて目をかばった。

 砕けた『猟犬』の欠片が降りしきる雪のように辺りを覆い尽くし、僕の周囲はまるで吹雪の中のように真っ白に覆い尽くされた。

 その白いカーテンのような景色の中に、一人の少年の姿があった。


 黒い髪に、少女めいた面差しの東洋人の少年。


──黒いシルヴィア。


「君は──」

「うまく鍵を使えたね」

「え?」

 右手を開き、視線を落とす。

 僕の手のひらの中に、銀の鍵はまだあった。

 それが何故か温かく、柔らかな毛並みの感触を宿しているような気がした。

 細長い楕円の頭部にはめこまれた宝石が、猫の目のように青い輝きを放っている。

 こんなに小さいのに、ずしりと重い。

 それを胸に抱いた。

 再びこの鍵に出会うとき、僕の『回廊』は僕をどこへと誘(いざな)うのだろう?

 手の中からふっと、鍵の重みが消えた。

「あ……」

 開いてみた手のひらに、銀の鍵はもうなかった。

「そんな……」

「また、会えますよ」

 すべてを見届け、黒いシルヴィアは僕に背を向けた。

「待って! 鍵は……!」

 雪のカーテンの向こうに歩き去ろうとする後ろ姿に、僕は手を伸ばした。

 だが、届かない。

「え……」

 こつんと、固い感触が僕の指先に触れた。

 手を伸ばせば届きそうなほど近くにいるのに、黒いシルヴィアと僕の間は、透明なガラスのようなものでくっきりと遮(さえぎ)られていた。


 既に『回廊』は切断され、鍵をかけられてしまったのだ──


「鍵は、再び開くためにあるのですよ」

 彼の声だけが、僕に届く。

「え……」

「きっと会える」

 黒いシルヴィアは猫のように静かな足取りで、僕の中の『回廊』をそっと帰っていった。

 内側から『回廊』の扉が閉ざされ、白い吹雪のカーテンも見えなくなった。

 遠くから、かちりと鍵のかかる音が聞こえた。

 もう一度、彼に呼び掛けようとしたが、結局、僕は彼の本当の名前すら知らなかったのだと、今さらながらに思い知らされた。



     *     *     *



 ずしん、と重たげな振動が足元に響いた。

 はるか上空から、巨大な金属の固まりががらがらとぶつかり合うような音が聞こえ始めた。

 見上げると、僕の頭上でいくつもの大きな歯車が噛み合いながらぐるぐると回っているのが鈍い輝きを放って見えた。

 それに合わせるかのように、足元がゆっくりと、僕を中心にして回転を始める。

 今度はがたんと、ずっと下の方で、列車の連結器が外れるかのような重々しい音がした。

『回廊』が動いている。

 二つの数字に切り離され、あるべき姿の形に向けて。

 ぐるりと回転しつつ、離れてゆく。

 それに合わせて僕自身も、ぐるぐると回りながら、らせんを描いてどこか遠くへと運ばれてゆく。



『回廊』の扉が遠ざかる──。



 頭上に見えていたはずの巨大な歯車はいつしか姿を消し、金属同士が噛み合う重い音も、だんだんと遠ざかるうちに、いつの間にか、小さな腕時計の中で回る歯車のようなかすかな音に変わり、やがて消えていった。

 辺りが真の闇に沈む。

 耳が痛くなるほどの沈黙に包み込まれる。

 上も、下も、右も、左も、わからない。

 自分の手も足も体も、なにも見えない。

 ここはどこだ?

 僕はどこにいる?

 いや──

 僕はいったい誰だ?

 そもそも「僕」は「いる」のか?

 かき消されるように、ぼんやりと薄らいでいく記憶の奥底で、かちりと、小さな金属の音がした。


──そうだ。


 どうして忘れていたりなどするだろう。

 

 君がいるじゃないか。

 君がそこにいるのなら、僕もいる。

 やわらかな和毛の手触りとぬくもり──

 猫の目のような青い宝石をはめ込まれた銀の鍵を、あのとき確かに僕は……




 目を開く。

 机の上に突っ伏していた身をがばりと起こす。

「あ……」

 

 書きかけのレポート用紙にインクがにじんでいる。

 無味乾燥な記述を並べた生物の参考書は開きっぱなしで。

 望遠鏡は、どこにもない。

 電気の消えた懐中電灯だけが転がっている。

 カーテンが開いていて、明るく白い早朝の光が寄宿舎の自室を照らし出していた。

 白い猫の姿は、なかった。

 銀の髪の少年も。

 黒髪に黒い瞳の少年もいない。

 僕の胸の奥底は、どこまでも、どこまでも空っぽで、誰もいなければ、ささやき声ひとつ聞こえても来ない。

 まるで最初からそんなものはどこにもいはしなかったのだとでも言うかのように──



「ああ……!」



──泣いているのか?



 ゆうべ、そう言ってくれた人は、もうここにはいない。

 胸の奥の、奥の、奥底に耳を澄ませても、何も聞こえてはこなかった。

 鍵が触れる音も、猫の声も。

 妖精の囁く声も……。



「シルヴィア……!」



 なんて味気ない。

 なんて容赦のない。 

 椅子の背もたれに全体重を預け、僕は右手で顔を覆った。

 その手に雫が触れて、それでやっと、どうしてインクがあんなににじんでしまっていたのかが、わかった。


 でも。

 それでも、僕は──


 顔を片手で覆ったまま、机の上に伸ばした反対の手が一冊の文庫本に触れる──



──僕の銀の鍵はどこにある?

──僕の妖精はどこ?



 会いたい……会いたい。

 会いにいこう。きっと。その日のために、だから──

 嗚咽をこらえきれないまま、ただ必死で僕はその本にすがった。



 だけど、それはいったいいつのことになるのだろう?



 僕の胸の中と、失われた鍵の中に、僕の妖精は今もいる。



     (終わり)




《黒いシルヴィアの本当の名前がなんなのか、彼が最初に持っていた鍵が誰のもので、どうやって生み出されたのか知りたい方は『カクヨム』投稿済みの『青い回廊と西王子家断絶の次第』『猫のゆくえ』をお読みください。》

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妖精奇譚 日暮奈津子 @higurashinatsuko

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