(3)
真昼の光が明るく照りつける丘の上で、僕は持っていた望遠鏡を右目に当てた。
急激に視界が手元に寄り、引き換えに、視野は著しく狭くなる。
鬱蒼と茂る木の葉の緑が望遠鏡の丸いレンズを覆い尽くしていて、森の中の様子は全く見えない。
あきらめて、接眼レンズから目を離す。
伸縮式の鏡筒を短く収納してポケットにしまう。
九歳の誕生日に買ってもらったばかりの望遠鏡だった。
ふっと、ひとつ息を吐いて、今度は自分の目で森を見る。
どこからか風が吹いて、僕の背中を押した。
そのまま一気に丘を駆け下りた。
──急がなくちゃ。
一直線に森へと向かう。
速度を緩めることなく、木々の間へと駆け込んだ。
下生えを踏み越え、小枝をかき分けて奥へ進む。
既に日は中天にかかっている。
日の暮れるまでに、森の奥の洞窟を見つけなければならないのだから。
あっと言う間に全身が汗まみれになり、息が上がる。
焦るばかりでちっとも奥へと進んでいないような気がしてならない。
なのに、疲れは全く感じなかった。
──きっといる。
その思いだけが、僕を突き動かしていた。
──森の魔法使いと、妖精と。
でも。
──いないかもしれない。
ふと頭をかすめた思いに、胸が締め付けられ、鼻の奥がつんと痛んだ。
魔法使いも妖精も、本や伝承の中だけの儚(はかな)い幻想に過ぎないのじゃないか。
本当にそんなものが森に棲んでいるなんて、そう思っているのは僕だけじゃないのか。
心の奥で何かがひきつれて、張り裂けそうになる。
ずっと抱えていた大事な物が、僕の手をすり抜けて、落として割ってしまいそうな。
低木の小枝がぴしりと僕の頬を打った。
でも──
それらを振り払い、いっそう足を速めて、僕は薄暗い森の中を進んでゆき……
「あっ!」
ずるりと足が、湿った落ち葉の堆積をまきこんで滑った。
体勢を崩し、急な斜面を倒れ込みながら凄い勢いで滑り落ちてゆく。
つかもうとした草の葉が手の中であっけなくぶつぶつと切れる。
逆さまの視界の中、木の間がくれにわずかな夕陽の光が宝石のように散る。
ふわりと一瞬、体が浮く。
視界が、暗くなる。
その一瞬をひどく長く感じた後──
「うわあっ!」
悲鳴を上げながら、柔らかい何かの上に体が落ちた。
周りは暗くて良く見えない。
手探りで、僕を受け止めたのがベッドのようだとわかった。
両手をついて、そっと上体を起こす。
手足を動かしてみても、どこにも怪我はないようだ。
薄暗がりの中で目が慣れてくる。
あまり広くはないその空間を見回す。
洞窟の壁のくぼみにひとつだけ燭台が置かれていて、その上のろうそくの明かりがひっそりと辺りを照らしている。
天井からは、乾いた草木の束や、動物の皮らしき物がいくつも吊るされている。
壁際の本棚には、いかにも古めかしい皮の装丁を施(ほどこ)した分厚い本がぎっしりと並べられている。
大きめの書き物机に向かって、椅子に座ったままの誰かの黒い背中が見えた。
「──来たね」
椅子から立ち上がり、その人影が僕の方へと歩み寄る。
ベッドのそばへ来て、かがみ込む。
ちょうど僕と目の高さが合う。
なのに何故か、顔立ちがよくわからない。
黒いつややかな髪と深い夜空を宿した瞳が僕を見つめる。
古びた紙と、薬草の匂いがした。
──森の魔法使い。
魔女裁判を逃れてきたという、僕の祖先。
その右肩に、小さく輝く何かが乗っている。
「え……」
僕の目が、釘付けになる。
相手の小さな目も、僕を見つめ返してくる。
蝶を思わせる一対の羽根がレースのように薄く透けて、ほっそりとした撫で肩から左右に広がっている。
少女のような姿体から小さな素足がすんなりと伸びて、まるで子供が小川のほとりに腰掛けて流れに足を遊ばせるように、ゆらゆらと揺れている。
ろうそくの光を受けて、淡い銀色の髪が薄暗がりの中で輝く。
銀の瞳が、じっと僕を見ている。
──森の妖精。
「ほんとうにいた……」
「そうとも」
まるで魅入られたように、妖精から目を離せないでいる僕に、黒い瞳の魔法使いはそう言って、肩の上の妖精と顔を見合わせた。
「ここで私たちは、ずっと待っていたのだよ」
「えっ?」
再び、魔法使いと妖精が僕を見つめる。
「七年前、君がここにたどり着けなかったあの日から、ずっと」
妖精が、いる。
僕の目の前に。
銀の妖精が微笑み、小さな手を差し伸べる。
僕の方へ。
その優しい手が、僕の頬にそっと触れる。
「ああ……」
ずっと、ずっと求めていた、探し続けていた僕の妖精──
「──そろそろ時間だ、ランディ」
シルヴィアに呼び掛けられて、僕はベッドの上で目を覚ました。
寄宿舎の僕の部屋で、シルヴィアはカーテンを開けて窓の外を見ていた。
「ほら、見なよ。いい月が出ている」
部屋の明かりは消えていたが、ほのかにさし入ってくる満月の光が、青い夜空を背景に銀髪の少年の姿を浮かび上がらせる。
その光景が何故か、にじんで見えた。
「……ランディ?」
振り返ったシルヴィアが、ベッドの上にぼんやりと起き上がった僕を、けげんそうに見つめる。
「泣いてるのか?」
「……え……?」
問われて、自分の頬に手をやる。
ひっそりと溢れていた雫が僕の右手を濡らす。
指先から手のひらへと、透明な涙がこぼれる。
頬をつたって顎の辺りまで流れている液体の感触がようやく感じられた。
「ランディ……」
「いや、大丈夫。なんでもないよ。──行こう」
手の甲で頬をぬぐってベッドを下りる。
机の上に出してあった懐中電灯を手に取り、心配そうにのぞき込んでくるシルヴィアの顔を見ないようにしながら僕は部屋の窓を開けた。
「ここから出るんだ。寄宿舎の出入り口は鍵がかかっているから」
そっと辺りの様子をうかがい、誰にも気づかれる恐れがないのを確かめてから、僕は一階の自室から窓枠を乗り越えて外に出た。
シルヴィアも、まるで体重などないかのような身軽さで窓を飛び越えたかと思うと、地面に降り立つと同時に白い猫の姿になった。
庭先に植えられた低い木々の影に隠れるようにしながら、足音を忍ばせて僕たちは図書館へと向かった。
もっとも、妖精の足が不用意な物音を立てることなどあり得ないのだろうが。
……夢の内容ははっきりと覚えていた。
だが、それをシルヴィアにすら、話す気にはなれなかった。
これから夜の図書館の冒険に向かうというのに、どういう訳か、心のどこかが重く塞がれたような気分だった。
そうやって、僕の心はいつもため息をついて生きている──
しんと静まり返った真夜中の中庭を抜ける。
庭の植え込みと敷石の通路とが、妙に明るい満月に照らされている。
寄宿舎の前から続く白い敷石は、そこで左右に分かれている。
右側が図書館、左側は時計塔への道筋だ。
右へ曲がり、図書館の正面入り口の扉にたどり着いた。
「どこから入れる?」
猫のシルヴィアが振り返り、僕に尋ねる。
答えず、僕は少し錆の浮いたドアノブに手をかけた。
鍵はかかっていなかった。
「……不用心だなあ」シルヴィアが呆れた声で言う。
「ここ最近は、ずっとこうだよ」扉を開けながら答えたとき、僕はその理由がわかった。
──バートン先生。
初めて夜の図書館に忍び込んだあの日、閉館時間ぎりぎりまでねばって本を読んでいた僕は戸締まりを確かめたバートン先生の後から図書館を出て──
そのとき僕はひとつだけ、入り口近くの窓の鍵を開けておいたのだ。
夜更けに僕は寄宿舎を抜け出し、その窓から図書館へと入り込んだ。
そうして、本の続きを読んだ。
次の日も。また次の日も。
ある時、補講が長引いて、僕は閉館時間までに窓の鍵を開けに行くことが出来なかった。
それでも諦めきれず、僕はまた真夜中の図書館へ行った。
いつもの窓は開かなかった。
その代わり。
自分の未練がましさにほとんど呆れ返りながら手をかけた正面入り口の扉に、鍵はかかっていなかった。
それから一度も、図書館に鍵のかかる夜はなかった。
──先生は、僕が毎晩ここに来ていることに気づいている。
それは、確信だった。
けれど、そこに後ろめたさはなかった。
扉を開け、中に入る。
それでもきっと、僕と先生は、お互い何ごともなかったかのような顔をして、明日また図書館で会うだろう。
──明日……だって?
「どうした?」
入り口で不意に立ち止まった僕を猫のシルヴィアが見上げる。
こんなに不思議な夜を越えたその向こうに、またいつもどおりの明日があるのだろうか?
何の変哲もない明日が来ることを、僕は望んでいるのだろうか?
「……いや……行こう」
──明日なんて、どうでもいい。
そんなものはもう、どうだっていい。
もう、何の価値もない。
足元をするりと白い猫がすり抜ける。
猫の妖精と一緒に、僕も図書館へと入ってゆく。
なにごともない今日を背後に置き去りにして。
そうやって、さっきまではどこにもなかった明日へと僕は踏み越えてゆく……
夜の図書館は、ひんやりと静まり返っていた。
入り口からさし入ってくる月明かりはほんのわずかで、辺りを照らす役には立っていない。
「ランディ……」
先に入ったシルヴィアも、一、二歩進んだだけで立ち止まってしまっている。
「うん、今、懐中電灯を……」
「いや、そうじゃなくて」
シルヴィアが、けげんそうな声になる。
「なにか……変だ」
「変……って?」
懐中電灯をつけ、前方を照らす。
入ってきてすぐのところにある返却カウンターが丸く浮かび上がる。
「え……」
カウンターは一面、緑のツタに覆われていた。
「なんだこりゃあ……」あきれたシルヴィアの声が薄暗がりに響く。
そっけない作りの木製の返却カウンターは、緑色の手を思わせるツタの葉に覆い尽くされ、懐中電灯の明かりを左右に振っても、元の姿はどこにも見出せなかった。
カウンターの背後の壁と本棚にもツタが這い回り、天井まで緑に染まっている。
返却カウンターの上には一冊だけハードカバーの分厚い本が置き忘れられていて、そのすぐ隣りにひとつ、白い花の蕾(つぼみ)があった。
猫のシルヴィアが身軽にカウンターに飛び乗り、小さな鼻で蕾のにおいを嗅ぐ。
「うん。本物だ」
僕も懐中電灯でカウンターの上を照らしながら近づいてみる。
小さな緑の葉に埋もれるようにして分厚い本が置かれていた。
黒い表紙に色あせた金色の箔押しでタイトルがつけられている。
植物図鑑のようだった。
「あ……」
その古びた表紙が、誰の手も触れていないのに、ゆっくりと開こうとしている。
僕たちの目の前で。
猫のシルヴィアも目を丸くして、ただじっと見つめている。
開いた本のページは、真っ白だった。
四角いページがぼんやりと、ほの白く光を帯びる。
うなり声を上げながらシルヴィアが毛を逆立てる。
はらり、はらりと、一枚ずつページがめくれ、やがて徐々に速度を早めてぱらぱらとページを進めていったが、本の半分ほどまできたところでぴたりと止まった。
僕らの前に開かれた、白いページ。
見開きいっぱいに、緑の葉に囲まれた白い花の絵と、蝶の羽根を持つ小さな人影の姿が多色刷りで描かれていた。
白い花の傍らで羽を広げ、五弁の花びらに向けてほっそりとした手を差し伸べている。
「これは──」目を見張る。
僕にはそれが、解った。
──花の妖精。
その小さな顔が、僕たちの方を見た。
本の中から。
「えっ……?」
ページの上から微笑みかける。
厚みを持たないはずの挿絵の妖精が、白い蝶の羽根を広げ、まるで小さなあやつり人形が糸に繰(く)られて起き上がるように、するりと紙の中から現れた。
だがそれは、意志を持たない人形などでは決して、なかった。
白い紙片の上で、ふわりと妖精が舞い上がる。
ページの上に白い花の絵を残したまま。
モンシロチョウのような羽根を羽ばたかせ、図鑑の隣りで眠る蕾のそばにそっと降り立つ。
折れそうなほど小さな手で、蕾に触れる。
ふっと優しく、息を吹きかける。
「ああ……」
固く閉じていた蕾がゆっくりと、ほころび始める。
一枚一枚の花弁が少しずつゆるみ、開花してゆく。
緑のツタの葉の上に、真っ白な五弁の花びらが大きく広がる。
夜の図書館に、清(すが)しい純白の花が咲いた。
ほほえみを浮かべて花の精は僕たちを見上げる。
夜の中に花の香がほのかに薫りたつ。
再び、妖精は羽根を広げて舞い上がり、貸し出しカウンターの上から本棚の並ぶ方へ向かってひらひらと飛んでいった。
「待って……」
「ランディ!」
妖精を追いかけて図書館の奥へと向かう僕を、シルヴィアが呼び止めようとする。
「待てよ! 何がいるかわからないんだぞ!」
構わず、僕はカウンターの前を通り過ぎて妖精の後を追う。
本棚と本棚の間へと妖精が姿を消すのを追いかける。
猫の姿のまま、シルヴィアも僕を追って来る。
二人ほぼ同時に角を曲がる。
本棚のすぐ前で、妖精は羽根を広げて浮かんでいた。
白い妖精はふわりと天井近くまで舞い上がると、本棚の中から自分の背丈よりも大きい本を引っ張り出し始めた。
「何を──」
小さな妖精がうんと力を込め、ようやく引き抜かれた本は、か弱い腕では支えきれずに裏表紙と表紙を大きくばさりと広げながら本棚から落下した。
真っ白い紙の間から、若草色の何かが舞い散る。
「あっ!」
落ちてゆく本が、ページの一枚一枚を全て木の葉へと変えてゆきながら、ひらひらと散り落ちてゆく。
ひるがえる若葉は床に落ちるよりも早く、再び姿を変えた。
「ああ……!」
白い肌と緑の髪を持つ小さな妖精たちには羽根がなかったが、ひらりと身軽に床に降り立つと、まるで幼子のようにはしゃぎながら、飛び去っていた妖精のあとを追って駆け出した。
その小さな足跡からは若々しい緑の葉をつけた木の芽が育ち、あるいは森に咲く可憐な草花が次々と芽吹いていった。
「うひゃあっ……」たちまち自分の頭を越えて伸びてゆく草木にシルヴィアが悲鳴をあげ、人間の姿に変わった。
本棚も、木に人の手を加えて作られた形を忘れてしまったかのように、いつの間にか太い幹に、棚板は木の枝へと変わり、まるで森の樹々が、本に書かれた無数の物語を腕に抱えて守っているかのようだった。
「これって……」妖精達の後について、僕たちは本棚と本棚の間を出た。
懐中電灯で辺りを照らす。
虚空を羽ばたいて飛ぶ妖精が、明かりの中に浮かんだ。
──おいで。
窓の方へ向けて、小さな手を差し伸べる。
──ほら、ごらん。
さあっと室内に風が吹き過ぎ、閉ざされていたカーテンが次々と煽られるように開いた。
青白い月明かりが窓から斜めに差し込んでくる。
澄明な光がそこかしこでスポットライトのように図書館の中を照らし出す。
「あ……」
窓から射し入る月の光に切り取られた中に浮かび上がる。
僕も、シルヴィアも、目の前の光景に言葉を失い、立ち尽くす。
──これを、あなたは探していたのでしょう?
──ずっと、ずっと。
いつしか図書館の壁は彼方へと遠ざかり、机も椅子も、だんだんと、森の木々や夜露に濡れた下草に埋め尽くされていった。
ひっそりと咲く黄色いオオマツヨイグサの傍らで、うすい羽根を広げた妖精がふわりと佇んでいる。
僕の手のひらほどの小さな乙女が何人も、薄衣(うすぎぬ)をまとい、花冠をつけて戯れるようにホタルの光を追っている。
緑なす豊かな髪のドライアドが小枝の上を素足で歩きながら、葉擦れのような声で森の奥に呼びかける。
仲間の声に、木霊(こだま)がまさしくエコーを返す。
それを聞きつけたのか、木の葉の隙間から小さな顔が覗いたかと思うと、透き通った姿の風精(シルフィード)がさらさらとそよ風を呼んで吹き抜ける。
つむじ風と共にエアリアルが天高く舞い上がって森の樹々を揺らし、僕とシルヴィアの髪をかき乱した。
光り輝くウィルオーウィスプがゆるゆると虚空をただよい、辺りを照らし出す。
ぎっしりと天井まで本を詰め込まれていたはずの本棚は、幾重にも年輪を重ねた大木が魂を宿した樹霊(エント)に姿を変え、ざらざらとした木の肌は思慮深さを皺(しわ)に刻んだ古老の面持ちで優しく僕らを見つめる。
けれど、きっとその大きな洞(うろ)の中には、図書館に蓄えられていた全ての本と物語とが抱(いだ)かれている……。
そうして、本の中で語られたすべての物語が置き換えられてゆく。
──妖精に。
目の前にこうして、繰り広げられる。
ひこばえが一本、やわらかそうな若葉をつけて、月明かりに向かって切り株の上から伸びてゆこうとしている。
その周りに生い茂る草の影の中にも、葉に隠れるようにして小さな姿の妖精達が玉虫やてんとう虫と戯れている。
夜気の中で咲く花に、見事に美しい羽根のアゲハチョウがとまっていると思わせて、それもまた、妖精の姿に他ならなかった。
「ランディ」
繰り広げられる光景に溺れるように見入っている僕の袖を、シルヴィアがそっと引いて言った。
「水の音がする」
「……どっち?」
シルヴィアに導かれて、そこかしこで妖精たちがざわめく森の中を進んでゆく。
さほど歩くこともなく、小川にたどり着いた。
「わあ……」
どちらからともなく、声が漏れる。
透き通る小さな川の中で、何冊もの本が水の流れにページをめくられながら沈んでいた。
さわさわと流れるページの中から、ひとり、またひとりと妖精が生み出されてゆく。
水精(ナイアド)が水べりに戯れ、金の櫛で長くつややかな髪を梳(くしけず)る。
互いにたわいもないおとぎ話を語り、あるいは叙事詩めいた歌を澄んだ声に乗せて歌う。
そうして、まるで本に記された物語が小川となって僕の中に流れ込んでくるかのようだった。
「そうだね。君へと流れ込んでゆく……」シルヴィアが、まるで僕の考えを読み取ったかのようにつぶやく。
だが、僕もシルヴィアも全くそれを疑問に思わなかった──
「けれど、君からも流れ出てゆく。ここは君の『回廊』なんだ」
「僕の、『回廊』……?」
川べりの光景を見つめながらつぶやく僕に、シルヴィアがくすりと笑った。
「なんだ、本当に無自覚なんだな。しかし、この森の中から幻夢境へ通じる『回廊』を見つけ出すのは、ちょっと大変そうだなあ……」
「……もしかして、僕が来たせいで余計にややこしいことになったんじゃ……?」
「それはわからないけれど……いや、待てよ? 流れ込んでゆくその先にある、ということもあり得るか……?」
シルヴィアは少し考え込んでいたが、また猫の姿に戻ると、小川の流れてゆく先の方のにおいを嗅いだ。
「……うん、なんとなく、懐かしいにおいのような……」
「わかるのかい?」
猫のまま、小川にそって歩いてゆくシルヴィアの後を僕もついてゆく。
川べりの草むらをかき分けて二人で歩いてゆく。
時折、木の影や草むらの中から淡い光を宿した妖精がホタルのように、ふわりと舞い上がる。
水面(みなも)に映るその輝きに、川の中から水精(ナイアド)がすき通る手を差し伸べる。
樹々の枝葉の隙間から漏れる月明かりが、かすかに行く先を照らす。
確かにこれは、あの日、九歳の僕が見たいと願った光景だった。
だとしたら、この先にあるのは──
「間違いない。こっちだ」鼻をひくつかせていたシルヴィアが足を早める。
白い猫の後を、僕も追う。
期待と不安にどきどきと脈打つ心を抱えて。
──あるのか。この先に。
──シェイクスピアでさえも、この世界の誰ひとりとして想像すらしたこともない、見果てぬ彼方の夢の世界が……。
急激に川幅が広がって、小川の流れがゆるやかになる。
流れの先、樹々が途切れて開けた場所があるのが見えた。
押さえきれなくなった期待に、二人で駆け出す。
「わあ……」
木立が開けて、小さな草地が広がっている。
ごく背の低い草が夜風にゆれて、やわらかな若葉の色に周囲を染めている。
その真ん中に、澄み切った水をたたえた泉があった。
鏡のように静まり返った水面(みなも)に、丸く輝く満月が照り映えている。
ぽっかりと、その泉の周りだけは木立が途切れていて、木の葉にさえぎられることもなくなった満月の光と星明かりとが、草萌ゆる広場を照らし出す。
はっと、そこで僕たちは足を止めた。
息を呑んで、見守る。
草地の上には何人もの妖精たちがいた。
蝶の羽根の妖精、かげろうのような薄い羽根の妖精に、羽根を持たない妖精らが、小石の上に腰掛けたり、地面の上で頬杖をついて寝転んでいたり、仲間の妖精たちとじゃれ合ったりしている。
そうやって、思い思いに過ごしながらも、時折なにかを待ってでもいるかのように夜空を見上げている。
つられて僕らも上を見る。
そして妖精の一人が天を指し、声を上げた。
はるかな天空から森の中の広場へ向けて、斜めに射し入ってくる静かな光。
その上を、小さな人影が転がるように下りてくるのが見えた。
輝く光の道筋を、まるですべり台を滑ってくる幼児のように、金の巻き毛の小さな妖精たちが下りてくる。
互いにはしゃぎ、戯れ合いながら、星の妖精たちが降ってくる。
ころころと草地に降り立った星の子らは、夜空にむけて手を伸ばす。
小さな手をしきりに振って、上空に向かって手招きする。
そのはるか先、ひときわ大きく丸く輝く満月の光の中から。
白い輝きを放つオーロラのように透ける薄衣の裳裾をゆらめかせながら降りてくる。
月明かりを宿す長い髪が夜風になびく。
星の精と地上の妖精たちが一緒になってはしゃぎ出す。
歓迎する喜びを全身で表す小さな妖精たちに、月光の精が優しく微笑みかける。
地上に降りた月と星の精たちの周りに妖精たちが集まってくる。
花の精も、風の精も、草木や水の精も、夜空から降りた天体の光の精たちも、ひとつの輪になる。
小さな手が、花びらのように開く。
淡く輝く髪が、透きとおる薄い羽根が、風の中で揺れる。
そうしてすべての妖精たちが、月明かりの照らす泉のそばの草地で、輪になって踊り始めた。
白く透ける素足がやわらかな草地を踏んで、軽やかなステップで踊る。
ほっそりと淡い指先の手が、宙に伸ばされる。
差し伸べた桜貝のような美しい爪の先に、オオムラサキの羽根を持つ妖精がひらりと止まる。
月光の精の、かすかな金色に輝く髪がゆれて振りまいた光が金の円環を描き、地に落ちる。
そこからぽつぽつと、白い傘のキノコが、土の中から顔をのぞかせる。
──妖精の輪。
言葉もなく、ただ見つめるだけの僕とシルヴィアの前で幻想の宴が繰り広げられている。
見上げれば、そこは降るような満天の星空と。
金貨のように輝く満月が森を照らす。
そうだ。
ずっと、ここにいたのだ。
やっと見つけた。
僕の妖精──
不意に、暗い夜空を裂いて流れ星が飛んだ。
立て続けにふたつ、みっつ、四つと、鋭い輝きが流星雨のように夜闇の中に走る。
そのうちの二本が、ちょうど僕らの真上で交差した。
光る軌跡が夜空に大きなV字を描く。
だが、その輝きが、いつまでも消えない。
光跡にふち取られ、くっきりと黒い鋭角が現れた。
「えっ……?」
V字の内側から、青緑色の光がぼんやりとにじみ出す。
「まさか……」シルヴィアの瞳が見開かれ、息を呑む。
僕の手を取り、森の中へ後ずさろうとする。
だけど僕の目はまるで魅入られてしまったかのように、緑青色のあやしい輝きを放ち始めた鋭角に釘付けにされてしまっていた。
ふたつの流星が切り欠いた角度が夜空に浮かび上がる。
不気味に響くうなり声がかすかに、やがてだんだんはっきりと地上の僕らに届き始めている。
青緑の光が急激に輝きを増す。
そのV字の中から、ぎらつく尾を引く彗星のように、緑青をふいたあの『猟犬』が妖精の森をめがけて飛び出してきた。
「逃げろ!」
一瞬にして、妖精たちの姿がすべて、ろうそくの炎のようにゆらめいて消えた。
シルヴィアが強引に僕の手を引っぱって駆け出す。
引きずられるようにして広場を離れ、小川にそって走る。
全天の星と、月までもが光を失い、ただ真っ黒な夜空と不気味な角度だけが残る。
あれほど美しかった幻想の光景が、瞬時に色と、形と、動きを失い、死の森へと変わる。
泉も、草地も、森の樹々も、目の前の全てが闇に沈む。
まだ右手に持っていた懐中電灯の明かりを反射的につける。
「だめだ!」
即座にシルヴィアの厳しい声が飛ぶ。
「消すんだ! 奴に見つかる!」
「でも……」
「いいから!」
スイッチを切り、暗がりに僕らは取り残される。
「こっちだ!」
夜目の利くシルヴィアに手を引かれ、川沿いを離れて森の樹々の中へと駆け込む。
下草をかき分け、小枝を払いのけながら木立の奥へと進む。
息を乱し、足がもつれそうになりながらも闇の中を必死で走る。
だが、その闇が、背後の方で不気味な青緑の光を受けている。
耳障りな咆哮が背後から響いて僕の心臓を鷲掴みにしようとするのから、懸命に逃れようとする。
足音と荒い息づかいと緑青色の光とが確実に迫っている。
追ってくる。
「くそっ」シルヴィアの唇から悪態が漏れる。
焦燥を抱えたまま、逃げる。
だが、どこへ?
どこまで逃げればあの『猟犬』から逃れることが出来るのか?
真っ暗な森はどこまでもどこまでも続いている。
その闇の中。
左の視界をちらりと何かがかすめた。
森の奥、木立の向こうに闇を区切ったように四角い扉があった。
──あれは……。
図書館の扉。
両開きの、古びてつややかな手触りの木のドアに、少しだけ錆の浮いたドアノブがついている。
僕の記憶にある、そのままの姿が、森の中に忽然と現れていた。
でも、きっとそれは、僕の中にいつもあったのだ──
「シルヴィア!」
僕の手を取って先を走る少年の手をひっぱり返し、足を止める。
「えっ?」
闇の中でもかすかに光る銀の髪に縁取られた顔が、ちらりと僕を振り返り、立ち止まる。
僕はもう一度懐中電灯の明かりをつけた。
「何を──」
顔色を変えるシルヴィアに僕は答えず、代わりに扉の方を指差した。
シルヴィアのうす青い瞳が暗がりの中でまるく見開かれる。
黙ったまま、その瞳に向かってひとつ頷いて、僕はつけっぱなしの懐中電灯を図書館の扉とは反対側へと向けて思いきり放(ほう)った。
宙を舞った黄色い光が、がさりと音を立てて草むらに落ち、その場に取り残される。
緑青色の『猟犬』が吠えかかりながらそちらへ向かう足音が聞こえた。
しかし、それを振り返ることなく、再び僕たちは走った。
この『回廊』の外につながる扉をめがけて。
今度は僕がシルヴィアの前に出て、彼の手を引く格好になる。
いくらも走ることなく扉の前にたどり着いた。
ドアノブに手を伸ばし、扉を押し開けようとする。
──だけど……。
瞬間、僕の中の何かが、その動作をためらった。
──図書館の外の、日常。
この扉を開ければ、僕はまた、そこへと帰ってゆく。
時計塔の鐘に従って寄宿舎と校舎とを行き来する。
ただそれだけの日々の中に。
豊かで美しい、心ふるわせる妖精の世界を置き去りにして──
けれどそんな躊躇(ためら)いをかえり見る間も与えられずに、僕の腕はただの機械じかけのように図書館の扉を押し開けていた。
冷たい外気が僕らの頬に触れ、外の景色が目の前に広がった。
しんと静まりかえった図書館前の中庭は、明るい満月の光に照らされていた。
白い敷石の通路と植え込みの樹々と。
僕たちが来た時と同じ、真夜中の光景。
──いや。
ただひとつ、違っていたもの。
「え……?」
鋭くとがった黒い影が、敷石の通路にそって、長々と月明かりの中に伸びている。
僕の目の前に。
その影が、引き延ばされる。
驚くほどの早さで、なおも伸びてゆく。
僕の方へ。
得体の知れない悪意を秘めた生き物のように。
その素早さと鋭さに見覚えがあった。
つめたい鋭角の影が、打ち出された攻城弩(バリスタ)の速さで飛んでくる。
吸い込まれてゆく。
僕の胸の真ん中へ。
細長く槍のように伸びた影の内側がぼんやりと青緑に輝いた。
鋭角の中に、いるのが見える。
僕の目が、それを見ている。
はっきりと。
──緑青色の『猟犬』。
ああ、やはり、という思いが、ちらりと頭のどこかをかすめた。
青黒く燃える『猟犬』の瞳に睨まれた蛙のように、僕はもう、その場から動くことすら出来ない──
そのまま狙いはあやまたず。
「ランディ!?」
長くするどいV字の闇が、僕の心臓を貫通した。
それは、時計塔のとがり屋根の影だった。
「ランディ!」
再び、シルヴィアの悲鳴が月夜の静寂の中に響き渡った。
騎士の馬上槍が駆け抜けざまに相手を突き刺すように、胸の真ん中をあっけなく刺し貫かれた僕は図書館の入り口から五、六歩ほど出たところで棒立ちのまま、くし刺しにされていた。
図書館の扉が僕の後ろで重たい音を立てて閉じた。
僕たちの背後で、『回廊』への扉は閉ざされた。
そうして、虫ピンで刺された昆虫標本のように、僕はこの情け容赦のない現実の世界に縫い留められてしまっていた。
実際、僕の体は死んだ蝶か甲虫のように硬くこわばっていて、不格好な姿勢のまま、その場に横倒しになった。
手も足も、目線すらも全く動かすことも出来ない。
「ランディ、しっかり……」
シルヴィアが駆け寄り、僕の肩にふるえる手をかけた。
だが、まるで本物の槍のように、胸を貫通して背中まで長々と突き抜けた影の穂先がつっかえて、助け起こすことも出来ない。
「なんで……どうしてこんな……」
地面に倒れ込んだまま、僕は指先ひとつ動かすことも、うめき声を上げることすらもできない。
ただそうして、静かに転がったまま。
……けれど僕の内側では、緑青色の嵐が荒れ狂っていた。
時計塔のV字の影に潜んでいた『猟犬』は、この世に二つとない絶好の標的にかぶりついた喜びに雄叫びを上げながら、鋭角の内側から僕の『回廊』へと荒々しく躍り込んできた。
汚(けが)れた燐光をそこらじゅうに振りまきながら駆け抜け、禍々しい牙をむき出しにして、僕の中で息づく物語を喰い荒らす。
豊かに生い茂っていた草も花々も無惨に踏みにじられ、みるみるうちにしおれて、赤茶色に醜く枯れて朽ち果ててゆく。
森の木々も大きく裂けた顎に次々と食いつかれ、無数に茂らせていた枝と葉をばたばたと驟雨(しゅうう)のように降らせながら枯れ果ててゆき、やがて太い幹ごと横倒しになる。
その枝葉の降りそそぐ只中で、『猟犬』が咆哮を上げる。
遠吠えのように響くその声が森全体を震わせたかと思うと、『猟犬』の放つ青緑の燐光が火の粉のように風に乗って飛び散り、そこかしこで樹々の葉がいっせいに燃え上がり始めた。
倒れ伏した無数の大木と、辛うじてまだ葉をつけたまま立っていた樹々とが、異様な緑青色の火炎に包まれ、みるみるうちに焼け焦げてゆく。
燃え尽きた大樹は、まるで乾き切ったミイラのように軽く欠片を散らばせながら、次々と崩れ去ってゆく。
あれほどまでに美しかった森の『回廊』が、あっけなく死に絶えてゆく。
繊細な羽根をひらめかせていた妖精たちの姿も、もうどこにもない。
そうして幻想の森を無惨な死に追いやっただけではまだ飽き足らず、『猟犬』は小川の流れを見つけると、また雄叫びを上げて飛び込んだ。
緑青色の骸骨のような不格好な足が、激しい水しぶきを撒き上げる。
まるで真っ赤に灼けた焼きごてを突っ込まれたかのように、小川はもうもうと湯気を沸き立たせて、清らかな川の水はあっけなく蒸発した。
瞬時に干上がった小川の底はひび割れ、広げられていた無数の物語のページも、まるで何百年も経った本のように全てぼろぼろに朽ちて、駆け抜ける『猟犬』が巻き起こす疾風に吹き散らされてゆく。
妖精の森が──僕の『回廊』が、耳を覆いたくなるような断末魔の悲鳴を僕の中で反響させながら、無惨に滅び去ってゆく。
いや、叫んでいるのは、僕だった。
──こわさないでくれ。
不気味な青緑の炎に包まれて燃え上がり、灼かれて崩れ落ち、『猟犬』が踏みつぶし破壊するそれは、物心つく頃から今に至るまでずっと抱え込み、僕自身の最も奥深いところで僕につながっていた『回廊』だったのだ。
──やめて。たすけて。
けれどもその外側にある僕の身体は、叫びたくて、叫びたくて、でも声を上げることすらできなかった。
『回廊』を燃やし尽くす劫火が、僕の胸の内側を激しく焼き焦がした。
胸の中で燃え盛り、むせ返るほどに充満する熱気を吐き出したいのに、息をつくことすらできない。
しかしそれは、ほんの一瞬の出来事だったに違いない。
「ランディ……ランディ……」
なぜなら、今にも泣き出しそうな顔のシルヴィアの青い瞳からまだ涙がこぼれ落ちてすらいなかったのだから。
「ランディ!」
その顔がかすんで、見えなくなる。
そうして何もかもすべてが青緑の炎の中に燃え尽きてゆく。
瓦礫のように崩れ落ち、消え去ってゆく。
からっぽの虚無の中に。
ずっとずっと、僕の胸の中に抱えてきた、無数の物語の世界が──
やがて、豊かな妖精の森がすべて焼き尽され、引きはがされたその下から、むき出しの『回廊』が現れた。
つややかな琥珀色に古びた『回廊』は、壁の所々にランプがかけられて、揺れる明かりが真っ直ぐな廊下を照らし出している。
死を撒き散らしながら駆け抜けた『猟犬』が、とうとう『回廊』の一番奥にまでたどり着いた。
その行き止まりの最奥で。
一人の男の子が泣いていた。
とめどなく流れる涙で両の頬を濡らしながら。
片手にはしっかりと望遠鏡を握りしめている。
──九歳の、僕。
緑青色の『猟犬』はようやく、ずっと探していたものを見つけた。
物語の世界を幾重(いくえ)にもまとって覆い隠されていた深奥で。
異様に長く伸びた細い舌が口元から垂れている。
裂けるように大口が開き、ずらりと並んだ牙がのぞく。
ごつごつした足が廊下を蹴り、ついに追い込んだ獲物をめがけて雄叫びを上げて飛びかかる──
──やめろ。
ようやっと、こわばったままの僕の唇がふるえながら声を発した。
「来ないで」
九歳の僕も、声を上げた。
やめろ。
「出て行け!」
十六歳と、九歳の僕が、同時に叫んだ。
──出て行け!
地鳴りのような轟きが突如、響いてきて、『回廊』の床を震わせた。
急激に振動が強まって、壁のランプが激しく揺れ、次々と床に落ちて割れた。
『猟犬』がびくりと動きを止め、辺りを見回す。
その足元の床が突如、裂ける。
同時に『回廊』の行き止まりの壁も、巨人の手が握りつぶしたかのような音を立てて大きくひび割れ、そこから膨大な量の水が洪水のように流れ込んできた。
固く閉ざされて行き止まりになっていた『回廊』の、その向こう側がまだあったのだ。
この長い長い『回廊』の外側の、さらに果てなく広がる「どこか」から、大量の水がすさまじい勢いで注(そそ)ぎ込まれ、僕の内側と外側とを裏返すほどの勢いで激流となって押し流す。
子供の頃に本で読み、そのまま忘れていた幻想と、まだ見ぬ彼方の幻想とが混じり合い、色彩の逆巻く渦となって流れ込む。
無意識と、さらにその下にある未知の物語とが重なり合って、溶けてゆく。
だがそれも、だんだんと青く透明にすき通ってゆく。
決壊し溢れ出す急流の中に、大人の身体よりもはるかに大きい図体の『猟犬』が飲み込まれる。
あっという間に青緑の骸骨のような姿が流されて見えなくなった。
九歳の僕の小さな身体も、もみくちゃになって流れてゆく。
それでも必死にもがき、溺れそうになりながらも、水上へと手を伸ばそうとする。
かろうじて片手が水面に出る。
その手を、誰かの白い手が掴んだ。
引き上げられ、顔が水面に出る。
九歳の僕の目にその姿が映る。
黒い髪と黒い瞳の少年。
十六歳の僕と同じくらいの年だろうか。
東洋人らしい面差しの割にやや大きめの瞳と、白くなめらかな頬が少女めいて見えた。
片腕で、懸命に岸へと引き上げようとする。
──だが、岸とはいったいどこだ?
疑問がかすめた途端、彼は足場を失って九歳の僕もろとも急流の中へと落ちた。
うす青く透き通る流れの中に二人で投げ出される。
目を閉じて意識を失った九歳の僕を、だが少年は水中でしっかりと抱きかかえた。
細めの腕が、全く重さを感じないかのように軽く僕を抱え、水上を目指そうとする。
片手で水をかきながら、まるで空気のように容易(たやす)く水を呼吸し、浮上してゆく。
その目の前に、白い何かが流れてくる。
──猫だ。
気を失ったまま流されてゆく白い猫の体を、少年は反対の手を伸ばして捕まえ、九歳の僕と一緒に両腕で抱えた。
ふっ、と水の中でひとつ息を吐いて、黒髪の少年は水底の方へと目をやった。
深い青に染まった膨大な水のはるか底の方に、押し流されて瓦礫となった『回廊』の残骸や焼け焦げた森の樹々が海底遺跡のように黒々と積み重なっていた。
少年の黒い瞳は静かにそれらを見つめていたが、再び頭上に目を向けると、九歳の僕とシルヴィアを抱えたまま、魚のように両脚で水を蹴って水上に向かって泳ぎ始めた。
──だけど、それをこうして見ている僕はいったい誰で、どこにいるのだろう?
(つづく)
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