(2)
五時限目の教室に、チョークの音だけが響いていた。
生物教師が黒板に細胞の模式図を描いている。
動物細胞と、植物細胞の図だった。
椅子に座った生徒達が自分のノートにそれを描き写す。
誰も、一言も発しない。
やがて描き終えたピアソン先生はチョークを持ったままの手で黒板を指し示しながら、動物細胞と植物細胞の構造の違いを説明し始めた。
生徒達は相変わらず黙ったまま、先生の講義を聴いている。
植物細胞には葉緑体があるが、動物細胞にはない。
植物細胞は細胞壁と液泡があるが、それも動物細胞にはない。
そのため、蒸留水に浸すと細胞はどちらも吸水するが、植物細胞は細胞壁に守られているため、内部の液泡が拡大して多少の変形が起きるだけで済むが、細胞壁のない動物細胞は際限なく吸水して、破裂する。
人間の赤血球も同様に、蒸留水に入れると破裂し、これを特に『溶血』という……。
──それがいったい、なんだというのだろう?
理屈はわかっても、そのことが僕にとってどういう価値があるのか、誰も、何も教えてはくれない。
黒板の図を見ても、先生の顔を見ても、自分のノートや教科書を読み返してみても、僕にはそれがまるで理解できなかった。
それなのに、教室の生徒達は熱心に先生の話に聞き入りながら、時折ノートに自分で説明を書き加えていく。
だけど、そうやって真剣な眼差しを向けている生徒たちこそが、もうとっくにその単元のことなど理解し尽くしてしまっていて、あとは授業態度の評価点を目当てに演技をしているだけなのだ。
教師達も、それを知ってか知らずか──知らないはずはないだろう──学校と寄宿舎とを日々滞りなく行き来しては勉学に励む生徒達を育み、やがて世に送り出す使命に何の疑問も持ってはいないようだった。
ここは、そういう学校だった。
そうやって、日々が過ぎてゆく。
退屈で、退屈で、退屈だった。
ピアソン先生の講義はまだ続いている。
微に入り細に入り、ふたつの細胞の構造の違いについて説いている。
動物と、植物と。
──動物?
ゆうべ、図書館で見た光景が不意に脳裏に浮かんだ。
緑青をふいたような、あやしい四つ脚の獣。
あれは動物なのだろうか?
不気味な燐光を放って、異様に長い真っ青な舌で。
床にしみ込むように、死骸は消えてしまった。
あんなものでも、ひとつひとつの細胞が集まってできた動物なのだろうか?
僕たち人間のような、地球上の生命と同じように?
──そうだ、それに……。
猫の少年。
闇を裂き、白い流星が『猟犬』に襲いかかる。
傷ついて、ぐったりと本棚に寄りかかっていたしなやかな身体が、銀の長い髪が、僕の目の前で白い毛並みの猫へと姿を変えていった。
──待ってよ。
角を曲がった途端、消えてしまった。
あまりに不思議な、まるで僕がいつも読んでいる本に書かれた出来事のような光景を、だが僕は確かに見たのだ。
真夜中の図書館で……。
中庭を隔てた向こう、三階の教室の窓から、その図書館が見えた。
午後の太陽に照らされて、スレート葺きの青い屋根が光っている。
その真ん中に、ぽつりと丸く、小さな白い影が見えた。
──あれは……。
僕は目を見開く。
──猫だ。
真っ白い毛並みに、薄く青い瞳。
窓際の僕の席からそれがはっきり見えた。
昨日の夜、図書館で僕を助けてくれた猫に間違いない。
だがそれは、どこにでもいる普通の猫のように昼下がりの日だまりの中でのんびりくつろぐ様子は微塵もなかった。
図書館の屋根の上できちんと両足を揃えて座ったまま、首を真っ直ぐに伸ばして辺りを見渡している。
まるで、校内に潜む不審な者を見つけ出そうとしているかのように。
──まさか。
どきりと、僕の心臓が不安な音を立てた。
昨夜の『猟犬』が、まだいるのだろうか?
あの猫は、それを探しているのか。
おもむろに、猫は姿勢を低くすると、図書館の屋根の上をそろりと歩き始めた。
午後の太陽が照らす屋根を、小さな鼻で嗅ぎ回りながら慎重に歩を進める。
その足取りが、ぴたりと止まる。
スレート屋根の明るい陽だまりの上に影が落ちている。
中庭を挟んで図書館の向こうに建っている、時計塔のとがり屋根の影だった。
そこだけが、まるで鋭く切り取られたかのように、くっきりと黒い。
鋭角の影を白い猫がしきりと鼻をひくつかせ、臭いを嗅いでいる。
影にそっと前脚を伸ばしては引っ込め、うろうろと周囲を歩き回る。
警戒しつつも確信が持てずにいる猫の気持ちが、まるで僕にまで伝わってくるかのようだ。
その猫が、ぴくりと耳を立てた。
あたりをきょろきょろと見回し、不意に目線を上げる。
──あ……。
白い猫と、目が合う。
うす青い瞳が図書館の屋根の上からこちらを見ている。
中庭を挟んだその向こうから、まるで僕に向かって何かを問いかけようとするかのように、猫の小さな口が開こうとしている。
その途端、白い猫の姿が消えた。
──えっ?
図書館の屋根の上に、猫はもうどこにもいない。
素早く周囲を見渡しても、白く丸いその姿はない。
スレートの青い屋根の上には、陽だまりと、時計塔の屋根の黒い影が落ちているだけだ。
──どこへ消えた?
見間違いだとか、気のせいだったなどという下らない結論は拒絶していた。
あの白い猫は、確かにいた。でも、消えてしまった。
僕の目の前で、まるで妖精のようにーー
動揺で破裂しそうな僕の意識を、無慈悲な声が鷲掴みにして容赦なく現実に引き戻した。
「カーター、答えたまえ」
鞭のように厳しい声が僕の耳に飛び込んできた。
「あっ……」
突然呼び掛けられ、びくりと身をこわばらせる。
チョークを持ったままのピアソン先生が、僕の目の前に立っていた。
反射的に席から立ち上がる。
がたんと椅子が不快な音を立てた。
「シュライデンが植物について、シュワンが動物について細胞説を提唱したのはそれぞれ何年と何年か?」
冷たい視線を僕に向けて先生が問う。
「え……その……」
答えに詰まった僕に、先生は黙って黒板を指し示した。
『1838年 シュライデン、植物における細胞説を提唱。
1839年 シュワン、動物細胞説を提唱』
黒板の字がまるで僕をあざ笑っているかのようだった。
受け止められずに、下を向く。
きっとクラスメートの全員が僕を見ているだろう。
動揺と羞恥で僕は声も出ない。
いや。
そうでなくたって、答えられなかっただろう。
「たるんでいるようだ」
ピアソン先生のチョークがこつこつと僕の机を叩いた。
「授業に集中できないようでは、身につく知識も身につかない。課題を出すので明日の夕食までにレポートをまとめること。あとで職員室に来なさい」
「……はい」
消え入りそうな声の僕に背を向けて、ピアソン先生は黒板の前へと戻ってゆく。
がっくりと、僕は席につく。
後ろの席で誰かがくすりと笑う声が聞こえた。
足を止めて先生が振り返り、咳払いをする。
重い、張りつめた沈黙が再び教室中を覆った。
僕の背後の誰かが首をすくめるのがまるで見えるようだ。
緊張した空気を破って生物教師は講義を再開した。
終業の鐘が鳴り終えた後も、僕の机にはチョークの白い粉が汚点のように残ったままだった。
* * *
ピアソン先生から生物学の参考書二冊とレポート用紙を渡されて、僕は職員室を出た。
先週終わった中間考査の順位が張り出されている掲示板の前に数人の生徒が集まり、何やら話し込んでいる。
それを見ないように、立ち去る。
風に吹かれる木の葉のように安定しない自分の順位を、いちいち思いわずらうのをやめようとして、それでもどこか断ち切れずにいる自分が自分でうっとおしかった。
僕が、僕であるということ。僕でしかないということ。
一体それをどこに求め、立脚すれば良いのか。
──それがどこかにあるとするのならば……
「おや。カーター君、今日は妖精王に会いにこないのかい?」
うつむいたまま廊下を歩いていた僕に声をかけたのは、図書館司書のバートン先生だった。
「はい……。その、今日は……」
「ああ、エアリアルの方が先か。どちらもずいぶん人間的だろう? あの時代の人々というのは、今の我々よりもずっと、神や妖精といった存在を身近に感じていたのだろうかね?」
両手で何冊もの本を抱え、いつものように、教師らしからぬ打ち解けた口調で話しかけてくる先生の顔を見て、けれどまたすぐに僕は目線を落とした。
「それが……課題があって。レポートを、明日までに……」
バートン先生は僕が持っている分厚い参考書に気づくと、心の底から気の毒そうな目で僕を見た。
「そう……か。それは大変だな。……ああ、でも、ほかの資料が必要になったら図書館においで。一緒に探そう」
職員室へと入っていく先生を見送り、廊下を歩く。
さすがの僕でも、これ以上、無味乾燥な生物学の書籍の山と格闘するのはごめんだった。
それともバートン先生なら、参考書のページに並ぶ難解な専門用語の羅列の中にすら、妖精を見出し、共に戯れることができるのだろうか。
重く沈んだ気持ちと参考書を抱えて、寄宿舎へと戻った。
自室のドアの前で、ため息をつく。
今から夕食の鐘が鳴るまでの間に参考書を読み込んで、食事が終わったらレポートにかかって消灯時間ぎりぎりまで……いや、それでも足りないだろう。
どう考えても、今日はもう図書館へは行けそうもない。
そうやって、僕の貴重な時間はこの寄宿舎の狭い部屋の中で窒息して埋葬されてしまうより他はない。
諦めきった心地でドアを開け、中に入る。
いつもと何も変わらない、味気ない自分の部屋が僕を迎えるはずだった。
だが、そこは──
「え……?」
夕暮れの陽が照らし出す室内の光景に、僕は目を見張った。
部屋の奥、窓際に置かれた僕の机の上に、オレンジ色に染まる夕陽の光が射している。
黄昏の陽のきらめきがまぶしく僕の眼を打った。
窓からさし込む夕陽の最後の光。
その輝きの真ん中に、白い影が見える。
両足を揃え、背中を丸めた一匹の白い猫が、机の上に広げられたままの本をじっとのぞき込んでいる。
「君は──」
小さな耳がぴくりと動き、振り返る。
白い猫の、青い瞳が僕を見る。
そのままそっと、机の上を照らすまばゆいオレンジの光の中を二、三歩踏み出して椅子へと降り立つと、しなやかな猫の体は袖なしの白い服を来た少年の姿に変わった。
黄昏の光を受けて、ゆったりと波打ちながら流れ落ちる長い銀髪が背に輝く。
足を優雅に組んで椅子に腰掛けたその姿は、まるで物語の中から抜け出してきたかのようで──
「……君は、妖精?」
「妖精?」
彼の声が、僕の発した言葉を繰り返した。
「……そう見えるのなら、それでもいいけど。でも僕は、ただのウルタールの猫だよ」
くすりと笑って、猫の少年は答えた。
「ただの、って……。でも……」
僕は窓際へと歩み寄り、抱えていた参考書とレポート用紙を机の上に置いて窓を確かめた。
ガラス戸はきちんと閉じられて、鍵もかかっている。
朝、自室を出る時にもちゃんと戸締まりをしたのだから間違いはない。
「どうやって……。さっきは、図書館の屋根の上にいたよね?」
僕の問いに、彼は両手を膝の上で組み、僕の方に身を乗り出して答えた。
「『回廊』が開いていたからさ。つい足を滑らせてしまった」
「……え?」
「屋根からここまで直通だったよ!」
両手を軽く広げ、猫の少年はおどけて言ってみせた。
「……いったい、どういう……?」
言われた意味が分からないまま立ち尽くす僕を見て、彼はひとしきり声を上げて笑うと、机の上で広げっぱなしになっていた本をちらりと見やって、言った。
「いつもこんなにあけっぴろげなのかい? ──君の『回廊』は」
──それも借りていけばいいじゃないか。
──はい……。でももう貸し出し制限数が……。
──じゃあこちらを貸して上げよう。僕の私物だから冊数は関係ない。
──いいんですか? ありがとうございます。
──いっそ図書館に住めたら良いのだけれどねえ。ああ、でもそれだと私物の本が読めないなあ……。
朝、自室を出る間際まで読んでいたその本を手に取る。
挿絵の中で、空気の精エアリアルがつむじ風を起こしてミラノ公国の簒奪者たちを翻弄している。
バートン先生が自分の蔵書の中から貸してくれた文庫の『テンペスト』だった。
「僕の、『回廊』……」
僕の心がまだ、ここにあった。
窒息することも、埋葬されることもなく、あけっぴろげのままで──
「君はいったい誰? どこから来たの?」
文庫本を再び机の上に戻して僕が尋ねると、猫の少年は首を振った。
「ああ……、いや、それより、君には牛乳のお礼を言わなくっちゃ。あれがなかったら僕は……」
「そんな! 助けてもらったのは僕の方なのに! あんな……」
勢い込んで話しかけたものの、脳裏に浮かんだ光景に、思わず言葉につまる。
袖なしの白い服を染める真っ赤な血。
真夜中の図書館の光景がよみがえる。
「だから、大丈夫だって。ほら」
なのに目の前の少年は再び両手を広げて、事も無げに答えた。
「ご覧の通りさ。君がくれた牛乳のおかげだよ」
「ああ……それは良かったよ。本当に……」
安堵のため息と共に呟いた僕に、猫の少年は形の良い唇の端を歪めて笑いながら答えた。
「……もっとも、僕は本当は、もう少し新鮮なやつが好みなんだが」
「ぜいたく言わないでくれよ。僕らは毎日あれなんだから」
「そいつは気の毒に!」
まるで、旧来の親友同士のように、僕たち二人はひとしきり腹を抱えて笑った。
「……僕はランドルフ。ランディでいいよ。君の名前は?」
僕の問いに、猫の少年は笑い声を途切れさせた。
口をつぐみ、ふいと目をそらして、不貞腐(ふてくさ)れたように横を向く。
「……シルヴィア……」
ぼそりと、不満げな声が答えた。
「え?」
顔を横に向けたまま、青い瞳だけがちらりと僕の方を見て、またすぐに視線をそらした。
「まったく、人間ときたら好き勝手なことをしてくれる……。性別を確かめもしないなんて、あんまり適当すぎる。こっちの身にもなってくれよ……」
机の上に片腕で頬杖をついて、ぶつぶつと不平をこぼしている。
「……でも、似合ってると思うけど」
遠慮がちに、僕は本心を口にした。
「えっ?」
そっぽを向いていたシルヴィアが向き直り、僕の方を見る。
「あ、いや、……だって、こんなに銀色で……」
──銀色で、奇麗なのに。
そう言おうとして、口ごもる。
きっと、本当は彼にも──シルヴィアにもわかっているのだろう。
彼を名付けた人間が、素直に、そう名付けたかったのだということを。
ただそれを、真正面から受け止めるのが少しばかり気恥ずかしいだけなのだ。
「……じゃあ、君は人間に飼われていたわけ?」
しかし、あまり踏み込まないように僕は話題をそらした。
「いや、ウルタールの猫はみんな自由だ。……僕に名付けたのは人間だったけれど」
「そこの猫はみんな、君みたいに人間の姿になれるのかい?」
「そんなことはないさ。人に化けるのが得意な奴もいるし、そうでもないのもいる。君たち人間だって、泳ぎが得意な奴とそうでないのとがいるだろう?」
「……ウルタールって、どこの国?」
「その地図には載っていないよ」
机の上に据え付けられた本棚から地図帳を取り出そうとする僕の手を、シルヴィアの答えが、止めた。
「え……」
伸ばした手を途中で止めたまま、相手の顔を見る。
その僕を、真正面から見つめ返して、シルヴィアは答えた。
「スカイ河の彼方、ウルタールのある幻夢境は、君の住むこの世界と地続きではない。この地球上のどこにもない。まあ、猫なら、誰だって毎晩のように簡単に行き来しているけれどね。でも人間は、ごく限られた資質を持つ者だけだ……夜毎(よごと)の夢の中に、幻夢境を垣間みることができるのは。ましてそこへ至る『回廊』を持つ者など、世界の始まりから終わりまでの間にも数えるほどしかいはしない……」
「幻夢境──」
シルヴィアから聞かされたその言葉を、僕は我知らず口にしていた。
「スカイ河の彼方の、ウルタール……」
初めて耳にしたその響きが神託のように、僕の胸をふるわせた。
そこからシルヴィアは来たのだという。
今まで僕が読んできた本の中に隠れ棲んでいた数多(あまた)の妖精達よりも、もっと、もっと不思議で、想像すらしたこともないような。
そんな、猫の妖精の住む世界。
地球上の地図のどこにも載っていない、僕の住むこの世界のどことも地続きでないという、幻夢境から──
「君のような……君みたいな存在が、生きている──存在している、そんな世界があるなんて──」
ため息と一緒に、つぶやきが僕の唇から漏れた。
「僕に言わせれば、君ほどにあけっぴろげな『回廊』を持つ人間が地球にいることの方が驚きだけれどね。……まあ、そのお陰で困ったことになっているんだが」
「えっ?」
「帰れないんだ」
両手を頭の後ろで組み、背もたれに体重を預けて座ったまま、シルヴィアは言った。
「帰れないって……その、幻夢境に?」
「たぶん、君の『回廊』に引っかかってしまっているんだ。……そもそも、ゆうべ僕があの図書館に出てきてしまったのがおかしいんだ。そんなつもりじゃなかったんだから。あんな夜更けに、いったい君はあそこで何をしていたんだ?」
読みかけの本の続きが気になって、こっそり忍び込んで読んでいるうちに眠ってしまったのだと打ち明けると、シルヴィアはまた大笑いしたが、その夢に出てきた『猟犬』の話をすると、ぴたりと笑いを収めた。
「じゃあ、あれも引っかけてしまったってわけか」
「引っかけて……って……」シルヴィアの言葉を、思わず繰り返す。
「あれは幻夢境の生き物じゃない」
再びシルヴィアは僕の方に身を乗り出して、そう告げた。
「君の『回廊』が混線して、どこからか引っかけてきてしまったんだろう。それがどこなのかは、はっきりとはわからないけれど」
「でも、君が倒してくれたから……」
「あんなものを僕が倒せる訳がないだろう!」
シルヴィアは僕の言葉に一瞬あっけにとられたが、即座に反論した。
「え……? だって……」
「あれは、僕がちょっとばかり派手に壊したから、こっちの世界で形が保てなくなっただけさ。息の根を止められたわけじゃない。今ごろは、あいつのもといた深淵で、じっくりと傷を癒しているはずさ」
「じゃあ……傷が治れば、また出てくる……?」
『回廊』の床を鋭く切り裂いて、緑青色の『猟犬』が闇から現れる光景がぞくりと僕の背筋を冷やした。
「いや、そう簡単にこちらに出てこられるものではないよ。少なくとも、今のところはそういう気配はないようだった」
「それをさっき調べていたんだね……」
図書館の屋根の上でしきりと匂いを嗅いでいたシルヴィアの姿を僕は思い出した。
「うん。そうしたら、また君に引っかけられて、こんなところに閉じ込められてしまった」
机に頬杖をついて、さもつまらなそうにシルヴィアは部屋を見回した。
その青い目の動きを、僕も追いかける。
寄宿舎の狭い部屋の中にはベッドと勉強机と最低限の家具しかない。
「僕だって……」その閉塞感にうつむいて、僕は呟いた。
「え?」
「僕だって、今日はもう、ここに閉じ込められたも同然さ」
沈み切った気分で、僕はシルヴィアに生物の授業中の出来ごとを話した。
一瞬、シルヴィアは木の上から降ってきた毛虫でも見るような目つきで分厚い参考書を見やったが、すぐに興味を失くしたらしかった。
「じゃあ仕方がない。今夜は僕ひとりで図書館へ行って、通れそうな道筋を探して帰るよ。本当は、君が来てくれた方が簡単なんだけど。でもまあ、僕だけでも多分なんとかなるだろうし……」
「僕も行く」ごく自然に、その言葉が僕の口を突いて出た。
頬杖をついたまま、シルヴィアは僕の方を見た。
「……ああ、それは、君が一緒に図書館まで来てくれればちゃんと『回廊』は直るだろうから、僕は楽に帰れるはずだけど」
「そうじゃなくて」
シルヴィアのうす青い瞳を正面から見据えて、僕は言った。
「行ってみたいんだ、僕も。幻夢境へ。だから、僕も一緒に連れて行ってくれないか」
焦がれるような思いと切実な願いだけが、内側から僕を突き動かしていた。
何のためらいも、迷いも、そこにはなかった。
……いや。
ためらいがなかったと言えば、嘘だろう。
それでも、今ここで望まないとしたら、それこそ僕は僕自身に嘘を吐(つ)くことになるだろう──
「……僕は構わないけれど……でも、大丈夫かなあ」
腕組みをして、しげしげと僕をながめながらシルヴィアは言った。
「幻夢境は、君が思っているような夢の国なんかじゃないよ? 危険なことだっていくらでも……」
「構わないよ、僕は。だって……」
勢い込んで僕が言いさした、その時。
窓の外から、学校中に響き渡る鐘の音が聞こえてきた。
夕食の時間を告げる時計塔の鐘だった。
その重々しい響きが、自分の心を縛りつけようとするのを僕は振り払った。
「ここで待ってて。食事が済んだらすぐに戻るから」
まだ何か言いたげなシルヴィアをさえぎって僕はまくしたてた。
「消灯時間が過ぎたら、図書館へ行こう。それから、一緒に幻夢境へ。……その前に、少し仮眠をとった方がいいかな。朝まで帰って来れないかも知れないし。ああ……それと、なんとかして君にもパンと牛乳を持ってくるよ。だからそれまで、部屋で待ってて」
「課題はいいのかい」急ぎ足で部屋を出ようとする僕の背中にシルヴィアが声をかけた。
「そんなの手につかないね」
振り向きもせずにドアを開け、僕は廊下に出た。
鐘の音に押し出されるようにして、他の何人かの生徒達も自室から出てきたところだった。
やみくもに走り出したくなる気持ちを必死で押さえながら、足早に歩く。
廊下を踏みしめる足がまるで、まだ見ぬ世界へと続く架け橋を渡るかのように軽く浮き上がるのを感じる。
あこがれは、とめどなくわき返る湧水のように、内側から僕を満たしながらどこまでも押し流そうとしている。
広がりゆく翼が背に羽ばたいて、時空の果てを越えてその向こう側にまでも僕を誘(いざな)う。
ずっと、忘れていたような……。
──そうじゃない。
忘れていたわけなんかじゃない。
図書館の本と、バートン先生が貸してくれた本を思い出す。
そうだ。いつだって、どんな時だって、僕は──
食堂へと向かう生徒たちの列に埋もれながらも、僕の意識だけは、はるか遠く、未知の世界をめがけて一心に駆け上がろうとしていた。
(つづく)
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