妖精奇譚

日暮奈津子

(1)

──僕はそれを妖精と呼んだ。



     *      *     *


 誰もいない夜の暗がりの中で、僕は図書館のドアに手を伸ばした。

 絶対に音を立てないよう、そっとノブを回す。

 静かに、ほんの少しだけ入り口のドアを開けて、中の様子を窺(うかが)う。

 消灯時間をとっくに過ぎた真夜中の図書館に先客がいるとは思えないが、それでも、誰かが忘れ物でも取りにくることがないとは言い切れない。

 いつの頃からか、こうして毎晩のように寄宿舎の自室を抜け出しては本の続きを読むために図書館へ忍び込むのが日課になっていた僕だが、今でもそうして細心の注意を払うのを忘れることはなかった。

 けれど、それは学校の規則を破る後ろめたさというよりは、先生達に見とがめられるようなへまを仕出かして、貴重な読書の時間を少しでも減らしたくはないという思いの方がずっと大きかった。

 息を殺し、人の気配がないのを確かめてから、ようやく、僕は持っていた懐中電灯の明かりをつけて図書館の中に入った。

 なるべく低く足元だけを照らし、カーテンのすき間から光が外へと漏れることのないように注意する。

 後ろ手に、入り口のドアを静かに閉める。

 貸し出しカウンターの前を通り過ぎ、閲覧用のテーブルと椅子が並んだ横を抜け、天井まで届く本棚の間を迷いなく歩く。

 目当ての場所まで来ると、僕は懐中電灯でそこを照らした。

 暗い図書館の本棚を丸く切り取って、ずらりと並ぶ背表紙が見える中にそのタイトルがあった。

 

『シェイクスピア全集3 真夏の夜の夢 テンペスト ほか』


 読みかけだったその本を棚から抜き取って、僕はそのまま本棚の前に座り込んだ。

 すぐ目の前の椅子に座るのももどかしかった。

 片手の懐中電灯で照らしながら、表紙を開き、ページをめくる。

 本の中で静止していた世界が再び開かれた。

 色を失い、閉じ込められていた光景がまた、動き始めた。

 並んだ文字を目にするだけで、その中へと容易に潜り込む。

 没入する。

 物語の奥底へと、沈み込む。

 身も心も、すべてを委(ゆだ)ねきる。

 しおり紐が挟まっていたのはまさしく、夕食時間を知らせる時計塔の鐘が鳴るその時まで僕が読んでいたページだった。

 もはや、僕の目に映るのは白い紙の上に並んだ無機質な活字ではなく、イギリスが誇る偉大な劇作家が創造した世界とその住人達だった。

 まさに物語は、妖精王オベロンに命じられて、いたずら好きの妖精パックが森の中で眠る男の目蓋に恋の媚薬を垂らそうとするところだった。


──妖精の棲む森。


 イギリスの伝承では、森の中には妖精が住んでいるのだという。

 森の奥深く、木立の中の開けた草地にキノコが丸く並んで生えている場所があり、それは夜更けに妖精達が輪になって踊っていた跡なのだという。

 森の中、泉のほとり、あるいは木漏れ日の中、またあるいは梢を渡る風の音、あらゆる自然の中に妖精達がいた。

 だけど僕が生まれ育ったこの国に妖精譚はなかった。

 270年前、メイフラワー号に乗ってこの新大陸にやってきたときに、僕たちの祖先は妖精たちを旧世界に置いてきてしまったのだ。

……一部の者を除いては。

 丘を越えた向こう、住人達が恐れて近づこうとしない森の奥に、かつて魔女裁判の迫害を逃れてきた男が住み着いた洞窟があり、その男が僕の数代前の祖先に当たるのだと聞いて、九歳の僕は一人でその洞窟を探しにいった。

 一日がかりで森を彷徨(さまよ)い、ようやく見つけた洞窟の中には、しかし、何もなかった。

 鬱蒼と茂る木立の中から僕に囁きかける妖精の声も聞こえてはこなかった。

 すっかり陽が落ちてから帰宅した僕は両親からこっぴどく叱られ、泣きながら、もう二度と森へは行かないと固く約束をさせられた。

 そうして、僕もまた、妖精など一顧だにする価値もなしとする多くの人々と同じ暮らしの中へと埋もれていった。

 けれど。

 代わりに僕の妖精がいたのは図書館だった。

 妖精たちがひそんでいたのは、新大陸には不釣り合いな伝承を残した祖先が隠れ住んだ森ではなく、そこから遠く離れたこの寄宿学校の図書館だった。

 この学校へ来る以前から──それこそ物心つき始めた頃から──両親の本棚の中身を片っ端から引っ張り出しては読み耽っていた僕だったが、それとは質量ともに桁違いの蔵書が整然と並べられているのを目にした途端、まるで何かの箍(たが)が外れてしまったかのように、僕は許される限りの時間を図書館で過ごすようになっていた。

 森に妖精が棲むように、図書館の本棚にはおびただしい数の妖精が隠れ住んでいることを僕は知った。

 棚から取り出した本の表紙を開くたびに見たこともない姿の妖精たちが僕の脳裏にあざやかに現れ、ページをめくればまるで森を吹き抜ける風が起こす葉ずれの音のように、妖精の声が僕の耳に物語を囁きかけた。

 あの日、森で見つけられなかった景色がそこにはあった。

 いたずら妖精のパックや妖精の王たるオベロン、嫉妬深い王の妻はもちろん、彼らに翻弄される人間たちも、物語の世界で息づくもの全てが僕の『妖精』だった。

 物語も戯曲も神話も伝説も、伝記や過去の偉人賢人たちの書き遺した言葉でさえもが、本の中からまざまざと蘇り、僕に語りかけた。

 アテナイ市民に向かって弁明するソクラテスですらも例外ではなかった。

 人も、動物も、植物も、神も、悪魔も、妖精も、本に書かれた存在の全てが、僕の目の前で一緒になって、図書館の中で輪舞を踊った。

 七年前、あの森で出会えなかった妖精たちが今、ここにいる。

 僕の胸を絶えずざわつかせる『妖精』に逢うために。

 今夜も僕は、こうして教師たちの目を盗んで、夜の図書館へとやってきたのだ。

 ページを開いて読み進めるだけで、夕食時間から消灯までの退屈だった時間を軽々と飛び越えて、本の中でずっと待っていてくれたその光景に、僕はあっさりとたどり着いていた。


──懐中電灯がなくてもたどり着けるんじゃないか?


 ふと、そんなことを思いついて、ページから顔を上げた。


──そんなはずはない。


 図書館は夜の闇に沈み、懐中電灯の丸い明かりだけが、本に記された幻想の世界を照らし出している。

 暗がりの中で苦笑して、僕は再び妖精たちが踊る輪の中へと戻っていった。



     *     *     *



 どこかとても遠くて近い所で、かちりと小さく、鍵の開く音がした。


 

 長い長い回廊の真ん中に、僕はただ一人立っていた。

 深い琥珀色に古びた木製の壁のところどころにランプの明かりが灯されていて、幅の広い回廊をぼんやりと照らしている。

 ひたすら真っ直ぐ伸びた通路の先は、暗闇の中に沈んで見えない。

 後ろを振り返ったその先も、全く同じ、薄暗い回廊の光景がどこまでも続いていた。

 けれど、そうして僕の背後に伸びる回廊のはるか向こうには、妖精王オベロンの森と図書館の本棚の森とが交差する場所があるのが何故か僕には判っていた。

 数え切れぬほどに、何度も、この回廊を通った記憶が確かにあった。

 再び前方を見る。

 では、この先はどこへ通じているのだろう。

 どんな世界と交差しているのだろう。


──もしかしたら、このまま僕はどこまでもどこまでも行けるんじゃないか? 


 すべての世界と、時間すらも越えて──

 

 その時、足元の床に真っ直ぐな亀裂がするどく走った。

 僕の立っている左手前方から右後方へ向けて、剃刀(かみそり)が裂くように、音もなく斜めに金属質の切り裂きが床面を走った。

 真っ二つに切り込まれ、ぐらりと床がかしぐ。

「あっ……」

 足元を取られてよろめく僕の目の前で、再び空間が切り裂かれた。

 さっきとは逆に右斜め前方から素早く切り込んで、鋭角に床を断ち切った。

 突き刺すような、鋭い角度。

 僕の目の前に、巨大なV字があらわれた。

 そのV字が、ぎらりと光る。

 鋭角に交わる角度の中に、なにかがいる。

 怪しく輝く角度の中から、青緑色の長い鉤爪と先の尖った細長い舌を持つ何かが稲妻のように僕をめがけて飛び出してきたーー



     *     *     *



 懐中電灯が手から滑り落る感覚で目が覚めた。

 反射的に持ち直そうとして掴み損ね、床に落ちる。

 音を立てて転がった懐中電灯の明かりが図書館の壁のあらぬ方を照らし出した。

 ぎくりとして息をつめ、本棚にもたれて座り込んだままの姿勢で辺りを見渡す。

 いつの間に眠り込んでいたのだろう。

 どれくらいの間、眠っていたのだろう。

 闇に慣れた目に、膝の上で広げられたままの本と暗がりに沈む図書館の光景が見えた。

 僕が忍び込んだ時と同じように、カーテンは全て閉ざされたままで、隙間から朝の光が漏れてくることもなかった。


──よかった。


 もし朝食時間を告げる鐘が鳴っても僕が食堂に来ておらず、図書館で本を抱えて寝ているのが教師達に見つかりでもしたら、僕の時間のすべては読書から切り離され、反省と贖罪を強制される退屈さは想像することすら堪え難い。

 安堵の息を吐いて、懐中電灯を拾い上げる。

 もう少し、読む時間はあるだろう。

 本のページを再び照らし、読みかけていた行を探そうとして──

 その時、僕の耳に、誰かの息づかいが聞こえた。


 誰かが──いや、何かがいる。


 ぎくりと息を呑み、身をこわばらせる。

 懐中電灯の明かりを消して耳を澄ませる。

 僕が眠り込んでいるうちに、誰かが入ってきたのだろうか。

 でも、誰が?

 図書館の床に座り込んだまま、素早く考えをめぐらせる。

 僕以外の生徒が真夜中に図書館にやってくるとは思えないし、司書のバートン先生や他の教師なら、まず真っ先に電気をつけているだろう。

 いずれにせよ、その誰かが、つけっぱなしだった懐中電灯の明かりに気づかないはずがない。

 だとしたら、いったい?

 沸き上がる不安を抑え、暗闇の中の気配を探る。

 くぐもった低い声が闇の中に響いている。

 不気味な息づかいに混じって、うなり声とも付かない声が、だんだんこちらへ近づいてくる。

 足音はよく聞こえない。

 床に尻をついて座ったままの僕の目の前には、暗がりの中に図書館の椅子や閲覧用のテーブルの脚だけが辛うじて見えていた。

 いや。

 僕は気づいた。

 真っ暗なはずの室内で、椅子や机の脚が見えるのは、『それ』がおぼろに燐光を放っているからだ。

 周囲がぼうっと青緑に照らされる。

 近づいてくる、『それ』。

 林立する何本もの椅子とテーブルの脚の隙間から、そいつの姿が見えた。

 一本も毛の生えていない太い四つ脚が、青緑色のごつごつした背骨と肋骨を浮き上がらせた歪(いびつ)な胴体をささえている。

 大型犬よりもまだ大きい。

 それどころか、後肢で竿立ちになれば大人の背丈すら軽く超えるだろう。

 耳は小さく、代わりに大きく裂けた口は顎のところでちぎれそうなほど不格好に開いている。

 口元からは先の尖った細長く真っ青な舌が鞭のようにとび出している。

 つうっと、透明な唾液が顎からしたたり、床に落ちる。

 まるく透き通った目が闇の中でぎらりと光る。

 ひっきりなしに鼻をひくつかせ、何かを嗅ぎ取ろうとしている。

 まるで猟犬が獲物の居場所を探ろうとしているかのように。

 だが、獲物とはいったい何だ?

 こいつは何を、誰を探しているのだ?

 緑青(ろくしょう)をふいた骸骨のような四足獣の足跡が点々と、燐光を放って床に押されてゆく。

 その姿は、僕が今まで見てきた『妖精』とはあまりにも異質だった。 


 不意に『猟犬』が歩みをとめ、せわしなく嗅ぎ回っていた鼻もぴくりと動きを止めた。

 そして突如、椅子の脚の向こうにいたはずの『猟犬』の姿が消えた。


──えっ……?


 獰猛なうなり声が僕の頭上から降ってくる。

 見上げると、床を蹴って身軽にテーブルの上に飛び上がった『猟犬』が異様に細長い舌を垂らして僕を見ていた。

 ガラス玉のような眼球の中、ちろちろと青黒く、炎のように燃える瞳がぎろりとにらみつける。

「あ……」

 喉の奥で声が詰まり、体は縛り付けられたように動かない。

 手足の先が冷たくしびれて感覚を失っている。

 氷の塊を心臓に押し付けられたかのように、のしかかる恐怖心に押さえつけられたまま動くこともできない。

 これは現実なのか?

 僕はまだ、僕の幻想の中にいるんじゃないのか? 

 凍り付いたまま、僕は逃げることもできない。

 怯(おび)え切った獲物を狩り立て引き裂く残忍な喜びを押さえきれずに『猟犬』が咆哮を上げる。

 引き絞った弓のように四肢に力を込め、テーブルを蹴って襲いかかってくるのから目を離すこともできずにいる僕の目の前で──


 白い流星が闇を裂き、横殴りに『猟犬』をめがけて襲いかかった。


 小さくしなやかな影と、緑青色の猟犬とがぶつかり合い、ひと固まりになってテーブルの上から転げ落ちた。

 けたたましい音を立てて、いくつもの椅子が倒れる。

 白い影が鞠のように床に弾んで駆け出すのに向かって、吠えかかりながら『猟犬』が床を走り、本棚の向こう側へと見えなくなる。

 だが、すぐに追いついたらしく、駆け回る足音は床の上で激しく取っ組み合う乱雑な騒音に変わった。

 苦痛と怒りに満ちた咆哮と、うなり声が闇に響く。

 僕の見えない所で。

 だけど、確かに戦っている。

 互いに互いの身体(からだ)を切り裂き、食い破り、痛撃を食らわせようとする生々しい物音がひっきりなしに僕の耳に届く。

 威嚇と、苦悶の響きが時折混じる。

 次々に繰り出される斬撃をかいくぐり、息の根を止める一撃を与えるべく、床を蹴る足音が響く。

 そしてついに、耳を塞ぎたくなる断末魔の叫びが夜の図書館じゅうに響き渡った。

 ごきりと、最後に鈍い音が聞こえて、静かになった。


 どちらかが、勝ったのだ。


 しばらくそのまま待ったが、もう何の物音も聞こえない。

 本棚の向こうから現れる影も、ない。

 耳をそばだてても、聞こえてくるのは緊張に張りつめた僕のあえぐような息づかいだけだ。

 辛うじて、こわばる指先で懐中電灯の明かりをつける。

 震える膝に力を込めて、立ち上がった。


──どこだ?


 胸の中で破裂しそうな鼓動を抑えながら、ゆっくりと、そいつらが争っていた本棚の向こう側へと近づく。


──どこにいる?


おぼつかない足取りで歩を進める。

だがすぐに、ぎくりと立ち止まる。


──どちらが勝ったのだろう?


 ふらつきそうになるのを、片手をテーブルの上について体を支える。


──このまま立ち去った方がいいんじゃないのか?


 もし、生き残ったのが『そいつ』だったら。


──でも。


 あの白い影は、僕を助けてくれたんじゃないのか。

 『猟犬』の足跡は、まだおぼろに不気味な青緑の燐光を残している。

 だが、本棚の向こう側は静まり返ったまま、物音ひとつ聞こえてこない。

 もしかして、両方とも命を落としてしまったのだろうか。

 まさか──

 僕は大きく息を吸い込んで本棚の向こう側へと周り、辺りを懐中電灯の明かりで照らした。



 真っ先に目に入ったのは、床の上にだらしなく横たわった緑青色の獣の残骸だった。

 かすかに燐光を残し、本棚と本棚の間の狭い通路をふさぐように横たわっている。

 『猟犬』は──『猟犬』だったものは、背中をざっくりと大きく爪のようなもので切り裂かれ、不格好に長い首はまるで喰いちぎられたかのように皮一枚で辛うじてつながっている状態だった。

 先の鋭く尖った長い舌がだらりと口から飛び出している。

 ガラス玉の瞳の炎も消え、ただの黒い穴に過ぎなかった。

 死んでいる。

 大きくひとつ息を吐いて、でも、まだ僕の緊張は続いたままだった。


──この奥にまだ、いるはずだ。


 おそるおそる、奥の方へ懐中電灯の明かりを向ける。

 照らし出した中に、ぼんやりと白い何かがいる。

 やや小柄な、人影のようだ。


──人?


 僕は目を見張る。

 銀色に輝く長い髪に縁(ふち)取られた、少年の白い顔。


──でも、僕が見たのは……。


 テーブルの上の『猟犬』に飛びかかり、追われて逃げた白い影はもっと小さかったはずだ。

 辺りを見渡しても、その人影の他には『猟犬』の死骸しか見当たらない。

 丸い明かりの中、本棚にもたれかかるようにして床に座り込んでいる。

 ではやはり、僕を助けてくれたのはこの人以外にはない。

 ゆるやかに波打つ長い銀髪が背中まで流れ落ちる。

 僕と同じくらいの年頃のようだ。

 目を閉じたまま、じっと動かない。

 袖なしの白い服に包まれたしなやかな身体。

 その服の脇腹の辺りが、真っ赤だった。


「あっ……」


『猟犬』の死骸の脇を通り過ぎ、僕は銀髪の少年の元へと駆け寄った。


「大丈夫!?」

 

 すぐ傍らにひざまづいて、顔をのぞき込む。

 長い睫毛の、白い顔は血の気を失ったままだ。

 細い指先の手が右脇腹の傷口を押さえて血塗れになっている。

「ああ……!」

 なにか手当を、と思う気持ちばかりが焦って、だが、下手に動かすとかえって出血がひどくなるのではと思うと、手を触れることすらためらわれた。

 そうして、ただ狼狽(うろた)えるだけの僕の目の前で、少年がうっすらと目を開いた。

 薄青い瞳が焦点を結んで、僕の顔を見た。

「……そうか、君の回廊か」

 ややかすれた声が、だがはっきりと、そう言った。

「え?」

「……きっと『猟犬』は、君を嗅ぎ付けてきたんだな。でも、もう大丈夫……」

「何を言ってるんだ? 僕なんかより君の方が……」

 自分の血にまみれた手を目の前にかざして、彼はこともなげに僕に言った。

「僕? ……ああ、こんなのはぜんぜん大したことじゃ……」

「なにを言ってるんだ! こんな大怪我じゃないか!」

 思わず声をうわずらせる僕に、銀髪の少年は軽く笑ってみせた。

「大丈夫だってば。これくらいの傷なら自然に塞がるんだから。……ああ、いや……」

 再び、彼は目を閉じると、大きく息をついて背後の本棚に寄りかかった。

「君、すまないけど、どこかで牛乳を一杯もらってきてくれないか? ……さすがにちょっと出血が多いな。精(せい)が足りない……」

 ゆっくりと、少年の身体が傾いて、横倒しになった。

「あっ……」

 床の上に横たわり、胎児のように手足と身体をちぢこめて、丸くなる。

 その身体が淡い光を放ち、綿毛のように柔らかく白い毛並みに包まれながら、みるみる小さくなってゆく。

 頭の上に小さくふたつ、とがった耳が伸びる。

 息を呑んで見守る僕の前で、少年は一匹の白い猫になった。

 だが、あれほどひどく出血していたはずの脇腹には傷跡ひとつ残ってはいなかった。

 小さい鼻から、深く長い呼吸の音がゆっくりと規則的に聞こえてくる。

 苦痛に満ちた響きのない、やすらかな寝息だった。

 夜の図書館で、白い猫が身を丸めてすうすうと眠っている。

 長い尾が体の曲線に添うように丸められ、時折、耳がぴくりと動く。


「そうだ、牛乳……」


──精(せい)が足りない……。


 食堂、いや、調理場に行けばあるだろうか。

 寝息を立てている猫を起こさないよう、そっとその場を離れようとした僕の足が止まった。

 床に横たわる『猟犬』の死骸が、消えつつある。

 ごつごつと緑青をふいたようだった手足と胴体が、あちこちでぼろりと折れて崩れ、燐光を失い、水が地面にしみ込むように消えてゆく。


 もといた場所に、帰るのだろうか。


──だが、それは一体どこなのか?


 不安をかき立てる疑問を振り払い、僕は図書館を出た。



     *     *     *



 食堂の窓が、ひとつだけ鍵をかけ忘れられたまま開いていた。 

 窓枠を乗り越えてしのび込み、隣接する調理場から一本の牛乳瓶とスープ皿を一枚持ち出して、急いで僕は図書館に戻った。

 『猟犬』の死骸はもう跡形もなかった。

 白い猫はさっきと同じように、本棚の前でこんこんと眠っていたが、僕が牛乳瓶の中身を皿に注(そそ)いで床の上に置くと、鼻をひくひくとうごめかせて、目を開いた。

 耳をぴんと立て、むくりと身を起こす。

 皿に駆け寄り、ものすごい勢いで牛乳を飲み始めた。

 スープ皿に顔をつっ込むようにして、器用に舌ですくい取りながら飲み干す姿を、僕はすぐ隣にしゃがみ込んで見守った。

 あっという間に皿の中身は空っぽになってしまった。


──もう一本持ってきた方がよかっただろうか?


「足りたかい?」


 皿の前にちょこんと座って、毛繕(づくろ)いを始めた猫に聞いてみた。

 ぴくり、と耳を立て、猫は顔を上げて僕を見た。

 薄く青い色の瞳が僕を見つめる。


「にゃあ」


 右の前脚を上げ、猫は僕の膝に軽く触れた。

 そのままするりと僕の前を通り過ぎ、本棚の間の通路から出てゆく。

 角を曲がってゆき、姿が見えなくなる。

「あ、待ってよ」

 慌てて立ち上がり、懐中電灯を手にして後を追う。

 だけど。


「え……」


 図書館の中に、白い猫の姿はもうなかった。

 床を、椅子とテーブルの間を、本棚と本棚の間の通路を、懐中電灯の明かりであちこちを照らしてみても、どこにもいない。

「そんな……」

 ただ一人、立ち尽くす。

 閉ざされたカーテンの向こうで、夜明けの光がかすかに空を照らし始めていた。



                      (つづく)

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