せっかくキレイな顔なのに
土蔵の扉の方で物音がして、瑞透は本から顔をあげた。と同時に不安げな声が聞こえた。
「瑞透、いる……?」
扉の向こうに夕暮れの淡い光に浮かぶ人影が見えて、瑞透は本を閉じながら「いるよ」と答えた。
土蔵におそるおそる入ってきたのは母ではない。春陽だった。
土蔵そのものが初めてなのか、足元や周りを何度も確認するようにして奥の瑞透のところまでやってくる。
「こういうとこ、初めて?」
漆喰の壁に寄りかかっていた瑞透のそばまでたいした距離があるわけではない。あまりに慎重な様子に思わず笑いがこぼれた。春陽は瑞透の顔を見た。
「土蔵に入るの初めてで……。それより寝ていなくていいの? 体の調子は?」
「うん、もう平気」
「よかった。部屋に行ったら、もぬけの殻なんだもん、探しちゃったよ」
そう言いながら、春陽の視線が瑞透の顔の左側に走るのがわかった。
「痛む?」
「ううん、全然」
「あと残っちゃうかな……?」
「どうだろうね」
「せっかくキレイな顔なのに」
落胆したような春陽に、瑞透は苦笑した。
「多少のあとが残ってもたいして支障はないよ」
瑞透の顔半分、目の周りから頬にかけて、おおげさに包帯がまかれている。
白い蝶の群れに襲われて意識を失った瑞透が次に目覚めたのは、見慣れた本家の座敷だった。母屋から出てきた両親が、玄関の前で意識なく倒れている瑞透を発見したのだ。
そしてその顔の半分は皮膚が焼けただれたようにひきつれ、赤黒く変色していた。
何が起こったのか、林間学校という子供たちを預かっている最中でのショッキングな出来事に八重野の本家は大騒ぎになった。
目を覚ました瑞透は、当然のごとく両親や大伯父だけでなく、林間学校の先生たちにさえ、説明を求められた。瑞透は心配と不安を一掃するようにあっけらかんと言った。
「見慣れない虫の大群に巻かれただけ」と。
往診にきてもらった医者の見立てでは、きちんと検査しないと結果を出せないことを前提に、火傷に近いということだった。それでもどこか納得がいかない周りに、瑞透はそれ以上のことを覚えていないと、その一点張りで押し通した。
実際、痛みも痒みも何もない。
それに、あの異様な出来事を誰が信じられるというのだろう。
「肝試しはどうするって?」
「まだ揉めてるみたいだけど、結局すると思う。生徒たちには瑞透のこと伏せてるみたいだし」
「おおげさなんだよ、これしきのことで。適当に転んだとか怪我したとかでいいのに」
瑞透は面倒そうにため息をついた。その様子に春陽の表情が険しくなった。
「これしきのことじゃないよ。瑞透にはそうでも、私には全然これしきなんかじゃない! 神社でも倒れかけたし、今度は意識まで失って、顔も……! 私だけじゃないよ。ご両親だって、皆だってすごく心配したんだよ。いったい何が起きたかも分からなくて、目を覚まさなかったらどうしようって、……瑞透は、自分のことを軽んじすぎる!」
春陽は滲んだ涙を隠すように俯いた。その頬に光ったものが目に入ったとたん、瑞透の胸の奥で何かが弾けたように音をたてた。
春陽を見上げていた瑞透は、丸椅子から体を起こすとは春陽の前に立った。
春陽は背が高い。瑞透と同じくらいで、ヒールのある靴を履かれたら瑞透の身長をこすだろう。でも瑞透もまた成長がとまっているわけではない。
瑞透は自分の顔と同じ位置で俯く春陽を見つめた。自分を案じてくれる春陽が、年上だけれど可愛いと思った。
一つに束ねたポニーテールの黒髪が奇麗だと思った。
触れてみたいと、強く思った。
「……僕が消えたら、春陽はかなしい?」
「そっ、そんなの悲しいに決まってるじゃない! なに、消えるとかってまた軽々しく」
詰るように言いかけた春陽が固まった。
瑞透が春陽の後頭部に手をのばすようにして、その黒髪を触ったからだ。
「心配してくれて、嬉しい」
瑞透がそう言って、手のひらで髪をすくいあげた。その指の間からさらさらと春陽の黒髪が流れるようにこぼれた。
そうしながら遠い目をする瑞透に危うさを感じて、春陽は息をつめた。
「……春陽には何度も情けない姿見せてるから、もうこの際だけど」
瑞透はまた春陽の髪をすくいあげた。何度すくっても、つかんでみても、手のひらの中にしっかりとつかまえきれない。それでも存在している。
しなやかな美しさと強さを主張して。
それは瑞透の中にはないものだ。
自分が病弱でなければ、ソレを見てしまう特異な体質でなければ、こんなふうにいられたのだろうかと思って、それから無意味なタラレバに頭を振った。
「僕は、心臓の病気だ。余命も宣告されてる」
春陽が息をのんだ。
「いつ死んでも同じだと思ってたんだよ。昨日までは。どこでどんな死に方をしようと、死んだらすべて終わり。僕にはなんの意味もない。……でも」
瑞透は春陽に視線を戻した。
心配と不安と緊張と、そして嬉しさに揺れる春陽の瞳の奥に、近づきたいと思った。
「春陽に会ってから、もう少し、……」
瑞透の声がわずかに震えた。そこで瑞透は口を閉じ、視線を床に落とした。春陽は、瑞透がそこで飲み込んだ、言いたくて言えない言葉を引き継ぐように瑞透の頭をそっと肩口に引き寄せた。そして背中を撫でた。
「瑞透がいなくなったら、……つらい」
春陽の言葉に瑞透はこらえていた息を吐き出すと、目を閉じて、額を春陽の肩に預けた。
余命のことは身内以外知らない。
友人たちにさえ言っていないそのことを、会って間もない春陽に口にしてしまったのはなぜか、自分でもよく分かってはいない。
春陽は同情心でかわいそうだと思っただけかもしれない。
それでも今の瑞透には嬉しかった。少しでも、彼女の中で自分の存在が大きければいいと願った。
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