執り殺されるのは我慢がならない自分がいる

「おいこら新太しんたー! 席つけ、席!」


 武士の元気な声が大座敷に響く。

 瑞透と春陽は配膳の食事を手にしながら、武士が小学一年生の男の子を追いかけていくのを見て苦笑した。


「武士の言うことなんてきくか、ばーかっ」


 八重野家の夏休み恒例の林間学校が始まり、成長するにつれ遠ざかっていた瑞透もまた手伝いで顔を出していた。

 それは東京から遊びに来た高校の友人たちに八重野の本家への宿泊と引き換えが条件だったからというのもある。


 でもそれ以上の理由があった。


 武士と新太という小学生の追いかけっこを見て楽しそうに笑っている、春陽の存在だ。

 春陽は林間学校のボランティアとして、八重野の本家に寝泊まりしながら、学校の先生とともに小学生の面倒を見ていた。


「新太くん、ちゃんと席について。皆、ご飯食べるの待ってるんだから」


 春陽の言葉に、新太が細い目に苛立ちをよぎらせて、無言のまま自分の席に向かった。その様子に、春陽がかすかに表情を曇らせるのを瑞透は見逃さなかった。


「……そのうち心開いてくれるよ」


 そっと言葉をかけると、春陽は小さく頷いて、席につかずふらふらしている他の小学生の元へ向かった。


 瑞透はちょうど座敷に入ってきた理人たちの方に足を向けた。

 理人と室戸だ。


 瑞透が近づいていくと、理人が気づいて軽く手をあげた。

 そばに佇む室戸はどこかおどおどしたように、瑞透をみあげた。


 瑞透がいつもつるんでいるグループには混じらない室戸が、武士や理人たちに混じって遊びにくるとは思ってもいなかった。


「どうだった?」

「いい感じじゃないかな。墓も通るルートだし、なによりもともと雰囲気あるとこだからさ。な、室戸」

「う、うん……。きっと子ども達を怖がらせることできると思うよ……」


 二人は小学校の先生たちに頼まれて肝試しイベントのルートを確認してきたところだった。


「武士、脅かし役に気合い入ってたからね」


 林間学校が始まってすぐ小学生に懐かれた武士をちらりと見た。妹や弟がいる武士は性来面倒見がよく、武士自身も小学生の間で楽しげだ。

 そのせいか肝試しの行事があるときいて、一番に脅かし役に手をあげたのが武士だった。


「武士とオレらと、あと先生たちが脅かし役だろ。室戸は?」

「ぼ、僕はゴールした小学生たちをまとめなきゃいけないんだ……」

「瑞透はどうすんの?」

「適当。もう何度も手伝いやらされたから、遠慮したいとこだけど」


 瑞透が面倒そうに言うと、理人は軽く笑い流して配膳が済んだ座卓の空いているところに座った。

 瑞透と室戸も近くに座る。


 小学生たちは皆それぞれ座り、先生たちが席につくのを待っているようだった。

 瑞透はふと顔をあげて、春陽の姿を探した。

 春陽は女子児童に囲まれている。


 その瞬間、瑞透は表情を強張らせた。

 春陽のその肩口に、黒い塊が見えた。


 瑞透にしか見えないソレの存在。

 春陽の表情が曇って見えるのが、今は心配だった。


 瑞透はさっと立ち上がると、理人たちが驚くのを横目に春陽のそばに近づいた。


「大丈夫?」

「え? あ、瑞透……」


 顔をあげた春陽に、瑞透はにこりと笑いかけ、さりげなくその肩口の黒いソレに触れた。


 その瞬間、凍りついた金属の冷たさが痺れのように這い上がってきた。

 ソレが嬉々として瑞透の右腕にまとわりつくのが分かった。


 右腕が軽く強張る。


「ちょっと疲れてるように見えたから」

「え? ほんと?」


 うろたえた春陽に、「あまり根つめない方がいいよ」と声をかけると、すかさず二人の様子を見つめていた女子児童たちが熱っぽく潤んだ目で口をはさんだ。


「ねえ春陽お姉ちゃんと瑞透くんって恋人同士ー?」


 瑞透も春陽も思わずぎょっとして女子児童たちを見た。好奇心に満ちたおませな顔が複数、二人を囲んでいるかのようだった。


「違うよ。この林間学校で会ったばかりだよ」

「ええー。でもお、瑞透くんイケメンだもん、春陽お姉ちゃん好きになったりしないのー?」

「あのね、お姉ちゃんはここに先生の手伝いに来てるんだよ。遊びじゃないの」

「ええ、そんなの関係なくない? 瑞透くん、イケメンだよね。読モとかやってないの?」

「そうそう。春陽お姉ちゃんが恋人じゃないなら、……ねえ?」


 鈴のように幼い女子たちの笑い声が水紋のように広がる。

 その裏に、例え小学生という幼さでも女子特有のどこか媚びた匂いが漂っていて、瑞透は胸の奥でため息をついた。


 こういう場面が多いことも、瑞透の足が林間学校の手伝いから遠のく一因だった。


「ねえねえ、瑞透くんは? 春陽お姉ちゃん、好きになったりする?」

「ちょ、ちょっと、もういただきますしよう? ね?」

「ねえ瑞透くん」


 慌てる春陽に構うことなくまっすぐ見つめてくる女子の一人に、瑞透はよそいきの笑みを浮かべた。

 その子の目が自分への憧れに潤んでいるのくらいは分かる。


 恋愛に恋する年頃の女の子は、年齢問わず瑞透には厄介な存在だ。


「そうだね、僕は春陽お姉ちゃんみたいに場をわきまえて礼儀いい人が好きだからね、好きになっちゃうかもね」

「ちょっと瑞透っ?」


 動揺したかのような春陽の様子ときゃあきゃあと黄色い歓声をあげながらも、行儀良く配膳の前に向き直った女子たちを見守り、瑞透は春陽に目配せするとその場を離れた。


 その時、ふと座敷の廊下に近い位置の方が騒がしくなった。

 二、三人の先生たちが頭を下げている。

 恰幅のいい大伯父と並んで、瑞透の両親がいた。


 いつものことで忘れていたけれど、配膳された食事の野菜も米も瑞透の両親が手塩にかけてつくったものだ。

 だから子供たちがどんな顔で自分たち農作物を口に入れているのか、純粋に気になっているのだろう。


 先生たちのお礼に頷いたり言葉を返したりする父のそばで、身重の母は、優しい目で生徒たちを見つめている。

 その母を支えるように父はしっかりと腰に手を回していた。

 その寄り添う仲の良さは、どこにいても同じだ。

 だが、春陽は初めて二人揃った場面を見たらしい。


「ステキよね……」


 小さく呟かれた言葉に、瑞透は隣の春陽を見た。


 春陽は瑞透が見たことにも気づかないのか、どこか上気した顔で両親を見つめている。


 瑞透はもう一度両親を、そして父を見た。


 父がいわゆる美形だということは分かっている。そして母を誰より大切にする愛妻家だということも。

 だから女性にすこぶる人気が高い。


 どんな女の子も、父に憧れる。そういう場面は多く見てきた。



(春陽もか……)



 そう思うと、息苦しくなった。

 じくじくと胸の奥が鈍く、にぎりつぶされるように痛み出した。いつもの心臓の痛みだと、瑞透は奥歯を噛み締めた。


 これはいつもの痛み。


 少しやり過ごせば落ち着くはずだ。

 瑞透は息を整え、その場を離れた。


「え、あれ瑞透くんのお父さんなの? えーうちのパパよりかっこいい!」


 また背後で黄色い悲鳴があがっている。さきほど自分に憧れの目を向けていた子の声もする。

 いつものこととはいえ、今はいつものように聞き流せず、ひどく気が塞いだ。


「なんつか、瑞透ん家って、お前もオヤジさんもすっげえモテメンだな」


 通りがかった時に、どこかむすっとしている新太の隣に座る武士が笑った。


「代わってほしいならいつでも言って」


 軽く受け流すと武士は、隣の新太の肩を抱いた。


「よく見とけ。瑞透みたいな男が将来女泣かせんだかんな。ああいうヤツにはなんなよー」

「なんだよそれ」楽しげに笑う武士の肩を殴ろうとしてやめ、瑞透は理人たちの席に向かった。

「ちょっと電話してくるから先食ってて」


 あまり余裕のない様子で、足早に両親と先生たちがたむろしている襖とは別のところから大座敷を出ようとして、「瑞透」と白彦に呼び止められた。


 今はあまり父の顔を見たくない。


 それでも無視したら説教が始まることを身をもって知る瑞透は、仕方なく父を見た。


「なに」


 少し剣呑とした響きになったのは、瑞透も無意識だった。

 一瞬眉をひそめた白彦はすぐに先生たちの方に向かって微笑んだ。


「不肖の息子ですが、ばしばし使ってやってください。少しは役に立つでしょう」


 白彦が瑞透の顔を見る。

 無視をしたくても、そばにいる皐月も穏やかな目で促すから、瑞透は追従のように礼儀正しい笑みを浮かべて「よろしくお願いします」と言った。


「いや、もうそんな。さすが八重野さんのお子さん。ご学友を引き連れて手伝っていただけるなんて」


 女性の教頭先生と新人の先生が、頰をかすかに染めて謙遜している。


 瑞透は笑みの下にくさくさした気分を押し込め、頭だけ下げると座敷を出た。背中で「息子さんも将来が楽しみですね」という世辞が聞こえてくる。


 不快さが表情に出ていたとしても、どうせ白彦の美貌に見惚れている女教師に気づくわけがない。


 襖を締め切ったとたんに、瑞透は長く薄暗い廊下を走るようにして玄関へ向かった。


 その右腕には靄のようにソレがまとわりついてじくじくと痛み、少しずつ瑞透の肩へのぼり、首まで巻きつき始めていた。


 瑞透は母屋の外に飛び出すと同時に尻ポケットから刀守をとりだした。


 その瞬間、逃れるように瑞透の右腕からソレがふいに宙に舞い上がるように縦にのびあがった。

 瑞透はそのまま坂を下り、長屋門を飛び出した。


 形を自在に変えながら、ソレが瑞透を追ってくる。


 瑞透はそのまま目の前に広がる田園を縫うあぜ道に降り立ち、走った。


 長く尾をひいたソレが瑞透を追い、そうして瑞透の足が鈍り始めたのを認めたのか加速して、駆ける瑞透の身をとりまくように前にまわりこんだ。


 瑞透は急停止すると、指と指の間に挟んだ刀守を構えた。



 細い弓のような鋭い月が雲一つない紺青の空で煌々と照っている。

 さらさらと波が寄せては返すように稲穂がさやかな音をたてている。虫たちが涼やかに鳴き交わす合間にグオグオと野太い声でウシガエルが鳴き、時おり、シカらしき動物の甲高い鳴き声が山の方から響いてきた。

 どこかでぽちゃんと田んぼの水が跳ねる音がした。


 蒸した日中の暑気は、山から降りる風に巻かれてどこかへ連れ去られている。

 こんなにも田舎らしい夏の夜なのに、瑞透の周りだけ不穏な気配が渦巻く。


 瑞透は走ってきたせいで荒い息を整えながら、「たち悪いね、君ら」と呟いた。


 瑞透には、ソレが複数であることが見えていた。


 白い蝶の群れだ。


 病的な白さで光る羽がまき散らす鱗粉の禍々しさが、普通の昆虫ではないことを示している。


 瑞透は舌打ちすると、上半身にまとわりつく白い蝶たちを手刀で斬るように薙ぎ払った。


 その手には刀守がある。

 刀守で払いのける度に、触れた蝶は瞬時に霧散した。


 それでもその群れをつくる個体数が圧倒的に多い。

 仲間が霧散しても後から後から湧いて出てくるかのように執拗に瑞透の顔の辺りを舞った。


 まき散らされる鱗粉で辺りがぼうっと霞み始める。


 瑞透は自然と息苦しくなってきた蝶の群れから離れるようにまた走り出した。すぐにソレは大きな群れとなって、瑞透を追い、取り巻く。


 じわりと冷や汗が背筋を伝う。


 きりがない。

 このままでは、まずい。

 窒息死してしまいそうだ。


 実際に、酸欠になりかけている。


 瑞透は焦るあまり、刀守で白い蝶の群れを何度も何度も薙ぎ払った。そうして体力を使うことで、余計に酸素を失う。


 頭の後ろに鈍い痛みが広がり始めている。このままでは身が危ういのは分かってはいた。


「く、そ……っ」


 こういう時にこそ、天白がいてくれたら。


 頼ってしまう自分の弱さに歯がゆさを覚えつつも、命の危険はすぐそこにあった。


 二十歳まで生きられないと分かっているのに、それでもこの時に、この得体の知れないソレらに執り殺されるのは我慢がならない自分がいる。

 いや、それ以上に自分が生きることに執着し始めていることに気づいていた。


 春陽の笑顔が、瑞透の気持ちを揺さぶる。


 割り切れない自分にも苛立ちと怒りを覚え、そして苦しさに奥歯をぎり、と噛み締めた。


 ずっと薙ぎ払い続けた腕は痺れて、もはやあげるのさえひどく重い。


 それでも瑞透は半分朦朧としながら、白い蝶の群れを斬り続け。


 がくり、と膝が折れた。

 慌てて両手を地面について体を支えた。


 その瞬間を待っていたかのように、瑞透の顔に白い蝶が一気に襲いかかった。瑞透の目にたかり、鼻に口に耳に、瑞透の身の内を食い荒らさんとするかのように小さな身をねじこませようと群れた。


 個体同士の羽が擦れ、鱗粉が舞う。


 空気が薄い。

 息ができない。


 視界が揺らいで、瑞透はその場にどっと倒れた。


 ここで、本当に自分は終わる。

 たった十六年の短い命は。


 握りしめていた刀守が、手のひらからこぼれ落ちた。


 あぜ道の草がはらんでいた夜露が刀守に、ぽつりとこぼれ、濡らした。


 その瞬間、激しいほどの甲高い音が、辺りにこだました。

 真夏の夜を切り裂く音は、篠笛か、動物の鳴き声かは分からない。


 たださきほどからうるさい羽音を破るようなその音に、どこか懐かしさを覚えた。


「瑞透……」


 遠くなる意識の向こうで、瑞透は誰かに抱き上げられるところまでで、気を失った。

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