なに、緊張してんだ

 白く強い光が足元にくっきりとした影をつくる神社の石段をのぼった。


 小枝や落ち葉は掃かれてはいるものの、端の方は恵みの水を求める色あせた苔がむしている。

 その石段とともに並ぶのは、塗りがはげて木地が露わになった鳥居だ。

 人の背丈より少し高い程度の奉納鳥居が鬱蒼とした鎮守の森の木々を縫うように石段とともに幾重にも連なってのぼっていく光景は、どこか別の世界への入り口にも見えた。


 瑞透はその石段を淡々とのぼり続けた。

 歩き慣れてはいても、古宇里山の斜面にある境内に至る石段は長く、段の高さもきつい。


 枝葉の隙間から差す太陽は夏らしい強さで、比較的過ごしやすい山間にあっても瑞透はじっとりと汗をかいた。



 ここでもソレの姿は木々の間にちらほら浮遊している。後を追うように動き出したソレがあっても、瑞透が無視していればやがて離れていった。


 ようやく石段の終わりが見え、朱塗りが鮮やかな二の鳥居が視界に入った。


 ここまでくれば拝殿はすぐそこだ。

 最後の石段をのぼりきり、瑞透は膝に手をついて、あがりはじめていた息を整えた。


 ぐいっと額の汗をぬぐって体を起こすと、視界に、さらに続く奉納鳥居と横長の簡素な社殿が入った。

 正月には地域の人がこぞって詣でる、古宇里山の神を祀るといわれる神社だ。山そのものがご神体であるため、拝殿の建物のみが佇んでいる。


 瑞透は抜けるように明るい空をまぶしげに見上げ、ふとその拝殿の賽銭箱に至る木造階段に座る人を見つけた。


 すでに天白が来ているのかと近づきかけて、全くの別人だと気づいた。



 流れるような黒髪をポニーテールにした女性だ。



 祭や神事でもない限り、めったにここまでのぼる人は少ない。

 地元の住人でさえ、石段の下に設けられた遥拝所で済ませてしまう人が多い。


 珍しさに瑞透は思わず相手を観察した。


 大人の女性という割にはまだ幼さが残る雰囲気だ。


 瑞透に気づかないのか、女性は熱心に手元にある本に視線を落としている。

 細身のジーンズに包まれた長い足を投げ出して、この山間の地には似つかわしくない大人びた雰囲気だが、瑞透よりはわずかに年上のように見えた。


 でもその柔らかく落ち着いた様が、境内の静謐さをそのまま身にまとっているようで、瑞透はひどく心が動かされ、そういう自分に少し驚いた。



 でも今は、天白の姿を探す方が先だった。


 刀守を清めるためにわざわざ、長い石段をのぼってきたのだ。一歩足を踏み出し、パキリ、と足元の枝が乾いた音をたてた。


 その音に階段に座っていた女性が顔をあげた。


「こ、こんにちは」


 瑞透は慌てて挨拶の言葉を押し出した。ひりついた喉の奥がもどかしく、恥ずかしくなった。


「こんにちは」


 女性が本を閉じる音がした。なぜか緊張して表情がかすかに強張った。


「君、この土地の子?」

「あ、はい……」



(なに緊張してるんだ)


 そう内心毒づきながら、目の前まで歩み寄ってきた女性を見た。


 化粧っけはないけれど、ざっくり着こなした白いブラウスシャツが夏の日差しを吸い取ったようにきれいで、白い顔がハイライトを浴びたように透明感を漂わせている。


 ふわりと吹いた風に黒髪がなびき、瑞透の視線を攫った。


「八重野っていう宿泊施設、知らない?」


 どきりとした。八重野といえば、大伯父の本家以外にはありえない。


「林間学校の手伝いに来たんだけど、この辺りに宿泊施設みたいなの見当たらなくて」

「そこ、宿泊施設じゃないです」

「え、違うの?」

「普通の家、というか屋敷で」

「そ、そうだったんだ……どうりで」


 肩を落とした女性のポニーテールを風が再び巻き上げ、女性は慌てて髪を抑えながら、風の行方をたどるように石段の向こうをきらきらした瞳で見やった。

 その横顔に、瑞透の胸の奥が不規則に音を立てている。


 それが発作なのか、そうでないのか、瑞透には判断がつかない。


「あの、えーと……」


 瑞透の視線に気づいた女性が、少し照れたように首を傾げた。


 ハッとした瑞透は自分の顔の温度があがっていくことに動揺して、たまらず顔を背けた。その態度が相手を不愉快にさせたかもしれないことにすぐ気づいて、瑞透は慌てた。


 何事も平常心であることを心がけてきた瑞透には珍しく、相手を意識している自分をうまく扱えない。



 武士や理人の影響で、東京で他校の女子と一緒に遊ぶことはままあった。告られた経験もそこそこある。

 もちろん女の子とつき合うことに興味がなかったわけではない。

 しかしそれ以前に、女の子を本気で好きになることがなかった。

 武士に言わせれば、そういう相手に出会えていないだけだということらしいが、瑞透は、単純に自分の特異な状況が歯止めとして働いているのだろうと思っていた。


 自制心を強く持てば、コントロールなどたやすい。

 だから女の子からの好意に簡単には頷けなかったし、誰か特定の女の子に心を動かす時が来ることもないだろうと思っていた。


「その、八重野という家、ここから近い?」


 瑞透は落ち着くように言い聞かせながら顔をあげた。


「都会の感覚だと遠い、かな……。よければ案内しましょうか?」


 笑みを浮かべた瑞透に、パッと女性の表情が明るくなった。

 その素直な反応は女性を無邪気な少女のようにかわいらしく見せ、瑞透は目を細めた。


「そうしてくれると助かります、ありがとう! ここ圏外になりやすいみたいで、連絡とろうにも少し困ってたの」


 困っていた割には本など読んでのんびりしていたなと思いながら、瑞透は頷いた。


「私、如月春陽きさらぎはるひです」

「僕、八重野瑞透といいます」

「やえの、え? え? もしかして」

「八重野の家は、僕の大伯父の家です」

「え、そうだったの」


 戸惑う春陽に、瑞透は「すみません」と笑いながら謝った。

 そして春陽がついてくるのを気にしながら石段を降りはじめた時、すぐに歓声があがった。


「すごい、ここってだいぶ高いんだ」


 振り返ると目を輝かせて石段の上から眼下を見おろす春陽がいた。


「瑞透くん、ここすごいね! こんな景色いいの、のぼってきた時は気づかなかった」


 春陽の顔は興奮しているのか上気していて、ほんのり桜色に染まった頰がかすかに色気を漂わせている。


 瑞透は春陽の顔を直視できず、その視線をたどった。


 濃密に滴る緑の木々を越えてはるか遠く、山々の稜線が霞みながら重なりあっている。その手前の谷あいの盆地に青い田んぼと民家が肩を寄せ合っている。


 屋敷から見る田園風景は整然と広く感じるけれど、古宇里山の社から見るとだいぶ小さな狭い世界のようにも見えた。



 瑞透は黙って自分の生まれた土地を眺めた。


 東京に出て、自分が生まれ育ってきた世界がどれだけ小さかったかを知った。

 小さいことを悪いとは思わないけれど、都会は少し窮屈で、でもおもしろい。


 当然のように悪質なソレに出会う数も増えたから、必ずしも便利や刺激だけでは都会を好きだと言いがたいが、若い瑞透の好奇心を満たしてはくれる。


 そういう意味では、瑞透は都会の暮らしに染まりつつあった。


 だから隣の春陽が素直に故郷の景色を褒めたたえ、感動する姿は新鮮でもあった。


 その時、背後で木がきしむ音と瑞透を呼ぶ声がして振り返った。


 拝殿の木造階段を天白が降りてくるところだった。


 真っ白な長着と袴を身につけている。



「あれ、神主さんいたんだ……」春陽がぽつりと呟いて、天白が瑞透と春陽を認めて静かに笑みをたたえた。

 いつものニヒルさではなく、厳かな雰囲気をまとっている。


「瑞透、約束は忘れたか?」

「……別に」


 忘れてはいなかった。でもおもしろくない。

 思わず言い返し、瑞透は春陽の方に向いた。


「すみません、春陽さん。少し待っててもらえますか?」

「う、うん。私は大丈夫だけど……瑞透くんの方こそ平気? 約束って」

「大丈夫です。すぐ終わります」


 何をするかもわかっていないのに、瑞透は断定し、天白の方に大股で近づいた。


 天白は愉快そうに成り行きを見守っている。

 そのことが瑞透にはさらにおもしろくない。


「たいして時間かかんないよね」


 突っかかる物言いを聞き流して、天白は瑞透を誘導するように観音開きの扉を開け放った。


「瑞透くん」


 不意に背中から春陽に呼び止められて、瑞透は振り返った。そうせざるを得ない切羽詰まった響きが声音にあったからだ。


「春陽さん?」


 無意識に呼び止めたらしい自分にうろたえ、春陽は言葉を失ってその場で瑞透を見上げた。


「本読んで待っててください。少しなんで」


 頼られているような気持ちになって、瑞透はゆっくり力強く言うと、春陽は小さく頷いた。

 そして天白に促されるまま、拝殿へと靴を脱いであがった。

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