僕は、人間だからね。
父に見つからないうちにと長屋門に入りかけ、瑞透はまた小さく咳をした。
少し夜風に当たりすぎたらしい。土蔵にいた時よりも体の芯が高い熱を帯びている。
「瑞透?」
低く柔らかなトーンで、誰何され、瑞透は失敗したと思いつつ立ち止まった。
すでに一帯はぬめりとした闇に沈み、外灯のない道路もまたどこへ繋がるともしれない闇の中にその行方を預けている。
唯一、長屋門の電灯が道に落とす光の中に、足が、そしてその持ち主が現れた。
「父さん」
「もう夕飯でしょう? こんなところにいては体にさわります」
シンプルなカッターシャツに黒のスラックスで現れた男性は、ハッとするほどの端正な顔立ちだ。一見冴え冴えとした月を思わせる冷たい表情を、心配そうにしかめて早足で瑞透に近づいてきた。
染めているのか、風になびいた銀色の髪が暖色の光をはらんで反射した。
田舎では似つかわしくない奇異な髪色と美貌を持つのが、瑞透の父親白彦だった。
そして皐月と同じようにすぐ瑞透の額に手を伸ばした。
「大丈夫だって」
手が額の熱を測る前に身を交わした。
「大丈夫もなにもないでしょう。この前そう言って高熱で倒れたのはどこの誰ですか」
父も母も、瑞透の体のことを極度に心配しすぎなのだ。その窮屈さにくさりたくなる気分を抱えながら、母屋の玄関をくぐった。
「ただいま」
「白彦さん!?」
すぐ脇の土間から皐月が驚いたように顔を出して、すぐにひっこんだ。そしてエプロンをほどきながら嬉しそうに再び姿を見せた。
母の喜びあふれる表情に、瑞透は逆に拗ねたような顔で靴を脱いだ。
きっともう瑞透のことなど二人の視界には入らない。
「皐月さん、帰りました」
「今日は帰れないって……」
「そうだったんですけどね」
皐月に優しく微笑み、白彦は少し身を屈めて妻に「ただいま」と囁いた。
それから「ただいま、
肩をすくめて廊下を歩き出した瑞透の背中に、両親の幸せそうな声が届く。
「今日はどうでした? 何もありませんでしたか?」
「特別なことはなにも。この子も元気に動いていたくらい」
「皐月さんは?」
「私? ……も、なにも」
「……無理して田んぼ見回ったりしてはダメですよ?」
「え、あ、その、散歩よ、散歩」
「とか言って成長とか見回ったりしたでしょう。皐月さんの嘘はすぐ分かる」
「だって」
「気持ちはとてもありがたいけど、体が優先。もうすぐなんですよ?」
息子である瑞透の目から見ても、両親は仲がよい。よいというより、よすぎる。いまだに息子を産んだのも忘れて恋愛しているんじゃないかと思う。
幼い頃は他の家庭を知らない分、ラブラブな二人の様子が普通だと思っていたけれど、今はさすがに、自分の両親の方が他と違うのだとわかっていた。
両親が瑞透を疎かにしたり邪険にしたりするということではない。
ただ白彦の場合、妻を溺愛している。白彦の世界は皐月を中心に回っていると言ってもいいくらいだ。
父兄参観でもなんでも常に寄り添っているような感じだ。
それでなくても白彦は稀に見る美貌の持ち主。
しかも今では、県下有数のブランド農家であり、敏腕の農家経営者としても名が通りつつある。
注目を集めないわけがなかった。
くちさがない者はどこにでもいるもので、思春期に入った瑞透が両親の仲を恥ずかしいと思うのも当然の流れだった。瑞透が東京の寮制の学校を進学先に選んだ理由もそこにあった。
「人の気も知らないでよくやるよ……」
ため息をついて、瑞透は本家で与えられている自分の部屋に向かった。
人の手できちんと磨かれてきた長い板張りの廊下がずっと続いている。瑞透が足を踏み出すたびに、軋む音と古い匂いがまとわりつく。
幼い頃から馴染んだその空気は、屋敷の奥に行けば行くほど濃く溜まっていく。
同時にその片隅にいるソレの存在も視界に入った。
たまに震えるように動きはするものの、ソレらは特に瑞透に働きかけてくることなく、ただそこにある。
なぜ外に出会うものと違ってここのソレは穏やかなのか、瑞透には分からない。でも自分に危害を加える様子がないのだから、瑞透としてもただ通り過ぎるのみだ。
部屋の襖を開けて電気をつけると、障子の白さがほのかに部屋を明るくした。畳に積み上がったブックタワーのそばに手にしていた本を放るように置くと、瑞透は畳の真ん中に寝転がった。
屋敷の中でも客間として使う座敷が多い一廓にあるせいか、しんと静まり返っている。
瑞透は体の力を抜くと、目を閉じた。
この本家は、特に土蔵のことでもあるが、東京の寮よりも本家から少し離れたところにある実家よりも気持ちが落ち着く。
ふう、と体の力をぬきながら息を吐いた時だった。
不意打ちのように、ぶわっと額や手のひらに脂汗がにじんで、瑞透は体を折り曲げた。食いしばった歯の隙間から苦痛の声がもれる。
いつもの発作だと言い聞かせても、この痛みと苦しさに慣れることはない。
「くそ……っ、んで……だ、け」
(なんで、僕だけ)
口の中に鉄臭い味が広がる。
噛み締めすぎて、口の中のどこかを切ったようだった。
瑞透は畳に爪を立てるようにしてから、拳をつくり、それを畳に激しく叩きつけた。
苦しさからか悔しさからか分からない涙が目尻から畳へと落ちた。
もう長くはないかもしれない。
なぜ心臓発作が起きるのか、いろんな病院をたずねても原因が分からない。
でもその発作は着実に心臓への負担を生んでいて、疲労を蓄積させている。
二十歳まで生きられるかどうかと、医者からも宣告された。
だからこそ両親も自分の体をうるさいほどに気遣うのだ。少しでも長く生きていてほしい、という気持ちの表れだと分かってはいても、瑞透にだってどうしようもない。
それに母には新しい命が宿っている。
ならば自分の役割は、妹が代わりをしてくれるのではないか。そんな卑屈なことさえも脳裏をよぎる。
「瑞透」
不意に背中に大きな手のひらのぬくもりを感じて、その瞬間苦しさが一気に消え去った。いきなり軽くなった体にこわばっていた筋肉が緩んで、その反動で瑞透は畳の上にぐったり仰向けになった。
その視界に、天白の顔が入った。
翳っている表情が、自分を心配してのものなのか、それとも単に影になっているだけなのか、瑞透には読めない。
「楽になったか?」
「まあ……、なんとか」
「ひどくなっているようだが」
「……かもね。つうか、こうやって人に干渉しちゃまずいんじゃなかったっけ?」
「まずいな」
ニヤリと天白が笑みを浮かべた。
「またいつもの気まぐれ?」
乾いた笑いをたててから、瑞透は罰が悪そうに「ごめん……」と呟いた。
ありがとうの言葉よりも出てきてしまった言葉を引きずりながら、瑞透は体を起こした。
人間にはない不思議な力を持っていようと、自分の苦しみを和らげてくれる。
「またなんか用?」
「刀守、見せてみろ」
瑞透は天白に言われた通り、常に身につけている刀守をとりだした。
それを黙って見つめた天白は思案するような顔になった。
「明日、社に来るのだ」
「社、って……お山の? 上まで?」
お山とは、この辺りで神の山として崇められている古宇里山のことだ。
そこに古い神社がある。
「そうだ。これはもうだいぶ弱っている。一度清めねば次にも砕けよう」
「ふうん……」
「気乗りしない顔だ」
「基本的に外に出たくないのは知ってるでしょ。いつアレに襲われるかなんて分からないし、極力無理したくない。父さんや母さんもうるさいし」
「賢明だ」
「僕に天白みたいな力があれば違うんだろうけど、人間だからね」
「力なぞもってどうする?」
「決まってる。こんな体と早いとこおさらばする」
「ならば授けてやろう」
真面目な顔で言った天白が、ゆっくりとニヒルな笑みを浮かべた。
ギョッとしていた瑞透は息を吐いて笑った。
「脅かさないでよもう。本当かと信じそうになった」
天白は安心と失望のないまぜになった瑞透の表情を黙って見つめている。
「……で、すぐにお山に帰んないのは、お稲荷さん?」
「うむ。それで手を打つ」と重々しく頷く天白に、瑞透は「はいはい」と小さく笑うと立ち上がった。
無表情なのに稲荷を待っている天白の姿は、態度が横柄でもこういうところがあるから憎めない。
「母さんのお稲荷さんは絶品だからね。待ってて」
普段から神棚などへのお供え用に用意してある稲荷をかすめに、瑞透は疑うこともなく部屋を出ていった。
だから、気づかなかった。
閉められた襖の向こうを透かし見るように、天白の瞳がひどく昏い光をたたえていたことに。
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