レイヤーっぽいカッコ……
光を反射した埃がたまに舞う空間に、紙がこすれる音、そしてカリ、と小気味よい音も響いた。
わずかな光が土蔵の中をうっすら明るくしている。外の物音が遮蔽された土蔵の中で、瑞透は漆喰の壁に寄せた丸椅子に座って片手の本に目を走らせていた。
くわえていた煎餅を口の中にすべておさめて噛み砕くと、その音が静寂を破るように響く。
夏休み初日に実家に戻った瑞透は、時間さえあれば本家の裏庭にある土蔵に入り浸っていた。
あまり日の差さない裏庭にひっそりと佇む、白壁の妻入りの土蔵だ。
外に張り出した階段を三段登ったところに、漆喰の厚い観音扉がどっしりと構え、その両脇の壁には丸に藤が描かれた紋が格式を伝えている。
扉を開ければすぐ左手には急な階段が闇への口を開けるように二階へと続く。一階には外光を取り込む小さな観音開きの窓が高い位置に設けられ、淡い光を土蔵の土間床に落としていた。中には、和箪笥や長持ちや、さまざまな調度品がところせましと収納され、その調度品の間を縫った奥の高い位置には、小さな神棚もある。
最初はプレッシャーを感じていた重厚感も、今では安心感につながるほど馴染んでいた。
それに土蔵内の空気が、調湿機能が高いせいか、体に心地よかった。
適度な湿り気とひんやりした空気、仄暗さが人によっては陰気に映るかもしれない。でもソレが見えてしまう瑞透には唯一、本家の土蔵だけが安住の地だった。この本家の、裏庭にあるここのみが、ソレから逃れられるところなのだ。
なぜ他の場所では、ソレが普通に存在し、瑞透だけに見えているのか、なぜここだけがソレと遭遇しないのか、理由は分からない。
でもこの土蔵の扉より内側には決して立ち入ろうとしないソレの姿が、どれだけ瑞透をホッとさせたか。
幼い頃にソレを見て以来、常に怯え、気を張り、ソレがいればすぐに臨戦態勢をとるようになった瑞透にとって、この世界で一見暗く湿っぽい土蔵の中だけが、心から伸び伸びとできる空間だった。
瑞透は、和箪笥の上に本を置くと、大きく天井に腕をあげて、大きな欠伸をした。
もう外は薄暗い。
土蔵の電灯をつけた時、声が届いた。
「またここにいたのね」
小さなため息とともに、扉の向こうの夕闇から華奢な人影が土蔵の電灯に照らされて現れた。
四十代には見えないと評判の母の
瑞透は扉から入ってきた夜気を孕んだ風を受けて、ケホ、と咳をした。
皐月は急いで瑞透に近づくと、その額に手をあてた。
「やっぱり、熱があるじゃない。だから寝ていなさいと言ったのに」
「微熱だよ。こんくらいなんともない」
迷惑そうに、瑞透は皐月の額にあてた手を頭を振って払いのけた。息子の嫌がる素振りに、皐月は和箪笥の上の本にちらりと目をやり、再びため息をついた。
「ここで本を読むのはいいけど、夏でも陽が落ちれば中はそれなりに冷えるのよ。体を冷やすのが一番よくないって」
「分かってるよ」
諦めと苛立ちの混じった声音で、瑞透は皐月の言葉を遮るように寄りかかっていた漆喰の壁から身を起こした。
「今日、父さんは?」
「全国の農家さんが集まるから出ないとならないって、N県に二泊の出張。だから夕飯は本家でいただきましょう」
「寂しいんじゃないの、母さん」
「何言ってるの、そんなこと……」と言いながら、皐月の表情は少し曇った。
「帰ってきてーって言えば、父さん飛んで帰ってくるよ」
「からかわないで」
「はいはい。それより母さん、体は? 平気なの?」
「え? ありがとう、大丈夫よ」
瑞透の視線が皐月のふっくらした腹に動いたのをみて、皐月は、優しく微笑んだ。
母の皐月は今、来月臨月を迎える妊婦だ。
まさか十六歳にして妹ができるとは思わなかった。それでも小さな頃に妹が欲しいとねだった記憶のある瑞透としては素直に嬉しい。
皐月は大きい腹を少し撫でて、それから土蔵の奥へと歩いた。そして小さな神棚の前に立った。じっと息子が見ているのも構わず、皐月は長いこと手を合わせていた。
瑞透にはその横顔が少し痩せたように見える。
「……母さんも父さんもその神棚、大事にしてるよね。本家って他にもたくさん神様祀ってるとこあんのに」
顔をあげた皐月に気になっていたことを伝えると、皐月は「そうね」と呟いて神棚を見上げた。
「ここの神様は、山の神様。私と白彦さんは、この神様のおかげで出会えたようなものなのよ。だから山の神様がいなければ、今ここにあなたもいなかったかもしれないわね」
皐月の遠くに想いを馳せるような静かな言葉に、瑞透は「へえ……」と神棚を見上げた。
常に清められているのか綺麗に保たれてはいるものの、小さく質素な神棚だ。
「縁結びかなんか?」
「ふふ、古宇里山の神様よ。五穀豊穣の神様だから、私たち農家にはとても大事だし、悪いものから守ってくださるから」
「悪いもの?」
「そう、目に見えない悪いもの」
母の言葉に一瞬どきりとする。
皐月が瑞透の特異な体質を知っているはずはない。皐月はそれ以上のことを何か言う様子ではなかった。
瑞透は少しホッとしながら、土蔵の外に出た。
もちろん足を踏み出す前に裏庭の様子を確かめることは忘れてはいない。
皐月が立派な錠前に和鍵を差し込んで閉める、鈍く重い音が響いた。
夏の夕暮れは長い。
でも山間では、太陽の光が届く時間が平野部よりわずかに短い。
しかも裏庭は、さらに母屋の陰に隠れるようにしているせいか、降りてくる夜の足は早かった。
母が後ろからついてくるのを意識しながら、瑞透は裏庭の草の間の踏み固められた一条の道を歩いた。
裏庭の草が服に擦れて、しゃらしゃらと音を立てる。
母屋の建物を回って玄関に向かいかけた時、ふと板塀の向こうに人影が見えた気がした。
「母さん、先に中入ってて」
「何言ってるの、熱あるのに」
「うん、ちょっとだけ」
「……分かったわ。すぐ戻るのよ、いいわね?」
「分かってるって。無理はしない」
自分の体より息子の体を心配する皐月を母屋の方に押しやり、瑞透は長屋門へ続く坂道を下った。
手入れされた両側の庭も今はすっかり夕闇に沈んでいる。日中なら照りつける太陽の光もものともせずに、ヒマワリやノウゼンカズラ、センニチコウなど夏の花が鮮やかな色で咲き誇る。
瑞透は長屋門を守るかのように枝を横に伸ばした太いクロマツを過ぎて、門の外に出た。
目の前に、波のように揺れる稲の海が開けた。
段々の棚田になってくだっているが、その広がりは盆地を満たすようだ。
ところどころぽつりと灯る光は、近隣の農家のものだ。上手の方はまた緩やかな上りになっており、この地のシンボルである古宇里山の険しい山頂へと続く。
見晴らしは良いけれど、昔は交通の便が不自由で、自給自足の生活を強いられてきた。その苦労を、大伯父や近所の人の会話のはしばしから瑞透は感じとっていた。
それでも彼らは、この土地から離れることは考えない。
一陣の風に瑞透の髪が揺れ、また少し咳き込んだ。
遠くから篠笛の音が風にのって聞こえた気がした。
「あいかわらず弱い」
苦笑するような低い声が響いて振り向いた。
板塀に沿った道の向こうに佇む人が、瑞透の方を見ている。着物を着流した長身の男だ。長い黒髪を背中で軽く束ねている。
「
「久しぶりだな、瑞透」
「……あいかわらずレイヤーっぽいカッコ……」
「?」
「いや、なんでも……ケホ」
瑞透が天白と呼んだ男性は、そのまま隣に並んで、ほとんど色をなくしつつある棚田の風景に目を移した。
その瞳は夜の帳の中で独特に光る。
人にはないその虹彩は、妖しい金色だった。
「こんな早い時間、珍しいね」
「……たまにはな」
瑞透は自分よりも上背のある天白をみあげた。どこか老成した雰囲気をもっており、年齢不詳に見える美丈夫だ。
瑞透の目からは天白の目が何を見ているのか窺い知れない。
瑞透は天白の視線をたどるように空を見あげた。
灰青色の細い雲が薄くたなびいている。その隙間から小さな星々が瞬き、山の端の近くで赤い金星と細い三日月が姿を見せている。
「最近はどうだ?」
「……体ならぼちぼち」
「体のことではない。そんなのは、さきほどの咳で知れる」
頭が悪いとでも言わんばかりの物言いに、瑞透はムッとしながら続けた。
「あいかわらず見えるよ。最近、増えた気がする。電車乗ってても追っかけてくるとか、マジ意味わかんないけど」
「……そうか」
天白は少し難しい顔で頷くと、何かに気づいたように顔を道路の奥に向けた。
「
「え? 父さん?」
天白の体の向こうに顔を覗かせても、外灯さえろくにない田舎の道路の奥は暗く、そこに人影は見えない。
「父さん、今日はこっち帰ってこないはずだよ」
「オレは夜目も鼻もきく。そろそろ退散するが、瑞透よ、手に余りそうなら必ず言え」
「大丈夫だよ、これまでもうまくやってきたし、天白からもらった刀守があるし」
「だが、油断はするな。あれらは弱いものが大好きだからな」
「……弱いとか言うな」
瑞透の剣呑とした声音に、天白は唇の端を歪めた。
「別に瑞透のことだけではない。人全般、弱いものよ。哀れなほどにな」
くぐもった笑いを押し殺すようにして、天白は来た方角を戻り始め、わずか歩いたところで闇に溶けるように姿を消した。
瑞透は天白が消えた辺りを睨み、それでもそこになんの痕跡もないことを認めてため息をついた。
天白は人ではない。
その正体も、瑞透の味方か敵かも分からない。
でも瑞透がソレに怯えず、対峙できるように術を教えたのは、天白だった。
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