何も、見えていなかったら、

 瑞透が毎日を送る寮は、頑丈な赤茶けた門と大人二人分の身長はこえる高さのレンガ塀に囲まれた敷地にある。門限を守っていれば、通常は正門から出入りできる。

 でも一分でも遅れようものなら正門は閉ざされ、守衛が門扉のそばで門限破りの生徒を迎え、駆けつけた寮監に連行されてしまう。そうなると即刻の反省室行きだ。

 一、二回ならばお目こぼしがあるものの、瑞透の場合は、すでに両手の指の数をくだらない。


 固く閉ざされた門と守衛の姿に、瑞透は街路樹の陰から立ち退きながら大きくため息をついた。寮の中では夕食の終了時間に慌てて、寮生が食堂に駆け込んでいる頃だろう。


 発作が起こらなければ、充分間に合ったはずなのだ。

 豪快に音をあげる腹を見下ろし、瑞透は仕方なくレンガ塀に沿って歩き出した。

 ソレに出会おうと発作だろうと体は正直だ。



 そのまま瑞透はぐるりと寮の正門とは反対側にまわり、道路の左右を見渡した。


 月明かりのない住宅街はしんと静まり返っている。


 寮のレンガ塀と一般の住宅が隣接する隙間に向かい、瑞透は一般住宅の敷地を囲む板壁に手をかけてとりついた。そして身軽に板塀をよじ上り、それより高い隣のレンガ塀にすかさずとびついた。なんとか体を引き上げてレンガ塀の上から、敷地内の様子を探る。


 老朽化した古いコンクリの寮の建物の裏にあたる庭に、人気はない。


 そのまま塀の内側に植わる桜の木の枝に手をかけ、手慣れた様子でするすると幹を降りた。


 その瞬間、尻ポケットのスマホが震え、瑞透は裏庭を抜けながらスマホの画面を確認した。


〈廊下奥の窓解錠、おにぎり確保済〉


 理人からのメッセージだ。

 その簡潔な内容に、瑞透は口元を緩ませ、素早く裏庭を走り抜けて建物の端へと急いだ。


 一番端の窓から三番目手前の窓を開けると、ちょうどジャージを着た理人が姿を現した。


「間に合うんじゃなかったのか」

「その予定だったけど、ちょっと狂った」


 言いながらジャンプする瑞透の腕を理人がとらえた。

 その力を借りて、瑞透は軽やかに建物の中に降りた。


 年期が入ったフローリングの廊下の冷たさがスニーカーを脱いだ靴下の底からのぼってくる。


「食堂のおばちゃん、心配してたぞ。ヤボ用の中身を聞く気はないけど、最近増えてないか?」


 瑞透は制服を軽く叩いて埃を落とし、差し出されたおにぎりを理人から受けとった。

 心配そうな表情の理人に自分が置かれた特殊な状況を話してどうにかなるものではない。瑞透は理人の問いには答えず、まだぬくもりのあるおにぎりを抱えなおした。


「理人、数学やった?」

「いちおうな」

「じゃ、」

「バーガー三個」


 すかさず三本指を立てて言われ、瑞透は諦めの混じったため息をついた。


 確かに最近、門限を破ることが多くなっている。

 瑞透だって、そうしたくてそうしているわけじゃない。できることなら、理人にも寮の食生活を一手に預かる食堂のおばさんにも心配はかけたくなかった。


 でもそんな瑞透の気持ちなど全く意に介してくれないのが、瑞透にまとわりつくソレなのだ。ソレが瑞透を放っておいてくれない以上、無視することはできなかった。

 ソレらは、瑞透、そしてその周りに確実に影響を与える。たいていはよくない形で。


 自分に降り掛かる火の粉を素知らぬ顔で流していられるほど、今の瑞透に余裕はない。

 そして、そのしわ寄せは日々の学校生活にも少なからず出てきていた。もちろん今は瑞透が細心の注意を払って隠してはいたが。


「……背に腹はかえられない」


 理人は薄い唇の端を軽くあげた。寮生はバイトも禁止で、食欲旺盛な男子高校生にとって懐はいつも厳しい。寮の夕食が一食ないだけで大きな打撃だった。


 瑞透は親から送金されてくる小遣いのうち、今月使える残額を頭の隅で計算しながら自室へ足を向けた。


 瑞透の部屋は三階だ。

 裏庭に面した寮の一階には、リネン室や備品室など普段寮生が生活する分にはあまり利用しない部屋が多く並ぶ。そのせいか夜になれば寮監や見回りの警備員以外、めったに人の姿を見かけない。だからこそ、瑞透のように門限に間に合わなかった生徒が出入りする隙もあった。


 その時、ふと甘ったるい猫なで声が聞こえてきた。


「な、室戸、お願い。夏休みにさ、ちょっと遊びに行きたいだけなんだよ」


 通り過ぎたリネン室に三人ほどの寮生の姿があった。理人が眉をひそめて、またかという顔をした。その薄ら寒い声で、そこにいるメンツがいつもの組み合わせなのが分かる。


「議員の息子くんなら、こんくらい端金じゃん?」

「な、頼むよ? オレらの仲なんだからさあ」


 瑞透は片手のスニーカーをぶらぶらさせながら、ちらりと視線を走らせた。

 寮監もマークしている落伍者の三年生二人と、瑞透や理人と同じ一年生の室戸だった。

 体が小さい室戸は、リネン室の奥の壁際に追いつめられ、俯いている。風呂上がりなのか、トレードマークである天然パーマが悲しいほどに伸びて、虚ろな雰囲気になっている。


 入学以来、寮内ではたまに見かける光景だった。

 寮内では評判の良くない上級生二人は寮監の目をうまいことすり抜けて、懐が潤っていそうな下級生によくたかっている。

 彼らに目をつけられたら、学校生活に平穏な時間などない。それが中学生から寮生活をしている瑞透たちが身をもって知っている、裏のセオリーだった。だからこそ寮の下級生たちは、寮内ではなるべく件の上級生とは顔を合わせないようにしている。

 でも室戸のように高校生から寮に入った生徒は、まだその暗黙のルールを知らない。議員の息子ということをひけらかすタイプならば、なおのこと格好の餌食にされていた。


「うーわ……またか」


 理人が小さく呟いて一瞬足を止めかけた。


「行こう」

「でもさ、さすがに頻繁すぎ、あれ」

「……じゃ止めに入れば」


 瑞透はそっけなくそう言って、見ない振りをしてそのままリネン室を通り過ぎた。

 その背中を物問いたげに見つめてから、理人は瑞透の後を追った。


数 学では学年トップを誇る理人がクールな見た目に反して思いやり深い性格だということを、瑞透はよくわかっていた。あの場で、本当は三人の間に割り込んで室戸をかばいたいという気持ちがあることも気づいていた。

 でも瑞透にはそうするほどの意志も優しさもない。


 不快なものを飲み込むようにして、瑞透は黙って足を動かした。


 幼い自分なら、周りの制止を振り切ってでも飛び込んでいったかもしれない。


 でも今は何もかも、自分のことで精一杯なのだ。


 自分の思うようにならない体。

 そして見てしまったら最後、自分の命を吸いとり兼ねない、得たいの知れない存在。


 瑞透は奥歯を噛み締めた。自分が何も見えていなかったら、理人とともに割って入れただろう。


 何も、見えていなかったら、だ。


 あの上級生二人の肩には、理人には見えないものがしっかり食い込んでいた。

 まさに、瑞透が渋谷の交差点で、そして住宅街の交差点で遭遇したソレが。


 今の瑞透にとっては、中学の頃から過ごすこの寮さえも、もう落ち着ける場所ではなかった。

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