首をくくれって言われても
月のない夜道は、陽があるうちには姿を見せない何者かの気配を濃厚に漂わせている。
瑞透は、自分の吐く息とともに、街灯が細々と照らす住宅街の道を早足で抜けた。しばらく行けば、ブランコと滑り台、そして桜とツツジがあるだけの小さな公園がある。
そこに人気がないことを確認しながら、瑞透は迷うことなく公園に入った。そしてまっすぐに中央までくると、左手を尻ポケットに突っ込んでくるりと体を反転させた。
「……で、僕にどうしてほしいの?」
振り返った視線の先には、ずっとついてきたソレがいた。
一定の距離を保ち、感情をこめていない無機的な声音で問いかけても、それは宙に浮いたまま、黒く濁り、どろりとした液体のようなものを絶え間なく滴らせている。
何度向き合っても鳥肌が立つのを抑えられない。
腕や背筋が怖気立つのを堪えながら、瑞透は待った。
それはしばらく瑞透の様子を探るかのように宙に留まり、やがておぼろげに一つの形を取り始めた。輪郭は曖昧でも、それは人型のように見えた。
「首……」嗄れて耳障りな声を発したような気がして、瑞透は緊張とともに左手をぎゅっと握りしめた。その中にある冷たいモノが気持ちを落ち着かせ、意識を研ぎ澄ませてくれる。
「……くく……」
何かを言っている。瑞透は身構えたまま、ソレをじっと見つめた。
「くび、く、れ」
(首?)
瑞透は眉をひそめ、強く左手を握りしめた。もっと五感をソレに集中させる。
「くびくくれ」
首をくくれ。つまり首吊りしろとそれは言っているのだ。
しかもソレはさっきより自分に近づいているようだった。
瑞透は背中を伝う汗に不快感を覚えながら、目に力をこめた。
「それは僕にする相談じゃないよね」
「首をくくれ」
瑞透は苛立ちも動揺も表情にまったく見せず、左手の中のモノを意識した。
ゆらりとソレが、自分に近づく。
「何につられて来たのかはしらないけど、別の相談にしてくれない?」
また一歩。
「首をくくれ」
「くくらない」
また。
「首をくくれ」
ソレは瑞透との距離を縮めて、すでにあと五メートルもない。でも見た目は最初の時と変わらず、曖昧な輪郭の人型のままだ。
同じ言葉しか繰り返さないソレに、瑞透はため息をついてポケットから左手を抜いた。
「通じないんじゃ仕方ない」
手のひらを開くと、そこにはわずか五センチほどの鈍く光る薄い金属があった。銀鼠色をした御刀守だ。武士が戦勝祈願をしてきた神社にあるもので、日本刀の鋼の部分だけのミニチュア版みたいなものだ。
頼りないほどの小さく薄い守り。
でもそれが瑞透にとっては、ソレらから身を守る唯一の術であり、ソレにとってはすごく強力な武器になることも分かっていた。
「悪いけど、数学の宿題やんなきゃなんないんだ」
瑞透は左手に刀守を握りしめ、しっかりソレを見据えた。
そして走り出すと、ソレにぶつかるようにして肩から体当たりした。
同時に瑞透の左手に鈍い衝撃が走り、全身の産毛がブワッと逆立った瞬間、ソレはなんの音も立てずに霧散した。
瑞透は背後で消えたソレの存在を確認もせずに脂汗を額に浮かべて、肩で荒い呼吸を繰り返した。
いつか慣れると言われたけれど、穢れを全身に浴びたような吐き気と全身の肉が四方八方にひきつれるような不快な感覚に、一生慣れることはないと思っている。
むしろこれがずっと続くのかと思うだけでも、今この場で吐いてしまいそうだった。
瑞透はベンチにどさりと腰を下ろした。
「きっつ……」
天を仰ぐ瑞透の視界には、星もない。そのまま左手を顔の上にもちあげて開くと、強く握りしめすぎたのか、刀守の刃先が傷つけた赤い線ができていた。
痛みはない。
この傷跡も今だけのもので、寮に着く頃合いには消えてしまっているはずのものだ。
しばらくそのままほうけたように赤い線を見つめていると、冷たい風が少しずつ瑞透の汗ばんだ体温を吸い取っていった。思わず身震いして上体を起こした時、胸の奥が不規則に音をたて、瑞透はそのまま体を強ばらせた。
異変を察知して、一気に体中の穴という穴から冷や汗が吹き出し、落ち着きつつあった呼吸が荒くなる。
押し寄せる胸の奥の鈍痛に、瑞透は上体を折り曲げて、胸元をわしづかんだ。
「……っ、く……う……」
苦しい。痛い。いつもの発作だ。大丈夫。じっとしていればおさまる。
そう頭の隅で言い聞かせながら、短く息をついた。額には玉のような汗が浮かんだ。
一人、公園のベンチで苦しむ瑞透を、周りの木々も夜空もただ見下ろしている。
さまざまな匂いをのせた都会の風がぬるりと瑞透の背中を撫ぜ、そのまま通り過ぎていく。
ぐぐ、と上体を縮め、瑞透は左手を強く握りしめた。刀守の刃先が肉にますます食い込んだ。刀守が皮膚を傷つける痛みと引き換えなら、発作は鎮まってくれるだろうか。
本当は発作を鎮めるには体を緩めた方がいいと分かってはいても、さきほどのソレと出会ったばかりの今、瑞透は人間であろうとなかろうと、他の何かに自分の状態を悟られたくなくて、膝を抱えた。
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