僕の中には、化け狐が棲んでいる。

ゴトウユカコ

途中で諦めてくんないかな

 渋谷の改札を出れば、灰色の空を吸い取るように高層ビルが建ち並ぶ。巨人のように人間とは違う生き物の顔をして、足元を人が大勢行き過ぎていくのをじっと見下ろしているようだ。その視界に、人はどれだけ小さな、そしてどんな存在として映っているだろう。


 瑞透みずきは、電車やビルやブリッジなんかの人工の無機物も生きものだと思っている。


 人がコンクリートやらガラスやら、建造物をつくる素材を創り終えた瞬間から、それらは息をしていると思う。それらの集合体である建造物は、だから生き物だ。でなければ、経年変化で老朽化を問題にすることもないではないか。

 永遠に変化なく死した状態を与えられているなら、建て替えなんて必要はない。


 彼らは自分と同じ、遅かれ早かれ寿命を迎えて、いつか呼吸を止める日を待ちながら、与えられた場所で与えられた役割を果たし続ける。


 でもそのうち一つの組織が不良品だとしたら、与えられた役割を果たせないままに、不良としてそれは体である躯体全体にも影響を及ぼす。そのまま何も手当をしなければ、予定していた寿命を迎えることはなく、いろんな部分に想定外の負荷をかけて、歪みやひずみをもたらしてしまう。だから人はその建造物をすぐに建て替えるか、その部分を交換するかして、半恒久的に利用し続けようとする。


 でもそれは、とても幸いなことだ。


 取り替えが効くというのは、人の体の場合、そう簡単にはいかないからだ。

 

 体に巣食ったたった一つの不良品が、自分の行動をすべて決定づけて、しかもそれはいつ暴発するか分からない危険を孕んでしまう。

 もちろん替えが効く場合も多くなってきたけれど、瑞透の場合は、それに当てはまらない。


 交差点に差し掛かった瑞透は眉をひそめるようにして立ち止まり、自分の体内のコアを探るように意識しながら、深く息を吸いこんで吐き出した。

 胸の奥で微妙に変則的な動きをした部品とは、もう十六年ものつきあいだ。

 襟を緩めて楽な姿勢をとろうとした時、瑞透は、「あ」と視線を前方に落とした。


 その先には、立体交差点を過ぎゆく無数の足の間で、輪郭の曖昧な黒く凝った塊があった。


 大きさは三十センチばかり、わずかに地面から浮いて、縮んだり膨らんだり、真円になったり楕円になったりを繰り返している。時々どろりと黒い液体のような粘質質のものが滴り落ちては、地面に着くか着かないかのうちに煙のように消えた。

 しばらくソレに集中して見つめていると、胸の奥深くの小さな異変は静かに収まった。

 

 でも瑞透にじっと見つめられていたソレは、視線を感じたようにかすかに震えて、その動きをとめた。


「瑞透、どーしたー?」


 ダークグレーを基調としたチェックのズボンにグレーのベストを着た友人の一人が四、五メートル先で振り返った。


「あー、ううん、なんでもないよ」


 瑞透は何事もなかったかのようにふっと笑みを浮かべると、ソレから視線をそらして先で待つ友人たちの元へ早足で歩み寄った。


「なんだよ、カワイイ子でもいた?」


 唇の端に浮かんだ笑みに何を思ったか、カッターシャツもネクタイもだらしなく着崩した友人の武士たけしが瑞透の首に陽に焼けた腕をまわした。


「……いや?」

「瑞透、ナンパならオレが伝授してやっから、気になる子いたら言えよ?」

「武士、一回も成功したことないじゃん」


 友人たちの間で軽い笑いが起きて、瑞透も一緒に笑った。

 

 その時、ふと右の足首にひんやりした空気を感じて、瑞透は視線を自分の足元に落とした。

 そこに先ほど見ていたソレが、やわやわとまとわりついている。瑞透はかすかにため息をついて呟いた。


「……僕には何もできないよ」


 そして軽く右足をあげて、小石でも見つけたように宙に蹴った。それは蹴られた弾みで、見た目に反した軽やかさで宙を飛んで瑞透の足から離れると、そのままどろりとした尾を引くように弧を描き、雑踏の中に吸い込まれていった。



 およそ渋谷の喧騒には似合わない奇怪なものを、瑞透はいろんなところで見てきた。


 田んぼのあぜ道に、山林の木々の根元に、この日のように都心の交差点に、外灯が照らす住宅街の庭先に、学校の準備室のカーテンに、走る電車の窓の外に。

 例をあげればキリがない。


 ソレを意識するようになったのは、北関東の山間にある祖母の兄にあたる大伯父の屋敷に行った幼い頃だ。その時からもう十年近く経つ。


「明後日で学校終わり! 夏休みどうすっかなー」

「瑞透、夏休み、実家帰んの?」

「うん、そのつもり」


 ファーストフード店で大盛りポテトとハンバーガーを前に、瑞透はスマホをいじりながら頷いた。他の友人たちも一個や二個ではないハンバーガーを片手に、だいたいはスマホでおのおの好きなことをしている。


「いつから?」

「んー……初日から」

「瑞透って家どこ?」

「あ、武士、瑞透ん家知らないんだっけ?」

「オレ高校からの編入組だもん」

「G県。たぶん来たら山ん中すぎてひく。イノシシもシカもキツネも普通にいるから」

「え、マジ? そんな? 行ってみてえ!」


 武士は着崩した制服と同じようにアクリルのイスにしなだれかけていた大きい体をバネのように起こした。その勢いにつられるようにして、瑞透はスマホから目をあげた。


「別にいいよ。いつでも歓迎」

「うっしゃ! 夏休みっつっても部活しかねえし」

「じゃ部活やれよ」

「オレだってそうしたいわ。でもさー出禁だし」

「お前ほんっとバカ正直すぎんだよ」

「でもさ、このキーホルダーに誓ったのよ。オレ、自分で正しいと思った選択は、やりぬくってさー。だからさー」

「それ、あれだっけ? 日本代表になった……」

「そ、増田選手! 見ろ、このアクキーの後ろを。サインサイン」

「え、マジ? ガチ? パチもん?」

「あー武士たちうるさい。瑞透、オレは日程次第だわ」

「理人も来る?」

「だってオレも行ったことないよ」

「了解、いいよ全然。本家とか、部屋ありあまってるし」

「本家! うーわ、なんかすげーとこっポイ」

「うーわ、武士バカ丸出しっポイ」

「わ、そのでっけー図体で乗り出すな、倒れんだろ」


 スマホの操作に集中していた他の友人もいつのまにか顔をあげて、会話に混じるようにして笑い声をあげた。騒がしさに、店内の客がわずかに眉をひそめた顔をあげて瑞透たちを見やった。


 そのことに気づく気配もなく、瑞透たちはファーストフードに手を伸ばしながら、スマホや動画、学校なんかの話題に興じた。

 そうやって毎日の放課後の時間を潰し、それから瑞透たち寮生は高校の隣にある寮へ、武士たち実家組はそれぞれの帰途につく。


「でもさ瑞透、いいの? 本家とか、オレら四人押しかけて迷惑かけんじゃないか?」


 理知的な眼鏡の奥の瞳を心配そうに細めて、隣を歩く理人りひとが瑞透を見た。武士たちと別れて同じ寮に向かいながら、瑞透は苦笑するように頭を振った。


「大丈夫だよ。本家のじいさん、って言っても、ばあちゃんの兄なんだけど、そういうの慣れてるし。夏になると、町内の小学生とか林間学校みたいな感じで受け入れてるんだよね」

「へえ、それすごいな」

「うーん……ま、実際今年もそうだろうし、たぶん日程かぶれば手伝わされると思うよ。泊めてもらうかわりに」


 瑞透の実家は、G県の山々を抜けた小さな盆地にある。

 町というより村や集落と呼ぶ方がふさわしい規模で、古宇里山こうりやまという険しい山の中腹に位置する。おもに農家が多く、棚田の段々が地続きで平地の田んぼへと広がる光景は、秘境の田園風景として知られてきた。ただ交通手段が悪く、観光客が大挙するほどの地ではない。


 この町内の目立つ高地に、瑞透の大伯父が当主として切り盛りする八重野やえの家があった。一帯で代々続いてきた豪農で、名士として知られる家だ。

 周囲を睥睨するかのような平屋木造建ての純日本家屋は、座敷の数も三十はくだらず、人の背丈の三倍以上はある黒漆塗りの長屋門が、八重野家の、そして一帯のシンボルでもあった。


 その割には気負ったところがなく、子どもは宝だというのが口癖の大伯父によって、近隣の小中学校の生徒を社会科見学だの林間学校だのといっては受け入れてきた。

 実際、農家の暮らしを体験するいい機会だと、地元の自治体や小中学校では喜ばれている。


 休みに入るたび、瑞透はいつも実家に帰る。


 両親がそう望んでいるということもあるけれど、瑞透自身、本家にいることを望んでいた。

 頻繁に出入りして、本家で夕飯のテーブルを囲むことも多く、仕事で忙しい共働きの両親にどちらの家の子か分からないと嘆かれるほどだ。


 でもそれは瑞透にとって、そうせざるを得ないほどに切迫していたというのもある。


 電車のスピードに負けず、車窓の向こうでずっとついてくるソレが、理由の一つでもあった。


 普段は闇の中に潜んでいるソレは、都会の夜を彩る人工の光をものともせず、明らかに瑞透を追って電車と並走して飛んでいる。


 瑞透は理人の隣で、静かに息を吐いた。

 脇の下や吊り革をつかむ手のひらに嫌な汗が滲む。

 このままソレが追いかけてくるなら、それなりの対応をしなくてはならない。そしてできれば、瑞透は今こうして距離を保っている以上には関わりたくはなかった。


(途中で諦めてくんないかな)


 無駄とは知りつつも、ほのかな期待を抱いてしまう。


「理人、先寮戻ってて。ちょっとヤボ用」

「分かった。門限までに戻れなそうなら寮長に伝えとくけど」

「たぶん大丈夫」


 駅を出ると、瑞透は寮がある方角の反対側に歩き出した。

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