【短編】黒猫

金屋かつひさ

黒猫

 ビルの非常階段をひとりの男が上がっていた。


 男はとある階で立ち止まった。背中からやたらと縦に長いバッグを下ろす。

 素早くあたりの様子をうかがうとバッグ周囲に走るファスナーを全開にした。中から黒い金属光沢のある“それ”を取り出す。

 男が取り出した“それ”、その正体は一丁のライフル。

 男は手にしたライフルをざっと眺め、各部の動作をチェックすると、前方を向いてさっと構えた。


「よし。問題はなさそうだ」


 それまで無言だった男がようやく言葉を発した。男はいったんライフルを下ろすと、バッグから銃座を取り出しライフルを据えた。慎重に銃座の位置を決め、よりいっそうの慎重さをもってライフルの向きを調整した。


「時間までにはまだ余裕があるな。なあに、多少前後しようが問題ではない」


 男はライターを弾くとタバコに火をつけた。ひとくち吸うとゆっくりと煙を吐き出した。銃口の先、そこにあるのは大きな屋敷。高い塀、てっぺんには鋭い忍び返しと二重の有刺鉄線が侵入者をはばんでいる。屋敷をおおう大きく張り出した屋根はまるで戦車の装甲のよう。建物の向こうには広い庭園が見えるが、男の目には鋭い目つきで間断なくあたりの様子を見張っている黒服が何人も見えた。


 男の目的、それは屋敷の主人の狙撃だった。


 ターゲットの表の顔はさる大企業のトップクラス。しかし裏社会とつながりがあって相当あくどいことをやっているらしい。


 依頼を受けてからもう数週間。その間、男はターゲットを狙撃できるポイントを探した。しかし敵もる者。窓という窓は狙撃が可能なあらゆるビルから見ても巧妙に姿を隠していた。庭園のある側は向こうに大きな河川敷を持つ川があって、身を隠して狙撃するには適当ではない。

 ならば外出中はどうか。だが移動用の自動車はアメリカ大統領もかくやという完全防弾。乗り降りする玄関は塀や屋根で外界からの視線を完全にシャットアウトしている。あるひとつの場所に行くのにも道順は日によって変わるし、出発や到着時刻をも不規則にする念の入れよう。行動パターンを読んで先回りもできない。


 しかし数週間の粘り強い調査の末、男はついに見つけたのだ。屋敷の一角。ふたつの建物の屋根が重なり合うところ。ある一地点から見たときに屋根の重なりにわずかに隙間ができることを。隙間からのぞく廊下をターゲットが毎日ほぼ決まった時刻に通ることを。


 むろん男が今いる場所こそが、その“一地点”に他ならない。


「間もなく時間だ。もういつ現れてもおかしくない」


 男はスコープに目を当てた。鋭い眼光が目標を射貫く。屋根の隙間はわずか。狙撃できるタイミングは1秒もない。一瞬でも引き金が遅れればミッションは失敗する。


 そのとき、男は背後に視線を感じた。でもそんなことはあり得ない。ここはビルの非常階段。自分の他にはだれもいないはず。たとえ他のビルからこっちを見ても、非常階段がじゃまになって自分の姿は見えないはず……。


 男は素早く後ろを振り返った。そして見たのだ。自分の背後にある大きなふたつの黒い瞳を。縦に細長くなっているその瞳を。


「なんだ、猫か。びっくりさせやがって」


 男は吐き捨てるように言った。目は再びスコープに向いた。


 そう、それは一匹の黒猫だった。非常階段の手すりの上に器用に座って男のほうをじっと見つめていた。感情を表すことなく無表情で。


 0.01秒で男は頭の中から黒猫の存在を消し去った。しかし次の瞬間、男は再び黒猫の存在をいやおうなく意識した。黒猫が男の足もとにすり寄ってきたのだ。のどを鳴らしながら男の脚にそのもふもふした顔をこすりつけてきたのだ。


 男は無言で脚を振り払った。目はスコープから離さない。ターゲットが現れる瞬間を逃すわけにはいかない。


 だがそれで終わりではなかった。


 黒猫は男の背中に飛び乗った。男は引き金に掛けているのと反対の腕で振り払おうとした。黒猫がジャンプした。と、ほぼ同時に男の頭の上にあった。肉球のプニプニした感触が額から顔のほうへと位置を変えた。ライフルに飛び乗るとその上を歩き出した。あろうことかスコープの真ん前にちょこんと座りやがった。視界が真っ黒になった。


「チッ!」


 舌打ちとともに男は目をスコープから離した。銃身の上に黒猫の背中が見えた。そいつは首をくるんと回して、また男のほうを無表情に見つめていた。


「シッシ! さっさとどきやがれ」


 男は手を宙で振って黒猫を追い払おうとした。強引にどけようとしたならその拍子にライフルの向きがぶれかねない。のんびり照準を合わせ直しているような余裕は男にはないのだ。


 黒猫は大きなあくびをひとつした。前脚で2、3度顔をぬぐい、体をこちらに向け直した。ライフルの上をゆっくりと男に向かって歩き出した。


「ようし、いい子だ。そのまま、そのまま……」


 男は黒猫を手招いた。そいつはゆっくりと近づいて来た。そしてスコープの端までくると、さっと男の肩に飛び乗った。男の耳をぺろんとなめた。


「ひゃっ」


 男が何ともいえない悲鳴を上げたその瞬間、男の手がライフルのグリップを打った。銃口がぐらっと揺れた。


「しまった!」


 男はあわててライフルに取り付いた。急いで照準を合わせ直す。黒猫はまだ男の首もとでじゃれついているが、そんなことはもうどうでもよかった。


 スコープの十字が再び屋根の隙間に重なろうとした。


 その瞬間、男は見たのだ。屋根の隙間にターゲットが現れたのを。


 引き金を引く。サイレンサー付きのにぶい音が響く。隙間のわずか横で銃弾が弾け飛んだ。狙撃は失敗だ。


「くそったれが!」


 男は黒猫を振り払おうとした。狙撃に気づいて黒服が数人、屋敷から飛び出すのが見えた。もうここには居られない。事前の手はずどおり後は逃げるだけ。


 しかしまだ黒猫がまとわりついていた。振り払おうとした腕にしがみつき、無音で飛ぶと男の顔に張り付いた。視界が再び真っ黒になった。


 男は黒猫を引きはがそうともがいた。計算外もいいところだ。計画は完璧なはずだった。逃走には十分な余裕があるはずだった。しかしいま、その余裕が刻一刻と失われていくのだ。


 男は焦った。言葉にならないうめき声を発した。非常階段の上で前後左右に不規則によろめき、このいまいましい黒い悪魔から懸命に逃れようとした。


 ふと、男は腹部に固い何かがぶつかるのを感じた。次の瞬間、まるで鉄棒の前回りのように男の体はその固い何かを中心にくるんと回転した。天と地が入れ替わった。そして一直線に地面に向かって落ちていった。


 低い衝撃音を聞きつけて集まってきたやじ馬どもが見たのは、変わり果てた男の姿と、走り去る一匹の黒猫の姿だけだったという。


 🐈🐈🐈🐈🐈🐈🐈🐈🐈🐈


「ようし、アレックス、今日もご機嫌だねえ。聞いたぞ。お手柄だったそうじゃないか。本当におまえというやつはたいしたやつだよ。下手なボディーガードよりよほど役に立つ。まあ近頃あの手の連中の質が下がってるというのもあるけどな。いやいや、決しておまえの手柄をおとしめようとして言ったわけじゃないぞ。完璧な備えの中にわざとすきを作ってそこに相手を誘い込むなんてものは勝負における常套じょうとう手段だというのに。その“隙”にこそ最強の備えを用意しておくものだというのに。なのにそんなことさえ理解しておらんやつが増えているというのは、まあちとつまらん世の中になったものだ」


 ひとりの初老の男性がゆったりと椅子に腰を沈めていた。脚を組み、目を細めながら、膝の上に乗った一匹の黒猫の背をひたすらなでていた。

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