4/3日(水)深夜0時のファズ・ギター

 自販機の前に立っている。財布から取り出した130円を投入すると、それで買えるドリンクのランプが緑色に灯った。まだ夜は少し寒いから、MAXコーヒーのホットを買った。本当はコーンポタージュを買いたかったけど、このコーヒーなら量もあるし、笑ってしまうほど甘ったるいから腹持ちが良い気がする。


 この生活を始めてから、ドリンクひとつ買うのにも理由を付けるようになってしまった。取り出し口に放り出された熱い缶を手に駅へと戻る。片手でずっと持ってることなんて出来ないくらい熱いから、お手玉のように左手、右手と持ち替えながら。少しだけ楽しい気分になった。


今日は水曜日の23時。人でごった返しているブロードウェイも、この時間になれば家路を急ぐ人や改札を抜けていく勤め人ばかり。共通しているのは、誰もがどこかへと消えて、また現れたとしても誰もが初対面だってこと。


 2日もここに立っていれば昨日見かけた人だっている。でも、初対面で他人だ。俺は知っているのに、隣人にすらなれない。それはどちらかが行動に移さなければ、永遠に変わることもないことで、変えるメリットすらもないことだ。


 ほら、あそこのロッテリアから出てきた艶の無い黒髪のサラリーマン。彼は昨日と同じ時間に出てきて、昨日と同じように数メートル先の沖縄料理屋へと消えていった。


 あのミヤマカフェから出てきた女の人だって昨日見かけたよ。シャッターが降りたアーケードの前で、赤いジャージを着て古い曲を流しながら一人芝居をしていた人だ。面白かったから見入っていたら舞台のチケットを売りつけられたよ。


 あの時は中島みゆきを流していたから「みゆきちゃん」って呼んでみたけど足早で暗くなったブロードウェイへと消えていった。結構話し込んだのになって寂しくなった。買わなかったから覚えてないのかな。どれだけチケットが売れた?って話しかけたら、もしかしたら思い出してくれたのかな。どうでもいいか。


 JR中野駅が終わる深夜1時過ぎまで仕事だ。終わったら、店に帰って日当をもらって、ネットカフェに帰って、朝の日雇いが始まるまで泥のように眠る。そんな生活が明日もだ。


 そんなことを考えながら、ビルの隙間へと足を進める。中野通りに抜ける裏道だが、2軒の雑居ビルの狭間に用がある。 そこはギターがすっぽり入るくらいのスペースがあって、愛用のアコギを隠している。


 16時間ぶりに手にした相棒を手にブロードウェイへと戻る。時間は23時30分。0時にはサンドイッチマンになって、改札の前で女芸人パブの案内をしないと。それまでの間、歌うことにした。


 携帯ショップの軒先に座り込み、降りたシャッターに背中を預けてギターをケースから取り出す。ネックに触れたときに、すっかり冷たくなっていたから、少しさすってみた。こんなことで何か変わるわけじゃないと思うけど、それでも何か変わるんじゃないかと思って。その間に、足早に去っていく中野の住人を見やる。


(この街にブルースは似合わないだろうけど、ジャズをするくらいオシャレで素直な生き方なんてしてない。俺はひねくれてるから、この街にフォークを贈ろう。ボブディランがいいな。風に吹かれてとかさ、良いじゃん。 誰もが自分が何者でどこに行くかなんて分からなくて怖いだろうしさ。 それをごまかすように遊びに来る街なのに、寝静まったころに気が付いたら黒い本音が漏れ出す、何か村上龍のコインロッカーベイビーみたい)


 そんなことを思いながら、心持ち温かくなった気がするネックから手を放して、ペグを回してチューニングを始める。6弦が1音ずれている。俺には絶対音感なんてもんは分からないけど、コイツのことだけは分かる、そんな気がする。機嫌、悪いんだな。ゴメンな。 


 ゆっくりとペグを締め込んでいくと、ピリピリと軋み音を立てながら弦が伸びていく。最後に交換して1年、もうそろそろ換えてやらないとな。大事な人たちを捨てたなら一人きりで生きていくのが礼儀だと思っていたけど、コイツくらいは大事にしてやりたい。


 そんなことを考えたら吹き出してしまった。今更なんだって言うんだよ。終わったことだ。山田将司、お前は何を今からするんだ? 言ってみろよ。


(そうだな……俺みたいな奴が「答えは風の中にあるよ」なんて歌いかけるはどうだ? それで誰かが楽になれたら、まだ少しくらい俺も生きる価値があるかもしれないし……)


 チューニングが終わり、指通りを良くするために油紙で弦を吹いてやる。充分に吹き終わったら、ギターケースに油紙をしまって、左手でDを抑える。後は右手でつま弾かせて歌うだけだ。最初の音を出すために、心を静める。人生で一番好きな瞬間だ。よし、いこう。


「あれ、マーシー。何してんの?」


 出鼻をくじかれた。声の方を睨みつけると、丸眼鏡で小太りな三十路男がヘラヘラしながら立っていた。 胸元に大きく「大友家」とロゴが入った濃紺のツナギはところどころ破けていたり、土で汚れている。


 その男の手や顔には、ツナギと同じように傷や汚れがある。きっと誰かにボコられたんだろう。 それはそうと、俺はこの男を知っている。この街に来た時に俺を面倒見てくれた自称物書き、実際は心が弱くプライドだけが強いニートの大友晃司だ。


「あぁ先生、こんばんわ。今帰りですか?ヒドイ格好ですね」

「仕事が終わったばっかでね……ここで歌うの?」

「先生、仕事してたんですか!意外でした」

「未来の大作家も……まぁ今は修行中だな。ネタ探しと飯代くらいは稼がないとよ」

「さすがですね先生!」

「おい、晃司。カッコつけてんじゃないよ。すみません、コイツただのギャンブル依存症のバカなんで、あんまり構ってあげないでくださいね。できれば説教したり突き放してやってください」


 長身の男が、真面目腐ってそう言った。先生と同じ服を着て、同様に汚れている。唯一違うのは、落ち着きなく小さくジャンプをしていることだ。そういう病気なのか。 そして豪放磊落すぎる弟を持って……さぞかし大変な人生だろう。だが、俺の前で恩人をバカ呼ばわりしてくれるな。


「すみません、どなたか存じ上げませんけど、先生を悪く言わないでくれますか? 気分が悪くなるんで」

「えっ!?なんて言いました?もう一回お願いします!」

「……テメェバカにしてんの?俺の大事な人バカにすんじゃねぇぞ陰キャジジイ、そう言ったんだよ!」

「晃司!こんなこと言われるなんて、お前何したんだ!お前そんなこと言われる人間じゃないだろ!? 正直に話せ!」


 長身の男は小さく跳ねながら、先生の肩を掴んで揺さぶっている。先生は呆れたような、めんどくさそうな顔をしながら男を直視している。


「兄ちゃん。俺をどう思ってるのか分からないけど、俺は恥ずかしくなるような生き方はしてねぇよ」

「えっ!?兄ちゃん?」

「あぁ。愚かな実兄、大友友彦だ。ちょこちょこ一緒に仕事しているから、顔だけでも覚えてやってよ」

「あれ?先生、兄弟で仕事してるんですか?」

「あぁ。何でも屋だよ。言わなかったっけ?」

「初耳です」

「晃司、そろそろタマナシに戻ろう。依頼入ってるかもしれないし」

「分かったよ……たく、嫌になっちゃうよ。未来の大作家が小銭目当てで訳の分からないことばっかしてんだぜ? まぁ、しょうがない。何かあったらタマナシの健かサリーに伝えてくれ。金になったら少し回すからさ。それじゃな、マーシー」

「失礼します。あの……弟と仲良くしてやってください」


 そう言って大友兄弟もブロードウェイの中へと進んでいき、やがて暗闇に呑み込まれていった。


(小銭目当て、か。大物は言うことが違うな。あぁいう人こそ何か成し遂げられるのかもしれない。俺とは生き方が違うな。もし、彼みたいに生きられたら……)


 そこまで考えて馬鹿らしくなった。もしもを考えるのは無意味だ。あり得ない未来を望むのは贅沢な逃避だ。 俺は俺がしなければならないことをするだけだ。


 (アイツを探し出して殺す。そのために、ここに戻ってきたんだから)


 そろそろ小銭稼ぎの時間だ。 気が付くとギターのネックが、握りしめていたせいか熱を帯びていた。俺は女芸人パブの看板に首を通し、相棒をケースにしまう。黒いソフトケースに包まれた相棒を肩に背負って駅の方へと歩き出した。

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