第26話

 一瞬、時が止まった。菱井少尉、突然何を言い出すんだ? そう口頭で問いかけようとしたが、中佐が振り返る方が早かった。俺にではなく、少尉の真正面に。

 中佐は改めて席に着き、『何かね、菱井少尉?』と一言。対する少尉は立ち上がって、キッと中佐を睨みつけた。


「羽崎中佐、前言撤回をお願いします」

「どの部分だ?」


 飽くまで互いに言葉は淡々としている。


「我々の任務は、国民の生命・財産を怪獣から守ることです。そこに人数の大小は関係ないのではないかと、自分は考えます。よって、『多数のために少数の犠牲を強いられる』という部分に大きな疑問を覚えます」

「菱井少尉。貴重なご意見、よくぞ進言してくれた」


『よくぞ』などと言いながら、その言葉からは少尉の意見を一蹴しようという意図が丸見えだ。


「だが、それは『軍』というものの性質に――いや、その定義そのものに相反している。よって私は、到底受け入れるわけにはいかない」

「ええ、確かに中佐でしたら、そうおっしゃるだろうとは思っておりました」

「おい、菱井少尉! 一体何を……」


 俺は狼狽を隠せずに、あたふたと少尉と中佐を見比べた。どっしりと構える中佐に対して、しかし少尉は全く怯む様子が見えない。

 引き留めようとした俺を無視して、少尉は言葉を続ける。


「被害者が多くても少なくても、彼らは一人一人が、かけがえのない大切なものを胸に抱いていたことは、疑いようがありません。石津少佐にとっての、優実さんのように。柘植博士にとっての、奥様のように」


 沈黙する、否、せざるを得ない中佐。だが、その沈黙を破ったのもまた中佐だった。


「少し待ってくれ」


 すると中佐は執務机に戻り、小振りのニッパーのような器具を取り出した。そのまま机の下に潜り込み、ごそごそと何かやっている。


「これか」


 中佐がそう呟いた直後、バチン、と言って部屋の電気が一斉に消えた。真っ暗だ。

 しかし、一秒と経たぬうちに、電気は再度点灯した。


「これで大丈夫だ。二人共、心配しないでかけてくれ」


 手を差し伸べ、俺と少尉にソファを使うよう促す。

 中佐自身も、執務机を回り込んで再び正面のソファに腰を下ろした。


「たった今、この部屋の警備システムを切った。ここから先の会話はオフレコだ」

「何の話です?」


 俺は切り返すように尋ねた。


「柘植博士の奥様が亡くなった件についてだが、あれは本当に不幸な事件だった。本当は博士自身を狙ったのだが」


 俺は背中の臀部から首筋までが、総毛立つのを感じた。まさか。いや、そんなことはあり得ない。羽崎中佐に限ってそんな――。


「柘植博士の暗殺計画を提案したのは、この私だ」


 中佐は背もたれに身体を預け、両腕を広げてそう言った。まるで、殺したければやってくれと言わんばかりの、実に無防備な姿勢だった。

 対する俺は、反射的、といってもいい勢いで立ち上がっていた。

 しかし、呼吸ができない。言葉も出ない。ただ、じっとりとした汗だけが全身から滲み出る。


「そ、そ……」


 俺の言葉を引き継いだのは少尉だった。


「そんなこと、あり得ません! 嘘です! そうでしょう!?」

「ジョークのために私がオフレコにしたとでも?」

「羽崎中佐は尊敬に値する方です! 軍人としても人格者としても! だからこそ――」

「君が尊敬しているのは石津少佐だろう、菱井少尉?」

「ッ」


 流石にこれは効いたのか、少尉はぐっと首を引いた。

 

「そんな少佐が中佐を尊敬している。だから自分にとっても中佐は尊敬すべきである。それだけではないのか?」

「そ、それは……」


 劣勢に立たされる菱井少尉。そうか。菱井少尉はそんな考え方をしていたのか。しかし、納得すると同時に、どこか優越感を覚える自分がいることに気づいてしまった。菱井少尉は羽崎中佐よりも、俺のことを気にかけてくれているのだ、と。


 羽崎中佐に対する忠誠心と人間としての信頼は、俺にとっては盤石のものだった。しかし、そこにヒビを入れたのが、前回の怪獣上陸時のECM騒ぎだ。彼はあまりにも強引に事を運びすぎた。その事実が俺にもたらした心の靄は、いまだにわだかまったままだ。


 どこか対抗心が生まれていたのかもしれない。俺の中で、羽崎中佐に対して。

 そんな状況で、菱井少尉が中佐よりも俺を選んでくれた、という事実が俺の胸を高鳴らせた。

 これが、少尉からの忠誠に対する喜びなのか、それとも恋愛に近い感情なのか、俺には分からない。いや、分からなくてもいい。今の俺には、少尉の存在が不可欠なのだ。彼女の掌の温もりを思い出し、俺はふっと身体が軽くなるような気がした。


「話を戻そう。繰り返すが、柘植博士暗殺計画の発案をしたのは、この私だ」


 その言葉に、俺ははっと今の自分の立場を思い出した。


「何故ですか」


 抑揚のない声で、俺は尋ねた。妙に掠れている。余裕を見せる中佐とは大違いだ。

 中佐は身を乗り出し、執務机に肘をついた。


「日本がそんな兵器を所持するのは、あまりにも危険だからだ」


 中佐は収束雷撃砲の特徴を並べ立てた。

 軽量で移動が容易なこと。迷彩処置を施しやすいこと。以上二点によって、極めて強力な奇襲攻撃を行うことができること。


「もしこのデータが他国に渡ったらどうなる? 下手をすれば、核兵器に匹敵する脅威となるぞ。私が初めて目を通した時点で、その設計図は七十パーセントの完成度だった。ここまでくれば、他国の諜報員が強奪しにきてもおかしくはない。あるいは、設計図の破壊を試みても」


 いつの間に注いでいたのか、中佐は自分のグラスから水を一口。


「博士を軟禁するなり行動を制限するなりしなければ、この国の、いや、世界の安全が危ぶまれるんだ」

「だからって、殺すことはないでしょう!?」


 俺は掠れたままの声で、なんとか食い下がる。


「彼は軍属ではあるが、戦闘員ではない。拷問に屈する恐れもある。最善の策は、怪獣を駆逐した後、そしてこの兵器の存在が公にされる前の僅かな間に、柘植博士の口封じをすることだ」

「それが『多数のために少数の犠牲を強いられる』我々の立場ということですか」

「その通りだ」


 再び中佐は立ち上がり、執務机へと向かった。

 そして、俺たちにとってはあまりにも聞き慣れた金属音が執務室に響いた。

 カチャリッ。


「!」


 俺は驚きのあまり硬直した。これは、オートマチック拳銃のカバーをスライドする音だ。俺たちを口封じに殺す気か!


 なんとか対抗策を、と思いながらも、俺の身体はぴくりとも動かなかった。

 怖かったのだ。

 怪獣の足元にいた時は、その殺意は俺に向けられたものではなかった。だが、次に銃口を向けられた時、奪われるのは俺の命なのだ。


 怪獣を倒すために戦ってきたのに、尊敬してきた上官に殺されることになるとは。

 俺の人生は、一体何だったのか。


 次に動いたのは、俺の腕でも中佐の指でもなかった。

 明瞭に響く、火薬性の発砲音。

 ピシッ、という鈍い着弾音。

 そして、身体の側面が壁に押しつけられる圧迫感。


 なんだ? 一体何が起こった?


「チッ! ジャムか!」


 焦る中佐の声。給弾不良を起こしたらしい。

 はっと我に返った俺は、壁を蹴って中佐に跳びかかった。両腕を思いっきり突き出し、中佐の右腕を掴み込む。


「貴様ッ!」


 中佐が容赦なく、俺の背に肘鉄を喰らわせる。だが、同時に拳銃が中佐の腕から落ちた。

 俺は咄嗟に拳銃を後方へと蹴りやって、そのまま中佐の身体を押し出す。今度は中佐の背が、備え付けのキャビネットへとぶつかった。

 しかし俺は、飽くまで戦略家としての自分を鍛えてきた人間だ。生身で戦ってきた人間に、格闘戦で敵うはずがない。

 ガラスが飛散する中で、今度は中佐の膝が俺の腹部を圧迫する。


「ッ!」


 前後から強烈な打撃を受け、俺の臓器は悲鳴を上げた。再びの肘打ちに、俺はうつ伏せに床に叩きつけられる。

 自分の吐瀉物とガラス片に没する俺。


「止むを得ん。だがまだ正当防衛に偽装できる。悪いな、石津」

「……畜……生……」


 目だけを上げると、軍靴の裏が振り上げられるところだった。俺の首をへし折るつもりだろう。この映像は、音声がオフレコになったのと同様に記録として残されはしないはずだ。まさか、こんなところで死ぬことになるとは。


 俺はぎゅっと目を閉じた。これで、俺の人生は終わる。両親に会える。この期に及んで、両親は俺のことを誇りに思ってくれるだろうか。それとも、優実を守り切れなかったことを責めるだろうか。

 どちらでもいい、せめて、俺に会ってくれはしないだろうか。


 それは、俺が生を諦めた瞬間のことだった。

 多数の足音が近づいてきたのは。

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