八月十六日-②

「……は?」

 思わず口を衝いて出た疑問符。同時に眉間に皺を寄せる。

 大学に到着した馨を待ち構えていたのは、なんとも理不尽な仕打ちだった。

「いやいや、なんでだよ」

 自身の研究室で、朝の日課としてパソコン内のメールを確認した。目に留まったのは、一通の新着メール。学部内関係者のフォルダに届いていたその差出人は、理学部長だった。


 ——八時半から予定していた学部教授会は、十八時半に変更するよ!


 もちろん実際の文面はこんなに軽くはないし、儀礼的な文言がたらたらと並んでもいたけれど、内容を要約するとこんな感じだった。本文の末尾に『ごめんね。よろしく』と、星マークを飛ばしながらウィンクする学部長の顔が見えた気がする(ちなみに学部長は、学会でも名を馳せている理学界の重鎮である)。

 朝食をとらずに出勤してきたというのにこの仕打ち。盛大な溜息を吐きながら、馨は応接セットのソファへとへたり込んだ。両手で顔を覆い、項垂れる。

 会議に出席しなければならないことが問題なのではない。包み隠さずはっきり言えば超絶面倒くさいけれど、出席すること自体に抵抗はない。

 問題は、会議の時間が夜にずれ込んだことである。今日だけは、今夜だけは、なんとしても避けてほしかった。

 今夜は、花火が上がるというのに——。

「……」

 紫を一人にしたくない。わかっているのだ。今年も自室で声を押し殺し、一人で泣くということは。

 自分にできることなど何もない。たとえそうだとしても、兄として、妹の側についていてやりたい。

 一人で、抱え込んでほしくない。

 就業規則に記載されている終業時間は午後六時。わりと本気でさぼることも考えたが、学部内で役を引き受けたりしている関係上、それは無理だと判断せざるを得なかった。もどかしさに焦りを覚えながら、奥歯を噛み締める。

 いったいどうすればいいのか。自分たち家族は、誰一人として側についてやることができない。となると、頼れる人物は一人しか思い浮かばなかった。

 胸ポケットから取り出したスマホを操作し、耳に当てる。申し訳ないと思いつつも、一縷の望みを託すつもりで通話を試みた。

 繋がらないことを憂慮したが、は二回目のコールですぐに応答してくれた。

「……あっ、響? 悪い、急に。お前に頼みがあるんだ」





 ◆ ◆ ◆





「ほな、気をつけてね。お義兄にいさんたちに、よろしゅう言うといてちょうだい」

「わかった」

「切符は? ちゃんと持った? 駅には、兄さんか馨くんが迎えに来てくれるみたいだから」

「大丈夫やで。駅での待ち合わせ場所も決まってるから」

「そっか。じゃあ、楽しんでおいで」

「いってらっしゃい」

「うん——」


 いってきます——





 ◆ ◆ ◆





 ボーンボーンと、廊下に鐘が鳴り響く。振り子時計から発せられたそれは、重厚な余韻を残して消えた。

 やや古びた趣のあるこの音色を、紫は自室のベッドで聞いた。どうやら、長針がちょうど十二を指したらしい。手探りで掴んだスマホを確認すると、画面には〝19:00〟と表示されていた。

 激しい夕立に見舞われたこの日。先ほどまで薄明るかった外も、今ではもうすっかり暗くなっている。賑やかな蝉たちに代わり、蟋蟀こおろぎたちが物悲しそうに鳴く時間帯。

 けれど、紫はいまだ夕飯を食べていなければ、その準備に取りかかってすらいなかった。今朝からどうにも食欲が湧かず、気力も湧かない情況だ。父が作ってくれたフレンチトーストにも、ついには口をつけることができなかった。

 現在、自宅に一人きり。両親からは、前日までにこの日の帰宅が遅くなる旨を告げられていたのだが、兄から告げられたのは、今から約七時間ほど前。正午過ぎのことだった。


 ——……悪い。今夜、遅くなる。


 開口一番に兄が言ったのは、謝罪の言葉。スマホ越しゆえ表情を窺い知ることはできないが、絞り出すような兄の声に、紫は胸の締めつけられる思いがした。

 兄が謝る必要などまったくない。仕事なのだから、仕方がない。しかし、いくらそれを伝えても、兄のトーンが上がることはなかった。

 兄に、家族に、気を遣わせてしまっている自分が情けなくてたまらない。このままではだめだと、頭では理解している。自分の意思で、ちゃんと前を向かなければならないのだと。なのに、〝父〟と〝母〟の死が、その事実が、何度も何度も傷口に突き刺さり、容赦なく傷口を広げるのだ。

 五年前。駅のホームで見た二人の姿が、頭に焼きついて離れない。あれが、最後の会話……最後の笑顔だった。

「……」

 もうすぐ、花火が上がる。夜空を震わせるほどの大きな音が、街じゅうに轟く。

 ……怖い。


 ——紫! お父さんとお母さんが……っ!


 花火が、怖い。



 ピンポーン——



「!!」

 突如鳴り渡ったインターホンの音に、紫の肩が跳ね上がった。同時にベッドから飛び起き、自室のドアを勢いよく開ける。

 こんな時間に来客? いったい誰だろう?

 そんなふうに疑問を巡らせながら『はい』と返事をし、急いで玄関を目指す。お客様を待たせてはいけない——幼い頃から、ずっと守ってきた言いつけである。

 寝起きで乱れた髪をなんとか撫でつけ、声を整える。そして、玄関の引き戸に指をかけ、がらりと開けた。

 そこには、

「こんばんは」

「……響、さん?」

 夏の宵を背に、つややかな笑みを湛えた響が立っていた。

 カットソーにジーンズといった実にシンプルな装い。だが、彼の美しい体躯がいっそう際立つそれであった。

 紫がこうして彼と会うのは、十四日以来、二日ぶりのことだ。

「あ、あの……すみません、今、わたししか家にいなくて」

「あっ、ううん、大丈夫。アタシが会いに来たのは紫ちゃんだから」

「え……?」

「デートに誘うために来たの。紫ちゃんのこと」

「!?」

 まったくと言っていいほど聞き馴染みのない単語に、紫は目を白黒させた。相変わらず、響は微笑んだままだ。

 間違いなく、彼は〝デート〟と言った。自分を〝デート〟に誘いに来たと。

 彼が今日ここへ来ることすら予想していなかったのに、まさかの展開に頭がついていかない。しばらく固まっていると、『家の戸締りさえすれば、とくに何も持たなくていいから』とまで告げられた。

 状況を整理する間もなく、響によってなかば強引に連れ出された紫。抜き打ち的なこの事態に、ざわついていた心がますますざわついた。しかしながら、そのざわつきというのは、一人で留守番をしていたときのそれとは明らかに性質が異なっていた。

 響に手を引かれ、歩く夜道。あまりにも自然に手を取られたため、驚くどころかリアクションをする暇さえなかった。彼にとって、この程度のスキンシップは、やはり大したことではないのだろうか。

「これから電車に乗って、ちょっと歩くからね。疲れたら、遠慮せずに言ってちょうだい」

「え? ……わかり、ました」

 彼の宣言どおり、まず初めに最寄りの駅へと向かう。ここから三駅。およそ十分ほど電車に揺られて降車した。

 着いた先は、紫にとって、あまり馴染みのない土地だった。

 街を歩いていて気になったのは、人の多さ。これは、自宅付近も同様であった。

 家族連れ。友人同士。カップル。人々の中には、浴衣を着ている人も少なくなかった。

 それもそのはず。この日は、花火大会なのだから。

「あ、あの、響さん」

「なあに?」

「どこに、行くんですか?」

 このまま外にいれば、八時になってしまう。花火大会が、始まってしまう。

「もうすぐ着くわ。……あ、もしかして疲れちゃった?」

「い、いえ! そんなことは、全然ないんですけど……」

 自身にとって、恐怖の対象でしかない花火大会。だが、響にそれを打ち明けることはできず、手を引かれるままについていくことしかできなかった。

 そうしてしばらく歩くと、民家が立ち並ぶ区画へと辿り着いた。そこは、新しくできた住宅地というより、古くからの家(主に和風建築)が多く立ち並んでいるような場所だった。

 その一角でひときわ目を引いたのは、一軒の大きな大きな日本家屋。周囲を立派な練塀ねりべいでぐるりと囲まれたその様は、まさに圧巻の一言だ。

 いったいどんな人が住んでいるのだろうか……暗くて表札までは確認することができなかったが、純粋な興味がかすかに湧き上がる。

 一方、屋敷のほうには目もくれず、その脇にある小路へと近づいていく響。大人がなんとか対向できるほどの狭隘さに、紫は一瞬二の足を踏みそうになってしまった。が、慣れた足取りで迷わず進んでいく彼に、今は心身ともに任せるほかない。

「あともう少しだからね」

 明確な目的地を彼から告げられないまま、自宅からずいぶん離れたところまで来てしまった。自宅の鍵以外何も持たずに出てきてしまったため、時間を確認する術はないが、おそらく七時半は回っているだろう。

 小路を通り抜けると、すぐに坂道が現れた。緩やかな、けれど、長い長い坂道。ここまで来ると、ほとんど人の姿は見られなかった。

 そして、ついに——

「着いたわよ。ほら見て、紫ちゃん」

「う、わあ……」

 二人は、小高い丘の上に到着した。眼下に広がるのは、眩いばかりの光の海。

 街中の高層ビルから見下ろす夜景に比べれば、いまひとつ迫力に欠けるかもしれない。だが、紫の口から漏れた感嘆が、その素晴らしさを余すところなく物語っていた。

「すごいでしょー。ここね、アタシのお気に入りの場所なの」

「そう、なんですか」

「ええ。……正確に言えば、アタシと杏の、だけどね」

「え……」

 杏とは、響の亡くなった妹の名前だ。それを聞いた紫は、思わず口を噤んでしまった。彼から視線を逸らし、伏し目がちに俯く。

 そんな紫の心の色を窺いながら、いまだ手を握ったまま、響はゆっくりと言葉を続けた。

「祖父母の家に来ると、いつもこの場所で遊んでたの。アタシも相当やんちゃだったけど、妹のほうがもっとお転婆で……膝を擦りむくのも、服を汚すのも、とにかくなんでも派手にやらかす子だった」

 遊ぶのも、学ぶのも、怒られるのも、何をするのもいつも一緒。面白いも、悲しいも、嬉しいも……あらゆる感情を、響と杏は共有してきた。

「図鑑片手に走り回ったり、木に登ったり、小石を拾ったり……暗くなるまで遊んでたことも、何度もあったわ」

 季節ごとに遊びを考案し、〝楽しい〟を探求してきた。もちろんケンカもしたけれど、二人で力を合わせれば、なんだって常に〝楽しい〟ものになった。

 秋は木の実を集め、冬は夜空を仰ぎ、春は草花を愛で、そして夏は——

「一年で一番楽しみにしていたのが八月十六日だった。……ここから並んで花火を見るのが、本当に楽しかったの」

 物心ついた頃には、毎年この場所から花火を見ていた。ひとしきりはしゃいで祖父母の家に戻ると、祖母が冷えたスイカを用意してくれていた。

 杏が亡くなって以来、ここで観賞したことは一度もない。それどころか、ここへ足を運ぶこと自体、めっきり減ってしまった。

「馨から聞いたわ。今日がご両親の命日で、花火を見ている最中に、ご両親の訃報が入ったって」

「……」

 百パーセントではない。百パーセントではないけれど、響には、紫の気持ちを理解することができた。

 悲しみも、苦しみも、寂しさも、切なさも……これらから生まれる葛藤も。

 それから、

「怖いのね」

 恐怖も。

 響のこの一言で、紫はさらに項垂れてしまった。暗闇でもわかるほどに、その表情は翳っている。紫が抱いている恐怖——その形が、響のもとへはっきりと伝わってきた。

 握り締める手に、ぎゅっと力を込める。すると、それに呼応するように、紫がほんの少しだけ顔を上げた。

「……わかってるんです。このままじゃ、だめだって。ちゃんと前を向かなきゃ、だめなんだって」

 重い扉をこじ開けるように、ゆっくりと口を開く。肩を震わせ、声を震わせながら、蓋をしていた自身の想いを訥々と吐露していった。

「過去に縛られたままじゃ、先には進めないって。今日を乗り越えなきゃ、また同じことの繰り返しだって。わかってるんです。……でも、怖くて。……大切なものを失くすのも、大切な人が傷つくのも、なにもかもが怖くて……っ……」

 ここまで言うと、紫は言葉を詰まらせた。響の手から自身の手をぱっと放し、両手で顔を覆い隠す。

 五年前のあの日、幸せは突然崩れ去ることを知った。大切なものも、大切な人も、一瞬にして奪い去られることを知った。同時に、自分の脆弱さや無力さというものを、まざまざと思い知らされた。

 声を押し殺し、必死で涙を堪える。ここで泣けば、響に迷惑をかけてしまう。そんな懸念が先行した。

「ねえ、紫ちゃん」

 刹那。

 紫は、はっと息を呑んだ。

「もう、一人で抱え込まないで」

 隣から聞こえていたはずの響の声。その穏やかな声音が、いつの間にか、紫の正面へと移動していたのである。

 それを知覚するやいなや、紫の上体は、柔らかな温もりと甘い煙草の香りに包まれた。

「一人で前を向こうとしなくていいの。だって、一人じゃないんだから」

 背中に回された腕。布越しに当てられた手のひら。彼に触れられた部分が、しだいに熱を帯びてゆく。

 瞳に映ったのは、深い深い夏の夜空だった。

「怖いと思う気持ちはわかるわ。失う怖さも、傷つける怖さも。だけど、だからこそ誰かを……家族を頼らなきゃ」

「……」

 彼の言葉が、彼の優しさが、灯火となって紫の心を明るく照らす。直後、自ら嵌めていた枷はひび割れ、粉々に砕け散った。

「紫ちゃんが教えてくれたのよ? 『家族だから大丈夫』だって。……大丈夫。大丈夫よ」

「……っ——」

 一筋の光が、勢いよく空へと駆け上がる。次の瞬間、大きな音とともに咲いた大輪の花が、夜空を彩った。

 赤、青、緑……絶えず流れる鮮やかな滝が、街の上へと降り注ぐ。

 彼の肩越しに見た五年ぶりの花火は、淡く、あたたかく、滲んでいた。



 お父さん。お母さん。

 わたし、見つけたよ。

 大切な玻璃の花。

 大切な、大切な、夏色の玻璃たからもの



 見つけたよ——

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