八月十四日-①
初めて会ったときから、彼にはどこか不思議な魅力を感じていた。
日本人離れした容姿。気品溢れる物腰。そして、女性のような言葉遣い。
彼自身に湛えられた鮮やかな光が、ぬくもりとなって幾度となく胸の奥に降り注いだ。なんて素敵な人なんだろうと、会話を重ねるごとに尊敬と憧憬の念が募っていった。
それと同時に浮かび上がったのは、〝影〟の存在。光が強くなればなるほど、〝影〟は明度を失い、まるで日食のように光を蝕んでゆく。
もしかすると、母親との関係が、彼に翳りを宿しているのかもしれない——。
彼の境遇、その片鱗に触れ、そんなふうに思いはかった。いまだ彼の口から明かされていない母親の片影が、妙に胸をざわつかせる。
知りたい、知りたくない。
踏み込みたい、踏み込みたくない。
自分の中で相反する二つの感情。まるで古ぼけたシーソーのように、頭の中で軋む音が苦しげに鳴り渡る。
何度も。何度も。
何度も——。
◆ ◆ ◆
ボーンという重々しい音が、冷蔵庫に手を伸ばす紫の耳に入ってきた。古い柱時計が正午を告げる音。やけに大きく聞こえるのは、紫以外、他に誰も家にいないからだろう。
八月十四日、水曜日。
〝
盆のあいだ、彰は毎日のように勤行へと赴いている。主に
忙しい家族に代わり、紫は一通りの家事を済ませた。喉の渇きを潤すため、コップ一杯の麦茶を注ぐ。そして、昼食を食卓へと並べ、一人椅子に座った。
あさりの吸い物に
けれども、紫は箸置きから箸を取ることさえできずにいた。喉を通るのは麦茶だけ。体を動かしているあいだはなんともなかったのに、休んだとたん、胸の奥に黒い靄が立ち込めてきたのである。
彰の午前中の勤行先——それは、響の祖父母宅。
八月十四日。この日は、響の妹の二十三回忌にあたる。
法要自体は九時半から行われているはずゆえ、もうとっくに終わっている頃だ。しかし、今なお彰が帰宅する気配はない。おそらく、お
「……っ」
込み上げてくるものを堪えるように、紫は両の手をぐっと握り締めた。四日前に彼が見せた悲しい笑顔が、脳裏にまざまざと蘇る。
あの日以来、響とは会っていない。
けっして会うのが嫌だというわけではない。ただ、今日という日が近づくにつれ、どんなふうに彼と接すればいいかわからなかったのだ。
彼はきっと法要の準備で忙しい。そう自分に言い聞かせ、連絡を取ることを控えていた。事実、彼が父親と二人で法要の準備を進めていることを兄から聞き、これで良かったのだと再度自分を説き伏せた。
瀬戸との再会、故郷での同窓会。
響の妹の法要、彼と母親との関係。
そして、明後日に迫った、自身の両親の命日。
考えれば考えるほど、まるで全身を鎖でがんじがらめにされるような感覚に陥った。胸の奥の黒い靄が、一気に増長する。
キィッ、キィ……
頭の中では、軋む音が大きさを増しながら、苦しげに鳴り渡る。
何度も何度も鳴り渡る。
キィ……ッ——
彼の悲しい笑顔とともに。
◆
——紫は本当にその玻璃の花が好きなんだね。
——好き。すごいきれいやもん。……これ、もともとはお父さんのおうちにあったんやでって、お母さんがゆうてた。
——ああ。お母さんと結婚するときに、お父さんの
——お父さんの宝物?
——うーん……そうだね。とても大切なものではあるけど……でも、お父さんにとっての宝物は、紫とお母さんかな。
——ゆかりとお母さんが、お父さんの宝物?
——そうだよ。何よりも大切な宝物。……いつか紫も、紫にとって大切な〝
懐かしい声。その余韻に引かれるように、紫は瞼を持ち上げた。ゆっくりと数回まばたきをすれば、徐々に焦点が定まった。
意識が鮮明さを取り戻し、自身の体がベッドに横たわっていることに気づく。……体が重い。昼食を終えて自室へと戻ったあと、どうやらそのまま寝てしまったらしい。
昼食を終えたといっても、摂取できた量は全体の半分のみ。なかなか箸は進まなかったが、せっかく父が用意してくれたものを無駄にはしたくなかった。結局のところ、半分は残してしまったので、その半分を無駄にしてしまったのだけれど。
ちりちりと痛む胸に眉を顰めながら、枕元に無造作に置かれたスマホを手に取る。手帳型ケースを開くと、内側のポケットにちらりと紙の端が覗いた。
四日前、瀬戸から渡されたそれを横目に、スリープを解除して時刻を確認する。画面の中央には、大きく〝13:42〟と映し出されていた。
鈍重な動きで、
「……麦茶……」
そういえば……と、これまた鈍重な頭を働かせる。
昼食時に、自身のコップに注いだ分が最後だったことを思い出したのである。煮出して冷やしておかなければ。そう思っていたにもかかわらず、すっかり失念してしまっていた。
力ない足取りで、紫は自室をあとにした。内縁の廊下を渡り、台所へと向かう。寝ぼけまなこを擦りながら台所に近づくと、なにやら人の気配と物音がした。
「……伯父さん?」
「あ、紫。ただいま」
見れば、法衣姿の彰がコンロの前に立っていた。紫が『おかえりなさい』と告げると、
「いつ帰ってきたの?」
「さっきだよ。本当は、もっと早くにお暇するつもりだったんだけど、ついつい話し込んじゃってね」
「……響さんたちと?」
「うん。おじいちゃんの膝の状態も落ち着いてるみたいだし、響くんも元気そうだったし……久々にみんなの顔が見られて安心したよ」
そう話す彰の手には、アルミ製のやかんが握られていた。中身はおそらく麦茶。それに気づいた紫が、すかさず謝罪する。
「ごめんなさい。煮出しとかなきゃって、思ってたのに」
「え? ……ああ、麦茶? いいよ、気にしなくても」
申し訳なさそうな表情を浮かべる娘に対し、父はふわりと微笑んだ。やかんを火にかけ、換気扇を回す。そして、娘の様子から、彼女が寝起きであるということを悟り、冷蔵庫で冷やしておいたミネラルウォーターをコップに注いだ。
「あ……ありがとう」
差し出されたコップ。それを両手で受け取ると、触れた部分からひやりとした感覚がじわりと広がった。心地好い冷たさと同時に染み入るのは、父の優しさ。
「休んでたんでしょ? ……今日、これからまた一人で留守番させちゃうけど、ゆっくりしてていいからね」
「……——」
父の穏やかな声が、〝父〟の声と重なる。
声だけではない。顔立ちも、笑い方も、会話の中の間の取り方も……何もかもが、〝父〟と重なってしまう。
……胸が苦しい。今にも張り裂けそうなほど。〝父〟の死を嘆く一方で、父の優しさが痛いくらい心に沁みた。
麦茶のストックを切らしたくらいで、こんなに落ち込まなくてもいいことくらいわかっている。昼食を食べきれなかったことに、過剰に悔いる必要などないということも。
だが、父の優しさに触れれば触れるほど、その優しさに十分に応えることができない己の未熟さに、どうしても苛まれてしまうのだ。
明後日は、両親の命日。紫にとって、けっして癒えることのない傷を負った日。でもそれは、父にとっても同様で。
実の弟を亡くし、つらくないはずがない。気持ちにゆとりなんてあるはずない。にもかかわらず、それをおくびにも出すことなく、父は自分のことを娘として迎えてくれた。笑顔で迎えてくれた。
父だけではない。
母も、兄も、
「伯父さん、次のお宅は何時から?」
「え? 二時半からだけど」
家族として、迎えてくれた。
「じゃあ、もう行かなきゃ。あとは、わたしがやっておくから」
三人には、本当に感謝している。
「だから……」
だから、少しでも役に立ちたいし、迷惑をかけたくない。無理を言って困らせたくはない。
邪魔に、なりたくない。
「……お勤め、いってらっしゃい」
ずっと家族で、いたいから。
大好きな父のその背中を、紫は見送った。精一杯笑って見送った。
頭の中では、錆びた金属の軋む音が、
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