【閑話】八月十一日

「ほら。遠慮なんかしないで何でも好きなの頼め」

「……って」

「言われても……」

 雰囲気のある、和モダンテイストな空間で、三人の男性が座を占めている。

 彼らが囲んでいるのは、ダークブラウンの木製テーブル。室内の要所要所に和紙の照明が置かれ、橙色の杳々ようようとした灯りが部屋全体を巧みに演出している。小物から建具に至るまですべてがシックにまとめられており、掘りごたつの座り心地は抜群に良好だ。

 馨は、自身の教え子である桐生と椎名を、このほど創作料理店へと誘った。先日の謝礼として夕食を奢るため、三日ほど前に予約を入れておいたのだ。

 二人は、馨が開講する通称〝日野ゼミ〟に所属する理学部の三年生。本日お相伴に与るとて師についてきたものの、目の前に広げられた品書きを見て固まってしまった。奢ってくれるとわかっていて、遠慮せずになどいられるわけがない。

「せんせーの好きなものでいいっす。……お前は?」

 ばっちりとアレンジを施した金髪に、人懐こそうな釣り目が特徴的な桐生がそう言うと、

「同じく」

 漆のような黒の短髪に、左目の泣きぼくろがなんとも蠱惑的な椎名がこう返した。

 定員が四人の個室に三人。桐生と椎名が隣に並び、桐生と対面する格好で馨が座っている。研究室では、三人で過ごすことがままある(過ごさざるを得なくなる)ため、変わり映えのしない面子である。

 ……が、この日は場所が違うからなのか、ゼミ生二人は妙に緊張してしまっていた。顔色はいつもとさして変わらないが、どことなくそわそわしている。

「そんな緊張しなくていい。ここの料理はどれも美味いから、とにかく楽しめ」

 一方の馨は、寸分たがわず普段通り。そわそわしている教え子に眉を下げて笑うと、品書きの中からいくつか自身のおすすめを挙げていった。桐生も椎名も、とくに食べられないものはないとのことで、注文を取りに来た店員に慣れた様子で料理名を伝える。

 海鮮サラダ、串揚げの盛り合わせ、帆立のバター焼きに特製ローストビーフ。それから生ビール。

 店員が注文を復唱し、襖を閉めた直後。

「せんせー、ここへはよく食べに来るんすか?」

 桐生がこんなことを口にした。

 入店して以降、師の一連の言動が気になったがゆえに生じた、素朴な疑問だった。

「ん? ああ。ここのオーナーが、うちの檀家だからな。昔から、家族でよく来てたんだ」

「檀家? ああ、そういやせんせーの実家、お寺でしたね」

 冷たいおしぼりで手を拭きながら答える馨に、納得の表情を向ける(ちなみに、馨の実家が寺であることは直接本人から聞いたわけではなく、同じ日野ゼミに所属する四年生から聞いたことだった)。

「最近は時間が合わなくて、家族揃って来ることもなかなかないけどな」

 水の入ったグラスに手をかけるも、いっこうに口元へ運ぶ素振りを見せない馨。結露した水滴が指先からしたたり落ち、テーブルに小さな水溜まりを作る。

 物心ついた頃には、家族三人でよくこの店を訪れていた。〝檀家〟という概念すら理解しないままに、忙しい両親との時間をただ楽しんだ。

 当時からよく注文していたのが、先ほども注文した帆立のバター焼き。自分は存外魚介類が好みなのだと、この店の料理を食べているうちに自覚した。ずっと変わらない味。そのあたたかさに、自然と心が落ち着いた。

 変わったのは、自分の働いた収入で食べられるようになったということ。ありがたいことに、今ではこうして可愛い教え子に振る舞えるまでになった。

「先生は、仏教系の大学には進学されなかったんですね」

 次に口を開いたのは椎名だった。使用したおしぼりを丁寧に折り畳みながら、またまた素朴な疑問を師に投げかける。投げかけてすぐ、少々不躾だったのではと自身の言動を省みた。

 だが、投げかけられた当の本人は、とくに顔色を曇らせることなくこれに応じた。

「まったく考えなかったわけじゃないんだけどな。一応、小学生の頃に得度とくどは受けてるし。……でも、やりたいこと追っかけてたら、今の大学に行きついてた」

 ここでようやく馨は水を一口含んだ。その口元は綻び、黒い双眸には柔らかな懐古の色が滲んでいる。穏やかな眼差しの奥に透けて見えるのは、おそらく〝童心〟。夢を追いかけ、これからも追い続けていくであろう彼の、純真な心だ。

「お寺って、世襲制じゃないんすか?」

「んー、まあ絶対っていうわけじゃないけど……俺の知ってるとこは、ほとんどが世襲だな」

「親御さんに、お寺を継いでほしいって言われたりとかは?」

「全然。……その点は、ほんとに感謝してる」

 桐生と椎名の質問に交互に答えると、馨は再度喉を潤した。小さな氷がグラスと擦れ合い、繊細で玲瓏れいろうな音を奏でる。

 馨の祖父も曾祖父も高祖父も、皆一様に住職として寺を守ってきた。そのルーツは江戸時代にまで遡るのだと、いつだったか父から聞いたことがある。けっして大きな寺というわけではないけれど、それなりに歴史は有しているらしい。

 自分の代で途絶えさせていいものかと悩んだ時期もあった。自分が継承していくべきではないのかと迷った時期もあった。それでも、両親は息子の意思を何よりも一番に尊重した。

 ——学びたいことを学びなさい。

 両親のこの言葉が、今もなお、研究者としての馨を支え続けているのだ。

「先生は、ご兄弟いらっしゃらないんですか?」

「……なんだお前ら。やけに質問ばっかだな」

 教え子二人の質問攻めに、馨はとうとう眉を顰めた。が、頬は緩んだままである。まあいいけど、と軽く咳ばらいをしたあと、妹が一人いることを告げた。

 妹の存在を告げられた二人は、顔を見合わせて『へー』と感嘆すると、師に対し揃って羨望の視線を送った。二人とも男兄弟しかいないとのことで、姉や妹といった存在に憧れを抱いているらしい。

「やっぱ可愛いすか?」

「可愛いな」

「先生と妹さん、いくつ離れてるんです?」

「いくつ? ……え、いくつだ? 今年大学入学したばかりだから……十二? 三?」

 歳が離れすぎているため、馨は細かい差など気にも留めていなかった。〝おおよそ一回り離れている〟程度の認識ゆえ、とくに反芻することなくそのまま数字を口にする。

 そんな師のアバウトな返答にも、教え子たちは羨ましさを募らせるばかり。まだアルコールも入っていないというのに、テンションは上がる一方である。

 だがしかし、

「彼氏とか連れてきたら、どうするんすか?」

 桐生のこの質問に、

「……どうするもこうするも——」

 馨の纏う空気が、

「——まずその彼氏とやらに直接聞かないとな。どういう了見なのか」

 けば立った。

 ヤバい、地雷だったか。と、冷や汗を流すも覆水盆に返らず。顔を引きつらせた桐生の太腿を、テーブルの下で椎名が小突いた。

「まっ、あいつが選んだ相手にとやかく言うつもりはないけどな」

「……口調と表情が一致してませんよ、先生」

 上腕が粟立ち、背筋に悪寒が走る。馨がどれほど妹を溺愛しているのかということを、二人は身をもって思い知った。

 そして、金輪際、興味本位で彼の妹の色恋ネタには触れまいと、固く心に誓った。


 そそけた空気が安穏を取り戻した頃、待ちに待った料理がテーブルを彩った。

 生ビールで乾杯し、旬を味わう。素材はもちろんのこと、皿や小鉢、盛り付けや装飾など、あらゆる箇所に緻密な技巧がこらされていた。

 桐生と椎名は、なんだかんだ料理を堪能しているようだった。目を輝かせて箸を口へと運ぶその姿に目を細める馨。眼前の光景を肴にジョッキを傾ける。

 美味しい。楽しい。

 ……気づかわしい。

 この場の心地好さに純粋に浸りながらも、先ほどの会話の流れから、馨の意識はいもうとへと吸い寄せられていた。

 昨夜。

 紫が、響のことについて尋ねてきた。正確には、響の母親のこと。結局は、未遂に終わったのだが。


 ——ねえ、馨兄。

 ——ん?

 ——あ、あの……響さんの、お母さんって……。……ごめん、なんでもない。


 紫が言い淀んだ真意も、飲み込んだ言葉も、馨にはわからない。ただ、響の過去に近づいてしまったのだと、そう直感で悟った。

 かといって、聞き返すことも促すこともできなかった。こうなることはある程度予想していたはずなのに、いざ直面してしまうと、予想以上に判断も行動もできなかったのだ。

 あまりの不甲斐なさに、悔しくて腹が立ってたまらない。

「さっきからオレたちばっか食ってんな。椎名、そっちの取り皿取って」

「あっ、俺が取り分ける。……はい、先生」

 不甲斐ない自分にできること——それは、二人を信じること。

「ああ。……悪いな」

 信じると決めたのだ。この夏。


 大切な、二人を。

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