八月十日-④
硬い音が二、三度頭上で弾けるやいなや、あっという間にしのつく雨が視界を遮った。サッカーをしていた少年たちは慌ててグラウンドから撤収し、我先にと家路を走る。笑いながら、はしゃぎながら、彼らはこの豪雨でさえも全力で楽しんでいるようだった。
すっかりひと気の絶えたこの場所で二人。休憩所の屋根を叩く雨音と、遠くで轟く雷鳴が、紫と響の鼓膜を震わせる。
京都に帰るのが怖いのかという響の問いかけに、紫は黙り込んでしまった。答えは〝イエス〟だとわかっているのに、首を縦に振ることすらできない。認めたくない、のかもしれない。認めてしまえば、今度こそ恐怖に押し潰されてしまう。そんな目には見えない脅迫めいた何かに、紫はとらわれていた。
深い深い沈黙が、じわりじわりと影を広げていく。自分が自分に呑み込まれていくような、鈍重な感覚——。
しかし、影の広がりは、響のこの一言によって食い止められた。
「実を言うとね、アタシも怖かったのよ。今回日本に帰ってくるの」
思いもよらない響の告白に、紫はほんの一瞬間を挟んだ後に『えっ……』と目をしばたかせた。彼の表情は、まるで凪いだ海のように穏やかだったが、そこには少なからず切なさが滲んでいた。
「この前、今回の帰国の目的を話したでしょ?」
「あ、はい。……身内の方の法要、ですよね」
「誰の法要か、家族に聞いた?」
「いえ、詳しいことは何も……」
首を横に振って否定した紫に、居住まいを正した響が静かに語り始める。
彼の表情に滲んだ切なさの理由——
「アタシね、双子の妹がいたのよ。十四日は、その子の二十三回忌なの」
「っ——!!」
——それは、あまりにも凄惨で、あまりにも残酷なものだった。
「小四のときに、交通事故で亡くなったんだけどね。……道路に飛び出して、トラックに撥ねられて、そのまま……」
当時の苦衷を思い出したのだろう。ごくわずかではあったが、響はその整った顔を歪めた。きつく引き結ばれた唇が、彼の胸中をつぶさに物語っている。
ひと息入れ、短く深呼吸をすると、さらに彼は続けた。
「二卵性でも顔がそっくりだったから、よく双子の姉妹だって間違われてたわ。けど、そんなことなんて気にならないくらい、すごく仲が良かったの。……あの子がいなくなって味わった虚無感は、今でもはっきり覚えてる」
「……」
響の声色からは、筆舌に尽くし難いほどの哀しさや寂しさ、それから悔しさといった感情が、複雑に交錯していることが窺えた。
紫は気づいた。気づいてしまった。彼が味わった苦衷や虚無感は、けっして過去のものなどではないということを。今もなお、胸に抱え続けているのだということを。
自分と、同じなのだということを——。
「十年経って、ここの景色も変わって……なのに、妹が死んだ事実は変わらなくて……。受け容れてるつもりなんだけどね。まだどこかで、受け容れられてないんでしょうね」
変わってしまっていることに対する恐怖。変わらないことに対する恐怖。その両方を抱え込んだまま、響は再び故郷の地を踏むこととなった。
自分だけ時の止まった故郷で、愛する人を喪った事実だけが変わらない。今回の帰国に際して響が抱えていた恐怖感は、まさに紫が抱えているものと同じだったのだ。
夕立が激しさを増す。何もかもを押し流す勢いで、すさまじく降り注ぐ。
「響さん、は……どうして、イギリスに……?」
雷雨に掻き消されそうなほどのか細い声で、紫が呟くように問いを零した。紫にしては、珍しく積極的な姿勢。つい口をついてしまった疑問だったが、この雷雨のせいで、もしかすると彼の耳に届かなかったかもしれないと案じた。
けれども、それは杞憂に終わった。
紫の声は、彼にちゃんと届いていた。
「……あまり大きな声では言えないんだけどね」
こう前置きし、小さく溜息をつくと、響は苦笑まじりに答えてくれた。置き去りにしたものを拾い上げるように、ゆっくりと話の腰を上げる。
「紫ちゃん、グラント・スミス社って知ってる?」
響の口から出た、とある会社名。それは、紫にとって、大変聞き馴染みのあるものだった。〝憧れの〟といっても過言ではないかもしれない。
「えっ、と……たしか、イギリスの有名な銀食器メーカーですよね?」
Grant & Smith——十八世紀からおよそ三百年続く、英国を代表する名門銀器メーカー。〝
シンプルかつ機能的。さらには美しさを兼ね備えた優れたデザインが、英国だけではなく、世界中で人気を博している。
長年募らせていた憧憬に大きく関心を示した紫。だが、その関心は、すぐさま驚愕へと形を変えた。
「この前言ってた母方の祖父の会社っていうのが、そこなのよ」
「えっ!?」
響からさらりと告げられた事実に、紫は瞠目した。信じられない……というわけではない。これまでの彼の発言をかんがみれば、納得できなくはない。けれど、やはり完全に飲み込むまでに、少々時間を要してしまった。スケールの大きすぎる話ゆえ、消化するのも一苦労だ。
紫の一驚をよそに、響は自身の過去を次々と拾い上げてゆく。
「祖父には、アタシの母のほかに息子が一人いてね。母の弟にあたる人なんだけど。本来なら、その人が会社を継ぐはずだったの。……けど、会社の資金に手を出して、家族ともども経営陣から追放されちゃって。……まあ、それはそれでわからなくもないんだけど、なぜか後継者の話がアタシに回ってきちゃったのよね」
妹の死後、響の両親は離婚し、母親はイギリスへ帰国した。離婚の原因には触れなかったものの、彼の口ぶりから、夫婦間に不和が生じたわけではないことが読み取れた。彼は父親とともに日本で暮らすことを選択し、母方の祖父とはしばらく疎遠になってしまっていたらしい。
身内の汚職。皮肉にもそれが響と祖父を再度近づけるきっかけとなり、当時日本の大学に在籍していた彼の運命を大きく変えてしまったのである。
「初めは断るつもりでいたの。日本で生まれて、日本で育ったアタシには、日本で生きていく以外ほかに考えられなかったから。……でも、どうしてもって、祖父に懇願されて」
響の祖父は、とにかく血縁者の中から次代を担う者を選出したかったのだという。たとえそれが、他国で暮らす孫であったとしても。
ただのこだわりなのか、他に何か理由があるのかは不明だが、再三のオファーを受け、ついに彼は了承したのだそうだ。その代償として、日本での生活を失うこととなってしまったけれど。
「あ、あの……」
「なあに?」
叶えたかった夢……諦めざるをえなかった夢が、彼にはあったのだろうか。そんな疑惧が、紫の脳裏をつっとよぎる。もしもそうなのだとしたら、とても他人事には思えなかった。
「……後悔、してないですか? イギリスに行ったこと」
家族を亡くした。故郷を離れることを余儀なくされた。——似通った境遇の彼と自分を、どうしても重ねずにはいられなかったのだ。抱えた傷の痛みは、嫌というほど知っている。
「そうね……まったくしてないって言ったら嘘になるかもしれないけど、でも今の仕事が嫌なわけじゃないの。……それに母が——」
そこまで言うと、響は言葉を切り上げた。湛えた笑みに滲ませた悲哀が、彼の美しさをよりいっそう際立たせている。
紫は、それ以上何も訊かなかった。……訊けなかった。
しだいに弱まる雨足。いつしか雷鳴は止み、雨に濡れた桜の木々がきらきらと煌めいている。明るさを取り戻しつつある対岸の街並みが、淡くぼやけて見えた。
それから間もなくして夕立は去り、二人は帰途についた。紫に対し、『今日はありがとね』と微笑んだ響は、いつもの彼だった。
響と出会ってから、ちょうど十日目となるこの日。
初めて目にした彼の悲しそうな笑顔が、きりきりと紫の胸を締めつけた。
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