八月十日-③

 八月十六日。それが花火大会の定日だった。

 寺の近くの河川敷から上がる、およそ一万発の打ち上げ花火。迫力のある音とともに咲いた大輪の花や、落ちてきそうなほどに滴る色とりどりの雫に興奮し、歓声を上げた。その日見上げた夜空は、毎年その夏一番の思い出になった。

 けれど、五年前の八月十六日。楽しい思い出となるはずの花火大会は、哀傷の色で塗りつぶされてしまった。——黒く、ぐちゃぐちゃに。

 叫びにも似た伯母の声は、言い終える前に花火の爆発音によって掻き消された。それから、どんなふうにして京都に戻ったのか、よく覚えていない。

 気づけば青空の下、焼け焦げた瓦礫が散乱した場所に立っていた。そこは、両親とともに過ごしたかけがえのない場所——数え切れないほどの思い出が詰まった、大切な旅館いえがあるはずの場所だった。

 涙は、出なかった。

 途切れ途切れの記憶。断片的にしか辿ることはできないが、家族・・の姿は覚えている。ずっと隣で付き添ってくれた従兄。強く抱き締めてくれた伯母。中でも鮮明に覚えているのは、葬儀の際、祭壇前に座した伯父の背中。

 いっさいの迷いを断ち切ってくれそうなほどに、たゆみない声——その声が、ときおり掠れ、震えていたことを、今でもはっきりと覚えている。


 八月十六日。

 今年もこの日に、花火が上がる。





 ◆ ◆ ◆





 予期せぬ人物との遭遇に、紫はほんの一瞬目をみはった。相手のほうも少なからず驚いているようだった。まさかこんなところで会うなんて——互いの胸中に、共通の感情が湧き上がる。

「……瀬戸せと、くん?」

 紫は探るように声を発した。人違いではないとわかっていても妙に緊張してしまった。それもそのはず。紫が彼に名前を呼ばれたのも、彼の名前を呼んだのも、実に五年ぶりのことであった。

「やっぱり橘やった! 全然変わってへんから、すぐにわかったわ。元気してたか?」

「うん。瀬戸くんも、元気にしてた?」

 彼の名前は瀬戸せとかける。紫の小中学時代の同級生である。

 瀬戸は紫のことを〝橘〟と呼んだ。これは、紫が生まれてから日野家に養子に入るまで、およそ十四年間名乗っていた旧姓だ。

「この近くに住んでるんか?」

「うん。……瀬戸くんは、どうして?」

「おれ、この春からこっちの大学に通ってるんや。ここへは友達と来てて……って、ごめん! もしかせんでも邪魔してしもたな」

 犬のようにつぶらな瞳がさらに大きくなり、色素の薄い柔らかな髪がふよふよと舞った。昔馴染みを見つけ、一人席を離れてきたはいいものの、対座している響の存在を失念していたらしい。

 慌てふためく瀬戸に、響は無言でかぶりを振った。どうぞお構いなく——そう言わんばかりに優しく微笑んで。

「……めっちゃ綺麗な人やな。外国のモデルさんみたい」

 響の容貌を隅から隅までまじまじと眺めた瀬戸の第一声。頬を薄桃色に染め、浮かべていたのは恍惚とした表情だった。思ったことをストレートに口にする性格は相変わらず。おかげで、直前までの重い空気は雲散し、霧消した。

 紫の中にある瀬戸のイメージは、快活で人気者。毎年クラス委員も務めていたし、中学のときは一年にもかかわらず生徒会に所属していた。サッカー部ではエースだったし、成績もそこそこ優秀だった。同級生だけではなく、先輩からも後輩からも好かれる、いわゆる〝アイドル的存在〟というやつだ。

「大学の友達……じゃないやんな?」

 紫と響の関係を不思議に思った瀬戸が小首を傾げる。見るからに自分たちよりも年上の響。そんな人物と同級生の接点が、純粋に気になったようだ。

 瀬戸の質問に対し、紫は顎を小さく引き下げた。

「うん。この人は、わたしのお兄ちゃんの友達」

「お兄ちゃん? ……あっ!」

 その単語を予想していなかったがゆえ、瀬戸は復唱してしまった。疑問符を浮かべ、さらに首を傾げる。しかし、すぐさま紫の現状が脳内で補完できたため、疑問符は納得の感嘆符へと変わった。

 瀬戸は知っている。紫が旅館の一人娘だったということを。五年前に旅館が——紫の両親がどうなって、伯父夫婦に引き取られるに至ったのかということを。

 紫が辿ってきた経緯を思慮すれば、兄の存在にもおのずと得心がいく。

「橘のお兄さんの、女友達?」

「え? あ、と……男、友達」

「!? おと……えぇっ!?」

 とはいえ、こちらの返答はまるきり予想できなかったようで、驚きを盛大に音にした。信じられないと言わんばかりに目を瞠り、固まっている。

 瀬戸の反応は至極当然だ。自分だって、初めて彼の性別を兄から告げられた際には、まったく同じ反応を示したのだから。あの日のことを想起し、紫は心の中で小さく苦笑した。

 だがここで、はっと思い直した。彼の性同一性ジェンダー・アイデンティティを、自分が勝手に口にしてもよかったのだろうかと。先ほど、彼は自分のことを〝男〟だと言い切っていた。よって、認識はこれで問題ないはずなのだが、なんとなく胸に一抹のわだかまりが残る。今までさほど意識していなかった彼の、そのルーツを、紫はこのとき初めて強く意識した。

 ほどなくして固結が弱まった瀬戸は、『やっぱ都会はすごいな……』などと、的を射ているのか外しているのかよくわからない自論をぽそりと呟いた。

 店内の賑わいはまさにピーク。忙しなく動く人と物の合間を、自然と大きくなった声が行き来する。ガヤガヤとしたさざめきに混じり、上品で芳しい香りがそこかしこに漂っていた。

「あっ、そや。まだまだ先の話なんやけど……」

 そろそろ自席に食事が到着するかもしれない。そう思いなした瀬戸は踵を返そうとしたのだが、一呼吸置き、改めて紫に話しかけた。

 その表情は、期待と緊張、それから心痛を綯い交ぜにしたような、複雑なものだった。

「再来年の一月、俺ら成人式やろ? で、式終わったあとに中学の同窓会計画してるんや。俺、地元に残った何人かと一緒に幹事やってて……もしよかったら、橘も参加してくれへんかな? みんなお前に会いたがってるから」

「え……」

 それは、紫にとって、思いもよらない誘いだった。瀬戸の言葉をすぐには消化することができず、目を泳がせる。

 顔が、体が、徐々に静かに硬結してゆく。

「橘の連絡先、誰も知らんから仕方ないって諦めてたけど、今日直接伝えられてよかった。……もちろん、無理にとは言わへんから。まだ時間もあるし、ゆっくり考えてみて」

 紫の心情を汲み取っているのだろう。眉を下げ、柔和に微笑むと、瀬戸は優しくこう言った。そして、十一桁の数字が記された紙を財布から取り出し、そっとテーブルの上に乗せた。

「ごめんな、邪魔して。お連れの方も、すみませんでした」

「いいえ、大丈夫よ。気にしないで」

 響に礼儀正しく頭を下げ、紫に『いつでも連絡してな』と言い残すと、瀬戸は元来た場所へと引き返していった。彼が着いた席には、同年代と思しき男女五人の姿。大学の友人かどうか定かではないが、交友関係の広さは今も昔も変わらないようだ。

 途中一度だけ振り返った彼に対し、紫は口角をゆるめる程度に微笑んだ。それが精一杯だった。彼に対し、『ありがとう』すら言えなかった自分に嫌気がさす。だが、それほどまでに、紫の心は動揺してしまっていたのである。どろどろとしたコールタールのような負の感情に、胸の内が侵食されていくのを感じた。

 幾度となく覚えたこの感情の名を、紫は知っている。

「……そろそろ出ましょうか。外で待ってる人もいるみたいだし」

 響に促されるまま、紫は離席した。一言も発することなく、俯き加減に足を運ぶ。

 肌にべたりと纏わりつく、湿気とほんの少しの冷気を帯びた外気。空が灰色で覆われていることに気づいたときには、彼によってすでに支払いは済まされていた。店の外に出るまで、ほとんど無意識だったことを自覚する。

 自分のことを見つけ、話しかけてくれた瀬戸には、心の底から感謝している。再会し、懐かしさに胸が綻んだことも事実だ。なにより、自分を忘れずにいてくれたということが、純粋に嬉しかった。

 しかし、胸の内のどろどろは、いまだにかさを増し続けている。

「ねえ、紫ちゃん。このあと時間あるかしら? ちょっと寄り道したいところがあるんだけど」

「え?」

 しだいに厚くなる鈍色の雲の下。唐突な響の申し出に、紫は目を丸くした。彼の真意がわからない。わからないが、とくに断る理由もなかったために承諾した。こくりと頷き、彼について移動する。

 十年のブランクがあるといえど、やはり彼には土地勘があった。地元の人しか知らないような狭い路地を通り抜け、右に左に歩みを進める。坂を下り、高架橋をくぐり抜け、着いた先は川沿いにある公園だった。

 河川敷に植えられた幾本もの桜の木。太くしなやかに伸びた枝には青葉が生い茂り、その下のグラウンドでは少年たちがサッカーボールを追いかけている。覆いかぶさるような空とは対照的に、そこには屈託のない笑い声が溢れていた。

 愛らしい喧騒を横目に、二人はすぐ近くの屋根付き休憩所に腰を落ち着けた。

「ここへは来たことある?」

「あ、はい。何度か散歩で。……響さんは、よく来てたんですか?」

「むかーしね。もう二十年以上も前よ。少し離れたところに、バーベキュー場があるでしょ? そこに家族と毎年来てたの。ちょうど今ぐらいの時期に」

 響の言うとおり、ここを少し下った場所に、バーベキュー場が設けられている。紫が利用したことは一度もないけれど、地元に住む者として認識はしていた。一年を通して利用可能とのことらしいが、やはり今の時期が一番賑わうのだろう。

 そして、そこからさらに下ったところでは、毎年八月十六日に花火大会が開催されている。今年も例にもれず、その日に花火が打ち上がるはずだ。

 この場所に座ってからずっと、響は対岸に目を向けていた。ビルの群れや街並みを深緑の瞳に映し、『あの辺りに祖父母の家があるの』と、白く長い腕を愛おしそうに伸ばす。対岸のほうが、なんだか雲が厚く、より低く感じられた。

 湿気と冷気をはらんだ空気。かすかに聞こえる雷の音。

 雨の匂いが、近づいてくる。

「……やっぱり、京都に帰るのは、抵抗ある?」

「……」

 ——紫は知っている。幾度となく覚えた、あの感情の名を。何度も何度も押し潰されそうになった、あの感情の名を。

「……怖い?」

「……っ」

 今、紫の胸の内を侵食している負の感情。

 それは、〝恐怖〟だ。

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