八月十日-②
この日は格別暑かった。
いつもより空が高い。かっとした太陽が、痛いくらいに光の束を落としてくる。朝食後に見た情報番組で、本日の予想最高気温は三十二度だと言っていたけれど、実際は三十五度くらいまで上昇するのではないだろうか。
「猛暑日……」
駅までの道中。容赦ない暑気に、紫は思わずそうひとりごちた。
悩み抜いたすえの服装は、藍色のチュニックワンピースにレギンスといった、実にシンプルなもの。袖の長さは七分で、ほんのりシースルーである。だが、シースルーとはいえ、袖のあるものを選んだ自分のことを、少しばかり褒めてやりたい。今日のような日は、わずかでも肌を隠すが吉だ。
一歩踏み出すごとに滲む汗。急ぐ足が絡み合わぬよう注意しながら、歩みを進める。電車が到着するまで、あと一分。このペースでいけば、駅までの所要時間はおよそ三分だ。
自宅の門を出ようとした際、檀家の親族だという団体に行き合った。墓域はどこかと尋ねられ、一瞬家族に任せようかとの考えもよぎったが、結局自分で案内した。そのほうが早いと思ったし、効率的だと思ったからだ。結果、家を出るのが遅くなり、今こうして焦っているというわけなのだが。
駅が近づくにつれ、おのずと歩くスピードが速くなる。それに比例するように、息も上がってきた。
「あっ……!」
と目を見開いたけれど、時すでに遅し。たった今彼が降車したであろう電車が、駅を発車するのが見えた。あと数十メートルというこの距離が、無性にもどかしい。
紫の足は、いつのまにかアスファルトを蹴っていた。滲んだ汗が流れることもかえりみず、ただひたすらに駅との距離を縮める。
五十メートル、四十メートル、
「はあっ……はあっ……」
三十、二十、十、
「はあっ……」
そして、
「……っ、響さ……」
駅前に立つ、響のもとへと駆け寄った。
「あ、紫ちゃ……ん? え、ちょっ……もしかして走ってきたの!?」
「……っ、お、お待たせしま……っ」
「待ってない待ってない! 一ミリ秒たりとも待ってないわよ!」
肩で息をする紫に、響はすかさずフォローを入れた。とりあえず紫の体を冷やすため、いったん駅の構内へと戻ることに。
昼前特有の賑わいを見せる構内。その片隅に設置されたベンチで、紫を休ませる。
ライトグレーの透かしニット。ブラックのデニムパンツ。これらをシックに着こなした彼は、やはりここでも注目の的だった。が、そんなことなどはいっさいお構いなしである。
「もう。そんなに慌てなくてもいいからね。十分だって二十分だって待つんだから」
「ご、ごめんなさい……」
「何か飲む?」
「あ……大丈夫です。お店に、着いてからで」
眉を顰め、手を腰に当てた響に対し、紫はかぶりを振った。喉が渇いているという自覚はなかったので、けっして遠慮したというわけではない。
自分のとった行動が彼に気を遣わせてしまった。
なんて情けない。
「あ。ねえ、紫ちゃん。馨、昨日ちゃんと帰ってきた?」
……などと落ち込んでいると、唐突にこんな質問を投げかけられた。いつもと変わらぬ柔和な表情で。
肯定することが正解、なのだろう。だが、彼の意図するところがわからず、きょとんとしていると、彼はこう言葉を続けた。
「いえね。アタシたち以上に父のほうが盛り上がっちゃって、馨にグイグイお酒勧めたのよ。ほら、馨ってお酒強いでしょ? だから、結構な量飲んだんだけど、お店出る頃にすっごい眠そうな顔してて……」
響の話によれば、昨夜、馨は普段に比べてかなり多く飲酒したとのこと。よって、タクシーで日野家まで付き添う心積もりだったのだが、父親の出来上がり具合が半端ではなかったために断念。一人で帰すこととなってしまった馨のことが、ずっと気にかかっていたらしい。
「受け答えも普通にできてたし、家に着いたって連絡もあったから、まあ大丈夫だろうとは思ってたんだけど」
大丈夫だった? と改めて首を傾げた響に、紫は迷わず肯定した。
「はい。今朝は眠そうにしてましたけど、今はもう普段通りです。ここに来る前も、話してきましたし」
家を出る間際。馨は、父と同様に『楽しんでこいよ』と紫の背中を押した。くわえて、『今日も存分に奢ってもらえ』などと宣ったが、そちらに関しては丁重に聞き流してきた。
「あー、良かった。それを聞いて安心したわ」
紫から親友の様子を確認できたことで、響の懸念は払拭されたようだった。父には今朝、懇々と言って聞かせてあるから——そう微笑んだ響に、ほんの一瞬だけ寒気を覚えたことは内緒である。
「あ、あの……もう、落ち着きました。すみませんでした」
「ほんと? 無理しちゃだめよ?」
「はい、もう平気です」
「そう? それじゃあ、行きましょうか」
「へ? ……うわあっ!」
頷くやいなや、瞬く間に移ろい、上昇した目線。揺らいだ紫の眼前には、響の胸元が迫っていた。
突然彼に手を握られて素っ頓狂な声を発し、そのまま引っ張り上げられて一驚を喫した。動揺しているせいか、心臓が早鐘を打っている。ふっと鼻翼に触れた甘い煙草の香りに、息が詰まってしまいそうだ。
そんな紫の心情など知る由もない響は、出口に向かって真っ直ぐ足を運ぶ。いまだ紫の手を握ったまま、太陽の下へと繰り出した。
眩しい——彼の肩越しに見上げた夏空に、紫は目を細めた。
カフェに到着すると、この日も響は窓際の席を選択した。注文したのは、生ハムのジェノベーゼパスタ。こちらも紫のお気に入りだ。もちもちとした触感の生パスタと、この店オリジナルのジェノベーゼソースが、とても味わい深い一品である。
料理を待つ間。響は、ときおり視線を通りに移しては、懐かしそうに眺めていた。並んだ建物も、歩く人々も、走る車も……何もかもが、彼の心を揺り動かしているのだろう。
しかしながら、紫には、先日から一つ気になっていることがあった。今さらと躊躇いつつも、思いきって尋ねてみることに。
「響さんは、煙草、吸われるんですよね?」
「え? ええ……あっ、ごめんなさい。煙草の匂い、嫌だった?」
「いえっ、そういうわけじゃなくて……! ここ、禁煙席だから、よかったのかなって」
そう。二人が座っているこの場所は禁煙スペース。ゆえに、もし響が喫煙したくなったとしても、ここでは不可能だ。そのことを、紫は気にしていたのだが。
「あ、平気平気。そんなヘビースモーカーじゃないから。それに紫ちゃん、まだ十代でしょ?」
響は笑って手を振るうと、逆に紫のことへと話題を転換した。紫は、この四月に十九になったばかり。飲酒も喫煙も法律で禁じられている、まごうことなき未成年だ。
紫がこくりと頷くと、
「だったら、なおさら吸えないわ」
かすかに口元を緩めて、彼はそう言った。
見れば見るほど日本人離れした彼の容姿に、紫は、昔
純度の高い水晶で象られたその花は、季節ごとに色を変えていた。春は緑、夏は青、秋は赤、冬は白といったふうに。単純に照らすライトの色を変えていただけなのだが、その幻想的な雰囲気に、幼い紫は魅了されてしまった。
——紫は、この花、何色に見える?
——あお。
——ほんとに?
——……? お父さんは、あおに見えへんの?
——お父さんも、青に見えるかな。
——……じゃあ、あおが正解やん。
——そうだね。でも、紫に見えてる『あお』と、お父さんに見えてる『青』が、まったく同じとはかぎらないんだよ。
——……お父さんのゆうてること、むずかしくてわかれへん。
——あははっ、ごめんごめん。……物事はね、見る人や見る角度によって、同じことでもちょっと違って見えたりするんだ。だけどそれは、どっちが正しいとか、どっちが間違ってるとか、そう簡単に判断できることじゃない。
——……。
——紫には、もっともっと視野を広げてほしい。たくさんの人と話をして、たくさんのものに触れてほしい。そうすれば、紫の世界は、きっと豊かなものになる。……今はまだ理解できなくてもかまわないから、お父さんの言ったこと、頭の片隅に置いといてくれると嬉しいな。
今でも鮮明に覚えている、父との会話。
自分なりに何度か思考を巡らせてはみたものの、父の真意を百パーセント理解できたという自信はない。それに、いくら頭を悩ませたところで、答えを知ることなどできはしないのだ。
あの玻璃の花をもう一度見たいと願っても、父ともう一度話したいと願っても……どちらも、二度と叶うことはないのだから。
「紫ちゃん……?」
「……え? あ、はいっ!」
思いがけず響から名前を呼ばれ、紫は慌てて返事をした。どうやら少々長い間、過去に沈み、耽っていたらしい。
「アタシの顔ずっと見てくれるのは嬉しいんだけど……もしかして何か付いてる?」
「!? ち、違います……!!」
……どうやら少々長い間、響の顔に視線を送り続けていたらしい。たしかに、紫が少し目線を横にずらしたたけで、響のそれとぶつかった。
考えていたことを正直に話すことはできない。そんなことをすれば響に余計な気を遣わせることになるし、そもそもどう話せばいいのかわからない。なにより、響をガン見してしまっていたというその事実に、紫はかなりテンパっていた。今にも火を噴きそうなくらいに顔が熱い。
余裕のない紫が、咄嗟に口にした弁解。それは、
「響さん、とっても白いな、って……」
言った直後に激しく後悔するほど、なんとも間抜けで、なんとも苦しいものだった。
そう心に浮かべていたこと自体、嘘ではない。嘘ではないけれど、ここからいったいどう話を広げればいいのか……穴があったら入りたい。
「白……ああ、肌の色がってこと?」
ところが、響の反応は意外にも普通だった。とくに声のトーンを変えることもなく、紫の言葉を拾ってくれたのである。
話が繋がると踏んだ紫。救われたとばかりに、ぶんぶんと音が鳴りそうなほど勢いよく首を縦に振った。
「紫ちゃんだって白いじゃない」
「わたしは、日焼け止めとか、ファンデーションとか塗ってるから。……響さんは、お化粧されてるんですか?」
「ぜんっぜん。日焼け止めくらいは塗ったほうがいいんでしょうけどね。アタシ男だから、そういうとこ、ほんっとズボラで」
カラリと笑い、さらりと答えた響に、抱いてしまった強い違和感。その原因となるワードはわかっている。それに対する異論もない。が、なんの躊躇いもなく彼が発したことで、彼の口調とのギャップを感じずにはいられなかった。けれど、彼が自らこう告げたことにより、紫の心に何かがすとんと落ちた。
だからあの日——響と初めて出会ったあの日、馨に響のことを〝女性〟だと伝えても、いっさい伝わらなかったのだ。
しだいに騒がしくなる店内。時刻は正午を少し回っていた。一日のうちで、もっとも人口密度が高まる時間帯である。
ウエイトレスの明るい声とともに、ようやく二人のもとへ料理が到着した。グリーンサラダとオニオンスープ。それから、メインである生ハムのジェノベーゼパスタだ。
鮮烈な赤と緑が、響の目に飛び込んだ。ただでさえ宝石のような双眸が、さらにその煌めきを増す。
いただきますと手を合わせ、フォークで丁寧に絡み取ってパクッと一口。
「~~っ! I really like it!」
紫が訊くまでもなく、響はパスタの好味を余すところなく表現した。彼の本気度は、彼の流暢な英語がはっきりと示している。
「It's flavorful! 紫ちゃんの言ったとおり、とっても味わい深いわね!」
「よかった。このソース、わたし大好きなんです」
美味しいを二か国語で連呼し、パスタを心行くまで味わいつくした後。響は、デザートのアイスまでしっかりと堪能した。
「どれを食べても美味しいし、食器も綺麗だし可愛いし……いいお店に連れてきてくれてありがとう」
紅茶を飲みながら、満面の笑みを湛えて謝意を述べた響に、つられて紫も破顔した。
しかし、ここでも気になることが一つ。
「……響さん、この前も食器のこと言ってましたよね? 食器に興味があるんですか?」
小首を傾げて疑問符を浮かべる。先日も、駅までの道すがら、響がこの店の食器を褒めていたことを思い出したのだ。
「あー……っと、そうね。職業柄どうしても目がいっちゃうのよ。デザインとか、機能性とか」
「そうなんですか。ヨーロッパの食器は、すごく素敵ですよね。わたしも、デパートとか行くと、つい見ちゃいます。陶磁器とか、銀食器とか」
「あら。銀食器好きなの?」
「はい。自分ではとても買えませんけど……なんていうか、憧れます」
食器だけではなく、西洋の文化には昔から関心を寄せていた。シックなもの。エレガントなもの。ファンタスティックなもの。もちろん、日本の文化も大好きだ。西洋のそれに勝るとも劣らない、歴史や素晴らしさを誇っていることも了知している。それでも、年を重ねるごとに、憧憬の念は募るばかり。
「いつか、直接本場で感じてみたいって、思うんですけど……」
海の向こう側を見てみたい。これは、紫が幼い頃よりずっと抱いている想いだった。
「そうなんだ。……あっ、じゃあ留学に関心はないの?」
「!」
ここまで話したところで、紫ははっとした。顔からさあっと血の気が引いていく。
どうして口に出したんだ——そう、自分を責め立てた。
「紫ちゃんの通ってる大学だったら、きっと海外に提携校がたくさん——」
「あ、あのっ……」
焦るあまり、思わず響の言葉を遮ってしまった。驚き、目を見開く彼に、猛然と自身の要望をぶつける。
「今の話、わたしの家族には、絶対に言わないでください!」
険しい表情で、必死に懇願する。
「お願いします!」
それはまるで、
「お願いしますっ……!」
哀哭のように——。
「……あれ? もしかして、
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