八月十日-①
淡さ残る陽光が滲む朝。
日野家の一日は、いつも彰の読経から始まる。
「
張りのある、貫くほどに真っ直ぐな声が、本堂から聞こえてくる。いっさいの迷いを断ち切ってくれそうなほどに、たゆみない声。
聞き慣れているはずの彰のそれに意識を遣りながら、紫と都は朝食の用意をしていた。
彰以外が朝の台所に立つのは久々のこと。今朝のメニューは、トマトとアボカドのホットサンド(クリームチーズ入り)だ。
「紫。ホットサンドメーカー、予熱しておいてくれる?」
「はーい」
テキパキと支度をこなしてゆく母と娘。何がどこにあるのか、次に何が必要なのか、すべてを把握している二人の動きには、そつがなかった。息もピッタリだ。
それはまるで、本当の親子のように。
八月十日、土曜日。
都にとっては、待ちに待った週末。教師という仕事は好きだし、誇りを持って臨んではいるけれど、やはり休日は純粋に嬉しいものである。
「ねえ、伯母さん。馨兄まだ起きてないみたいだけど……せっかくのお休みだし、起こすのはかわいそうだよね」
そして、馨もまた、母と同様に休日を待ち望んでいる一人であった。平日ならば、もうとっくに起床している時間。なのに、今日はまだ部屋から出てきていない。
それには、休日であるという以外に、もう一つ理由があった。
「昨日帰ってくるの遅かったしね。久しぶりに、響くんたちと飲んで羽目外したんでしょ。……我が子ながら、あまり想像できないけど」
実は馨。昨夜は、響と響の父親と夕食をともにしていたのだ。
響の帰国以来、馨が響と食事をするのは初めてのこと。響の父親とも、実に十年ぶりの再会であった。
ゆえに会話が弾んだのか、帰宅したのは日付が変わったあと。深夜一時頃だった。
「響くん、元気そうで安心したわ。イギリスへ帰る前に、またうちにも遊びに来てくれないかしら」
調理する手を止めることなく、都が言った。サンドしたものをメーカーに挟めば、パンの焼ける香ばしい香りが、ふわりと鼻孔をくすぐった。
穏やかな色の顔と声。そこには、息子の親友に対する
「響さんって、日本にいる頃は、よくここにも遊びに来てたんだよね?」
「ええ。しょっちゅう行き来してたわよ。あの子たち、すごく仲が良かったから」
自宅に姿が見えないと思えば、響の祖父母宅に赴いていたという馨。逆もまた然り。
二人の関係は、まるで幼い頃から続く幼馴染のようであったと、都は当時を振り返った。
「響くんとこは父子家庭だったんだけど、お父さんが外交官でね。ほとんど日本にいなかったから、おじいさんとおばあさんと三人で暮らしてて……馨もほんとによくしてもらったわ」
母の口から語られる響の家庭事情に、紫は黙って耳を傾けた。なんとなく、視線を下方へと落とす。
学生時代、彼が祖父母と一緒に暮らしていたことは、兄や本人から直接聞いていたため、既知の事実だ。だが、彼の父親の職業に関しては、このとき初めて知った。
それから、父子家庭であるということも。
「今は、響さんのお父さん、日本にいるんだ」
「そうみたいね。……たしか、今年度で退職するって言ってたかしら? 大変なお仕事でしょうから、退職後はゆっくりできるといいわよね」
焼き上がったホットサンドが一つ、プレートに取り出された。香ばしい香りもさることながら、絶妙なきつね色の焦げ目に、ますます食欲がそそられる。
紫は、母からそれを受け取ると、半分にカットして食卓へと並べた。切り口からは、溶けたクリームチーズがとろりと垂れている。
「……」
父子家庭——この言葉が紫の脳内を周回しはじめたとたん、ある疑問がおのずと浮かび上がった。
彼の、お母さんは——?
そういえば、と思い返す。そういえば、響と接するようになってから、彼の母親の存在を感じたことがない。勤め先が、母方の祖父の会社であるということは聞いたけれど、母親本人に繋がる話は耳にしたことがなかったのだ。
たかだか知り合って一週間と少し。深く付き合うには、まだまだ浅い時間だろう。話題にのぼらなくて当然といえば当然、かもしれない。それでも、なぜだか無性に気になった。
胸が、ざわついた。
「あら、起きたの?」
都のこの声で、はっと我に返った紫。目線を上げ、母と同じ方向に顔を動かすと、そこに立っていたのは兄だった。
「……はよう」
「おはよ。……起きてる?」
掠れた声に、半開の瞼。はなはだ眠そうな息子に向かい、母が訝しげに問いかける。
これに対し、一度だけ大きくこっくんと頷くと、馨は吸い寄せられるように食卓へと着いた。肘をつき、両手で顔を覆う。どうにも調子が出ないらしい。
そんな馨に、今度は紫が問いかけた。
「馨兄、ホットサンド食べる?」
「んー……あー、あとで自分で焼いて食べるから、おいといてくれると嬉しい……」
「わかった。お茶、淹れとくね」
「悪いな……」
二日酔い……ではない。馨の酒の強さは折り紙付きだ。よって、ただ単純に眠たいだけなのだろうが、その原因がはしゃぎ疲れだというのなら、母の言うとおり想像することは難しい。
ほとんど目をつむったまま、馨はずずっと短くお茶をすすった。
「あっ、美味しそうな匂い」
そこへ、朝の勤行を終えた彰がやってきた。
両親と二人の子ども。
家族四人で囲む、日溜まりのような食卓。
いつもと変わらない、朝の風景だ。
「今日のお昼、紫は響くんと一緒に食べるんだよね?」
「あ、うん」
「いつものカフェ?」
「うん」
彰から予定を確認され、紫は首肯した。
三日前に響と交わしたパスタランチの約束。あれからスマホで数回のやり取りを重ね、決まった日取りが本日だった。
「そっか。楽しんでおいで」
にこりと微笑んだ父に、もう一度紫は首肯した。その際、自分も父と同じような表情をしていることに気づく。
母との会話から、響に対して抱いてしまった複雑な心境。だが、彼との約束が楽しみであるということに違いはないし、彼と過ごす時間が楽しみであるということにも違いはない。
問題は、どんな服を着ていくか。昨夜から、もっぱらこの事項に気を遣っている。
「馨は? 今日はずっと家にいるの?」
次に彰が確認したのは、馨の予定。
ここへきてようやく頭が働き始めたのか、しだいに馨の調子が戻ってきた。いまだホットサンドメーカーに手をかける様子はないが、目を開けてちゃんと座れている。
「そのつもり。……けど、明日の夜は、出かける予定が入ってる」
「響くんと?」
「いや。ゼミ生と」
「響くんじゃないんだ」
「響じゃない。……なんでそんなちょっと残念そうなの」
父が地味にしょぼくれた真意は測りかねるが、自身が開講しているゼミの生徒二人と夕飯を食べに行くのだと、馨は説明した。ゆえに、明日の夕飯は必要ないからと。……なぜそうなるに至ったのかという経緯は、まるっと割愛することにした。
窓の外から押し寄せる、滾るほどに鳴きしきる蝉の声。それとは対照的に、今朝も、家族の時間は和やかに過ぎていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます