八月七日-②
カフェに到着すると、二人は窓際の席に着いた。せっかくだから通りが一望できる場所に座りたい、との響の要望だった。
響にしてみれば、単に懐かしい風景に思いを馳せたいだけ。だが、案の定こちらでも痛いくらいに視線を注がれた。店内ではなく、屋外から。
さすがに、立ち止まってガン見する人まではいなかったけれど。
「どれにしますか?」
「んー……」
メニューを広げ、ケーキばかりが並んでいる華やかなページをじっと見つめる。甘いものに目がない響は、ページを開いてからずっと、眉を顰めて呻吟していた。
ショートケーキにシフォンケーキ、チョコレートケーキにチーズケーキ。それからタルト。各々に四から五種類ずつバリエーションが存在するため、二十種類以上のケーキがまばゆいほどの煌めきを放っている。
「あー、だめだわ! この中から一つなんて決めらんない……!」
大量のケーキ。その眩しさに響は負けてしまった。両手で顔を覆い、盛大に嘆く。
そんな響の姿に、紫は思わず破顔した。
「わかります。どれもすっごく美味しそうですもんね」
兄と同い年の彼に、失礼と承知で可愛らしさすら覚えてしまう。思ったことを思ったままに表現できるだなんて、本当に魅力的な人だ。
「紫ちゃんのおすすめは?」
「えっ……わたしの、ですか?」
なんて思い浮かべていると、不意に自分の意見を求められた。『えーと』と、メニューの上で指を泳がせる。
いつもだいたい同じものを注文するため、改めてメニューに目を通す機会がない。ゆえに、〝あれ〟がどこにあるのか、すぐには見つけられなかった。
「……あ、これです。アップルチーズケーキ」
地味に奮闘し、やっと見つけたお気に入りのケーキ。この店ができた三年ほど前から、紫が愛してやまない一品である。
表面には黄金色の焼き色。ずっしりとした濃厚なチーズの中には、ちょっぴり酸味の効いた林檎が隙間なく詰まっている。
紅茶と一緒に頂けば、その美味しさは五割増しだ。
「美味しそう! じゃあ、これを頂くわ」
ぱっと華やいだ響の表情に、紫は安堵の色を浮かべた。同じものを二人分注文し、ほっと一息吐く。
暑さに喘ぐ体を潤そうと、グラスに注がれた水を一口。すると、同じく響もグラスに口をつけていた。
細くて長い指。形の良い唇。しなやかな、それでいて、精悍な喉元。
そこだけを切り取ってみても、十分絵になるほどの美しさだ。
「紫ちゃんは、いつまで夏休みなの?」
「え? あ、と……来月の二十二日までです」
なんて見惚れていると、不意に響から質問を投げかけられた。彼からの不意打ちは、ここへ来て二度目である。
「いいわねー、大学生。ある意味一番楽しい時期よね。……お友達は? 実家帰っちゃった?」
「そうなんです。仲のいい子、みんな出身がばらばらで……車の免許取ったりするからって、夏休みはほとんどこっちにいなくて」
「同じ学科の子たち?」
「あ、はい」
「そっかー。……にしても、そこの大学の英文に進学できるなんてすごいわね。すっごくレベル高いのに」
「そ、そんなことないです……!」
会話は、終始響のペースだった。口数少なく、引っ込み思案な紫の言葉を、引き出し、
紫が会話の冒頭で発する『あ』とか『え』は、いわば口癖のようなもの。自発的に話すことが苦手な彼女は、考えてから口に出すまで、どうしても時間がかかってしまう。その
それでも、響の喋るテンポや声のトーン、なにより纏った雰囲気が、紫の積極的な発話を誘発していることは間違いなかった。
それが顕著となったのは、この話題だ。
「将来の夢とか、聞いてもいいかしら?」
グラスをコースターへと戻しながら響が問いかける。置いた瞬間、中の氷が澄んだ音色を奏でた。
けっして無理強いをしているわけではない。そのことは、言葉尻にしっかりと付け加えた。話したくなければ、未定ならば、話さなくてもいい——そう、伝えたのだ。
「……まだ、はっきりと決めてるわけじゃないんですけど」
にもかかわらず、紫は言葉を紡ぎ始めた。前置きし、言葉を探りながら、ゆっくりと語り出す。
「翻訳家や、通訳者になりたいなって、ずっと思ってて」
それは、遠い日の記憶。
「あら、素敵な夢じゃない。きっかけは?」
紫にとって、かけがえのない、出来事だった。
「うち……あっ、〝うち〟って、生まれた家のことなんですけど。両親が旅館をしてて、外国人のお客さんも結構宿泊されてたんです。……小学生の頃、困ってたお客さんに、思いきって英語で話しかけたら、ちゃんと通じて。それが、すごく嬉しくて……」
硝子ケースから取り出した思い出を、愛おしそうになぞる。今から八年ほど前。紫が小学五年生のときのことだった。
土産物売り場で、一組の外国人老夫婦を見かけた。なにやら思い悩んでいる様子の二人の手には、丹後ちりめんで作られた〝つるし雛〟。桃の節句、すなわち、女の子用だった。
ころころとした丸い形と、その愛らしさに惹かれたものの、用途がよくわからず困っていたらしい。
紫が声をかけ、『それは生まれてきた女の子の幸せを願って飾るものなんですよ』と、たどたどしく伝えると、その老夫婦は購入することを即決した。
——娘に女の子が生まれたんだ。その子へのプレゼントにするよ。
そう、謝意とともに微笑んで。
「もともと洋画や洋楽が好きで、よく見たり聞いたりしてたんです。それがきっかけで、英語に興味を持つようになって……」
英語で表現された作品に触れると、なんだかドキドキした。独特の世界観やその迫力にワクワクした。いつかもっと近づきたい——そんなふうに願うようになった。
娘のために、両親は、英語が学習できる環境を整えてやった。必要なものは可能なかぎり揃えてやったし、声をかけ、寄り添い励ました。
娘と老夫婦のエピソード。それは、両親にとっても、かけがえのない宝物となったのだ。
「人と話すのあまり得意じゃないから、だから、自分には合わないかもしれないって……そう、思ったりもするんですけど……」
「……叶えたいのね。どうしても」
「……はい。……あっ、ご、ごめんなさい! わたし、自分の話ばっかり……っ!」
「ううん、謝る必要なんかないわ。もとはといえば、アタシが訊いたんだもの。……ありがとね。教えてくれて」
刹那。紫の胸が、どきりと高鳴った。思わず目線を下へと逸らす。
ふわりと笑みを湛えた響に、ほんの少しの戸惑いと、なぜか恥ずかしさを覚えてしまったのだ。なんとなく、胸がくすぐったい。
驚いた。いくら兄の親友とはいえ、初対面に近い相手に、こんなにも自分のことを打ち明けられるだなんて。
こんなにも、清々しさを感じられるだなんて——。
ケーキセットが到着してからも、二人は他愛のない話に花を咲かせた。基本的に話題を提供するのは響だが、紫も身構えることなく、自然体で彼に応じた。
ケーキを頬張った彼が、本日最大級に瞳を輝かせたことは、言わずもがなだろう。
楽しい時間は、あっという間。
時計の針は、間もなく午後五時を指そうとしていた。
「すみません、ご馳走になってしまって……!」
「いいのいいの。気にしないでちょうだい。紫ちゃんと話ができて、すっごく楽しかったもの」
退店する際、当然のごとく、響は紫の分まで支払いを済ませた。自分の分は自分で支払うと言った紫の言葉をさらりとかわし、カードでぱぱっとスマートに。
何から何まで、彼は〝紳士〟だった。
午後五時といえど、まだまだ厳しい夏の日差し。この日は、夕立に見舞われなかった。熱せられたコンクリートの上。もと来た道を、並んで歩く。
響を見送るために、再び駅へ。日野家まで送っていくといった彼の申し出は、さすがに断った。
「今日食べたケーキ、ほんとに美味しかったわ。紅茶ともよく合ってたし、食器も可愛かったし……素敵なカフェね」
「よかったです。あそこのカフェ、ランチも人気なんですよ」
「あら、そうなの?」
「はい。パスタの種類が豊富で、すごく美味しいんです」
ここまで言うと、またまた響の双眸が鋭い輝きを放った。聞けば、パスタやピザは、毎日でも食べられるくらいに大好物とのこと。
次は、同じ店でパスタランチを食べよう——そう約束し、この日は別れることにした。
「響さんは、いつ向こうに帰られるんですか?」
「うーん……詳しい日程はまだ決めてないのよね。こっちには身内の法要で戻ってきてるんだけど、あっちで仕事もあるから、あまり長くは滞在できなくて」
「お仕事あると、なかなかゆっくりはできませんよね」
「まあ、母方の祖父の会社だから、言えば少しは融通利かせてくれるんだけどね……そういうわけにもいかないから」
駅の構内。電車を待っているわずかな間も、二人は会話を続けた。この数時間のうちに、少しずつではあるが、紫のほうからも話を広げられるようになっていた。
「今日はいろいろとありがとうございました。お気をつけて」
「こちらこそ、ほんとにありがとう。またね」
改札口を通過し、ホームへと向かう響。そんな彼を、紫は静かに見送った。途中、一度だけ向き直り、手を振った彼に、同じく手を振り返す。
紫が自宅に着くやいなや、スマホに届いた一通のメッセージ。
そこに綴られた感謝の嵐に、紫は顔を綻ばせた。
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