八月七日-①
毎年楽しみにしていた。
青空に湧き上がる入道雲。撫でるように通り過ぎてゆく夕立。これらをくぐり抜けると、風の凪いだ宵闇が静かに立ち込める。
ほぼ毎日繰り返されるサイクル。けれど、その日は特別だった。
日めくりカレンダーに大きく記された〝16〟という数字。夜になるのが待ち遠しかった。
時刻がやってくると、一筋の光がひゅるるる……という細く高い音とともに、勢いよく駆けあがってゆく。胸を躍らせ、従兄と並んでその瞬間を待った。
そして——
——紫! お父さんとお母さんが……っ!
爆発音に掻き消された、叫びにも似た伯母の声。視界の隅では、鮮やかに咲いた大輪の雫が、濃紺の空へと散っていった。
それからしばらくの記憶は、ない。
十四歳の夏だった。
◆ ◆ ◆
待ち合わせ場所に指定したのは、最寄りの駅の構内だった。平日の午後三時だが、夏休みということもあり、私服姿の学生が多く見受けられる。
行き交う人々の中、スマホ片手に佇む紫。どことなく落ち着かない様子で、時刻を再三確認している。
ゆったりとしたシフォンワンピースに、清楚なプラットフォームサンダル。どちらも夏らしくネイビーブルーで統一し、普段よりも少し大人っぽさを意識してみた。並んで歩くのが彼なのだ。否が応でも緊張してしまうし、服装だって気にしてしまう。
八月七日、水曜日。ついにこの日がやってきた。
一昨日の夜、馨に告げられてからずっと、紫の頭は今日のことでいっぱいだった。案内するといっても、どこをどんなふうに案内すればいいのか。ネットでいろいろ調べてはみたものの、とくにこれといって適当な場所が見つからなかった。
その理由はきっと、まだ彼のことをよく知らないから。
手元のスマホで、また時刻を確認する。ここへ来てから、もう何度目だろうか。ともあれ、そろそろ彼の乗った電車が到着するはずである。
こんなに緊張するの、いったいいつぶりだろう……。
心の中でぽつりとそう漏らすと、とたんにホームが騒がしくなった。アナウンスが響き渡り、ホームに車両が停車する。
ほどなくして押し寄せてきた、小さな人波。小さいとはいえ、活気を帯びた雑踏の音や、一瞬でも構内に新たな人の流れを作ってしまうほどには、影響を及ぼす規模だった。
紫は、緊張しながらも彼の姿を探した。それほど必死にならずとも、すぐに見つけられるだろうと踏んでいた。身長の低い自分のことを見つけるのは難しいかもしれないが、身長の高い彼のことを見つけるのは容易だろうと。
しかし。
「ゆかーりちゃん」
「!」
先に見つけて声をかけてくれたのは、彼のほうだった。
「こんにちは」
「あっ、こ、こんにちは……!」
突として現れ、挨拶をした彼——響に対し、慌ててお辞儀する。できているようで、まったくできていなかった心の準備。一気に汗が吹き出した。
薄手の白いTシャツに、シルエットが美しいブルーのデニムパンツ。空いた胸元には、涼しげな
身に着けているものは、すべて男物。だが、今日も今日とて、女性顔負けの色気を漂わせている。
「ごめんなさいね。わざわざ時間取ってもらっちゃって」
「い、いえっ……! 大丈夫、です」
響は謝意を示したが、今日のこのシチュエーションを設定したのは馨だ。よって、響がそう感じる必要など微塵もない。
けれども、自身のほうが年嵩、かつ、案内してもらうという点で受け身であるがゆえ、年下の紫を気遣ったのだろう。
申し訳なさそうに眉を下げ、さらに彼はこう続けた。
「アタシ、紫ちゃんに甘えるつもりで、今日ほんとにノープランで来ちゃったんだけど……よかったのかしら?」
「あ、はい。馨兄から、久我さん甘いものがお好きだって聞いたので、わたしがよく行くカフェでケーキなんてどうかなって……」
「……! Brilliant! ほんとに? 嬉しいわーっ!」
用意していたプランを提案した瞬間、響は満面に喜色を湛えた。テンションが急上昇したせいだろうか。第一声は英語だった。
彼の流暢な発音に、当たり前だと理解しながらも深く感銘を受けた紫。同時に、彼がイギリス人であるということを、改めて認識させられた。
ともあれ、最上級の同意を得られたことに安心し、カフェまで歩いていくことに。
……なんとなく予想はしていた。けれど、よもやここまでとは。
視線が痛い。すこぶる痛い。
街行く人々の関心が、自身の隣に集中している。そのことを感取した紫は、なんだかいたたまれない気持ちになった。だとしても、このまま歩くしかないのだけれど。
「この辺りも変わっちゃったわねー」
当の本人は、全然気にも留めない様子で、しきりに街並みを見渡していた。建物、道路、看板、公園——次から次へと視点を変え、はしゃぐ姿は、どう見ても観光客である。
だが、ダークグリーンの瞳に映じた色は、どこか郷愁を思わせるようなそれだった。
「久我さんは、
「響でいいわよ。ファミリーネームは、あまり呼ばれ慣れてないの」
「えっ! あっ、じゃあ……響、さん」
名前を呼ばれたことに微笑み返し、響は話を続けた。
「お互いにね。よく行き来してたわ。部活帰りにどっちかの家寄って夕飯食べたりとか、週末泊まったりとか」
父親が仕事で家……もとい、国内にいることが少なかったため、学生時代のほとんどを父方の祖父母とともに暮らしていた。祖父母の家から日野家までは、私鉄で三駅。気軽に通い合える距離だった。
「同じ部活だったんですか? 馨兄と」
「ううん。馨は剣道部だったでしょ? アタシはフェンシング部だったから、部活は別。でも、帰りの時間は似てたから、よく一緒に帰ってたの。だから、しょっちゅうこの辺りで遊んでたわ」
中高の六年間を(自分たちでも呆れるほど)阿吽のように過ごした響と馨。大学進学と同時に離れることになったが、だからといって、べつに気になどしていなかった。それぞれがそれぞれの進路を選びとるのは、ごく自然なことだ。
とはいえ、まさか渡英することになるとは思ってもみなかった。
それも、あんな形で。
「変わって当然よね。十年も経つんだもの」
空気に乗せるように、響はそっと言葉を落とした。寂しさや切なさ、虚しさといった情感を、顔に滲ませる。
そんな彼の言葉に、紫は黙ったまま耳を傾けた。相槌を打つこともなく、表情に目を遣ることもなく。
そうして、ほんの少しの沈黙の後。
「……どう、表現すればいいか、わからないですよね。それまで住んでた場所を離れる気持ちって」
憂いを帯びた口調で、こう呟いた。
響がこの街を——日本を離れるようになった詳しい経緯を、紫は知らない。馨から聞いているわけでもないし、とりたてて聞くつもりもない。けれど、住み慣れた場所を離れなければならなくなってしまったその気持ちは、痛いくらいに知っている。
言葉で容易に表現することの叶わない、その気持ちは——。
「……」
「……」
「……あらやだ。アタシったら、すっかり配慮に欠けてたわね。紫ちゃん、こっち歩いて」
「……え?」
「そっち車道側だもの。危ないから、ほら。こっち来て」
「だ、大丈夫ですよ。ちゃんと縁石あるし、街路樹だって植わって……」
「だーめ。それに、こっち歩いたほうが、アタシが日除けになれるでしょ? 夏の紫外線はきついわよー。ほら早くっ」
「わっ!」
腕を掴まれ引き寄せられたかと思うと、一瞬にして入れ替わってしまった響との位置。麗しい外見とは裏腹に、やはり彼は〝彼〟だった。力もさることながら、心意気はまさしく〝
大人な彼の厚意に、救われた。
「カフェまで、あとどのくらい?」
「あ、もう少しです。あの角を曲がって、すぐのところだから」
「Hooray! あー、楽しみっ!」
入れ替わる瞬間、紫の鼻をふわりとかすめた響のストール。とても肌触りの良いそれからは、かすかに煙草の香りがした。
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