八月五日-②
トントンと、包丁がまな板を叩く。
白く立ち昇る湯気の根元には、三口ガスコンロ。左コンロには片手鍋が、右コンロには中華鍋が、それぞれかけられてあった。中華鍋のほうはすでに火が止められ、少々刺激的な
今夜の献立は、麻婆豆腐と、トマトと卵の中華スープだ。
紫は、母と兄が帰宅すると言っていた六時半に合わせ、夕食の準備を開始していた。途中買い出しに半時間ほど家を空けたが、それ以外は順調だ。
現在、午後六時二十分。
数分前に麻婆豆腐を完成させ、これからスープに取りかかる。
「ただいまー」
沸騰したスープにトマトを投入した直後、玄関から廊下を伝って声が響いた。——都だ。どうやら予想していたよりもスムーズに終業時刻を迎えられたらしい。
玄関まで届くよう、気持ち大きめの声で『おかえりなさい』を伝えると、ほどなくしてパタパタという足音が台所へと近づいてきた。
「いい匂いね。……麻婆豆腐?」
「そうだよ。あと、トマトと卵の中華スープ」
「あら、すごく美味しそう」
廊下からひょこっと顔を出した都。クールな表情はそのままだが、声音は弾んでいる。
それもそのはず。この二つは、都の好物なのだ。
「夕飯支度してくれてありがとね。着替え済ませたら手伝うから、ちょっと待っててちょうだい」
「えっ? もうちょっとででき上がるから、伯母さんはゆっくりしてていいよ」
慌てて紫が口にするも、都は何も言わずにこの場を離れてしまった。頬が緩んでいたので、あえて聞こえないふりをしたのだろう。
あの調子だと、きっとすぐに戻ってくる。そう思いなした紫は、なるべく母の手を煩わせないようにと、自身の手元を意識した。
あとは、再度沸騰した際に、溶き卵を流し込むだけだ。
「……あ」
と、鍋に視線を落とした矢先、あることに気がついた。眉を下げ、やらかしたとばかりに嘆息する。
「こういうところ、まだまだだなあ」
半透明のスープの向こう側。トマトの皮がぺろんと剥け、ふよふよと揺らいでいる。本来ならば、先に湯煎して取っておくべきものだった。
未熟な自分に嫌気がさすも、ゆっくりと箸で皮を剥がしていく。
きめ細やかなトマトの果肉。それが露わになった瞬間、紫の脳内で、とあるフレーズが再生された。
——トマトの皮はな、こうしたら綺麗に剥けんねんで。
幼い頃、優しい口調でそう教えてくれたのは、〝母〟だった。
「……」
声だけではなく、柔和な表情までもが同時に想起される。
京都の北部——丹後地方で、旅館を営んでいた実の両親。母はそこの女将として、父はオーナーとして、主に観光客をもてなしていた。
日本三景の一つと謳われる
八月の両親の繁忙期に合わせ、紫は毎年ここへ遊びに来ていた。年によって日にちも期間も異なっていたけれど、だいたい八月の中旬に一週間ほど。単身で。
平気だった。小学生の時分から恒例となっていたが、寂しい思いをしたことは一度もなかった。伯父も伯母も従兄もみんな良くしてくれたし、何より京都に帰れば両親が深い愛情を注いでくれたから。
けれども、五年前にそれは突然潰えてしまった。無残にも奪われてしまった。
何も残らなかった。
何も——
「……っ」
音にならないほどの、小さな小さな嗚咽。込み上げる哀惜が、紫の胸を蝕んでゆく。引き結んだ唇が震え、鼻の奥がつんと痛んだ。
それでも、一度だけ鼻をすすると、なんとか気持ちを落ち着けるために短く深呼吸した。
もうすぐ母がやってくる。余計な心配は、かけたくない。
紫は、心の中でそっと耳を塞ぎ、静かに目を閉じた。
家族四人で食卓を囲んだのは、それから半時間ほど経過したあとだった。
紫の手料理に、家族揃って舌鼓を打つ。デザートには、馨が大学の購買部で手に入れたレアチーズケーキが登場した。ゼミ生二人が言っていたとおり、それは舌も喉も蕩けるくらい〝やばい〟美味しさだった。
ここだけ切り取ってみれば、ごく平凡な……否、ある意味理想的な家族の団欒だ。
「あっ、そうだ。……父さん」
夕食も終盤に差しかかった頃、何かを思い出した様子の馨が、彰に話しかけた。喉に甘さが引っかかっているのだろうか。お茶を一口すすり、軽く咳ばらいをしてから改めて口を開く。
「響から連絡があって、『急な変更で申し訳ないけど、来週の法要は祖父母の家でお願いします』って」
内容は、昼間に親友からかかってきた電話の件であった。彼との会話を思い起こしながら、要点のみを父に伝える。
「そうなんだ。前に連絡もらったときは、
「そう、半年前に。それにこの暑さだし」
「そうだね。うん、わかった。……でも、どうしよう? 了解しましたって、僕から折り返し連絡したほうがいいのかな」
「いや。父さん了承してくれると思って、俺から言ってあるから大丈夫」
「そっか。ありがとう」
息子の説明で合点がいったらしく、父子の会話はすんなりと完了した。
そんな父と兄の会話に、黙って耳を傾けていた紫。二人の会話から、響が帰国したのは、身内の法要のためなのだということを理解した。
掘り下げて聞くつもりはない。聞くつもりはないが、なんだか胸の内が
初めて会ったときからわかっていた。彼も、彼にとっての、大切な誰かを亡くしているのだということは。
「紫、お茶のお代わりは?」
「え? あ、ううん。もういらない」
急須を持った母に、かぶりを振って答える。そして、『ごちそうさま』と手を合わせると、下げた食器が溜まってある流しへと爪先を向けた。
だが。
「あ、いいわよ。私がするから、今日はもう休んでらっしゃい」
「えっ、でも——」
「『でも』は禁句。 ほら、馨。この子部屋に連れてって」
「ん」
「あっ、ちょっ……馨に——」
有無を言わさず、とはまさにこのこと。母と息子の見事な連係プレーにより、紫はこの場から強制的に退去させられることとなった。
馨に腕を引かれ、部屋を出る間際。紫の視界の端に、ある光景がちらりと映った。
「都さん、手伝うよ」
「あら。ありがと、彰」
流しに並んで立つ、両親の後ろ姿。
これから、母が洗剤で汚れを落とし、父が水ですすぐのだ。手元は見えないし、作業が開始されているわけでもないけれど、紫にはわかっていた。
同い年の二人は、学生時代に京都で知り合ったらしい。当時、仏教系の大学に通っていた父が、教育大学に通っていた母に一目惚れしたのだと、いつだったか聞いたことがある。卒業後まもなく、生まれも育ちも京都だった母に、こちらまで来てもらったのだと。
大好きな父。大好きな母。大好きだからこそ、二人に心配をかけたくない。迷惑をかけたくない。
そう自分を戒めながら、紫は、今朝のことを自責していた。二人に気を遣わせてしまったことに対する罪悪感が、じわりじわりと広がっていく。
「紫」
そんな紫の内心を知ってか知らずか、おもむろに馨が呼びかけた。いつのまにか解放されていた紫の腕。二人は、内縁の廊下で立ち止まった。
「……なに?」
馨の呼びかけに疑問符を飛ばす紫。兄の二の句がまったく予想できず、きょとんと目を丸くする。
だが、馨の口から出た驚きの内容に、紫の目はさらに丸くなった。
「お前に頼みたいことがあるんだけど」
「頼みたいこと?」
「今、響が帰国してるだろ? 空いてる時間、あいつにこっちの案内してやってくれないか。俺の代わりに」
「……え? わたしが?」
「うん」
「で、でも……わたし、まだこっちに来て五年しか経ってないよ?」
「あいつは十年ぶりの里帰りだからな。今の土地勘は、たぶんお前のほうがある」
「大丈夫かな……」
「大丈夫大丈夫。っていうか、そんなに気負わなくていい。あいつも甘いもの好きだから、何か美味いものいっぱい食べさせてもらえ」
「えっ!?」
暴論ともいえる兄の言動に終始狼狽えていた紫だったが、最後は驚きを盛大に音にしてしまった。一方の馨は、親友ゆえに遠慮がないのか、清々しいほどにしれっとしている。
とりあえず、二日後の水曜日に一度会ってほしいと兄から告げられ、紫は戸惑いながらも一応承諾した。
かくして、双方とも、再度歩みを進めることに。
徐々に満月へと近づく上弦の月の下。先に自室へと辿りつくのは紫だ。
「あ、馨兄」
「ん?」
部屋の扉を開ける直前、今度は紫が馨に向って呼びかけた。
「ケーキありがとう。すごく美味しかった」
「そうか。……よかった」
馨が土産に買ってきたレアチーズケーキに対し、謝意を伝える。
それを受けた馨は、ふわりと微笑むと、部屋の中へ入っていく妹を優しく見送った。
「……」
扉で隔てられた向こう側で、この夏、妹はいったいどんな表情をするのだろうか。……また、声を押し殺し、一人で泣くのだろうか。
どんなに慰めたところで、叔父夫婦が——紫の両親が、戻ってくることはない。紫の傷を癒すことも、治すことも、自分にはできないのだ。
なんて不甲斐ない——そう自嘲し、さらに廊下を進む。
その道中、馨は、昼間の響とのやり取りを思い返していた。
——でも、ほんとにいいの? 紫ちゃん、迷惑じゃない?
——昼間一人にしておくよりは、お前と一緒のほうが気分転換にもなっていいと思う。
——あら。お兄ちゃんみたいね、馨。
——お兄ちゃんなんだよ。それと、あいつに英語のこととか、海外のこと教えてやってくれると助かる。
——そういえば、紫ちゃん英文科だって言ってたわね。イギリス英語とかイギリスのことでよければ、少しは話できると思うけど。
——悪いな、頼む。……お前のほうは、大丈夫なのか?
——え? ……ああ、母親のこと?
——ああ。
——大丈夫……ではないけどね。相変わらずよ。
——そうか。……話聞くぐらいしかできないけど、またいつでも言ってくれ。
——……ありがと。
大切な者たちが負った、心の傷。それが少しでも和らぐようにと、衷心から願っている。
一縷の望みを託すように。
馨は、静かに空を仰ぎ見た。
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