八月五日-①
お寺の夏は忙しい。
まあ、夏に限ったことではないのだが、それでもなんとなく忙しい。というより、気忙しい。
自分が家にいる時間が長いため、そう感じるだけなのかもしれないが。
本堂の清掃をしながら、紫はぼんやりとそんなことを考えていた。蝉の大合唱をBGMに、おもに仏具の手入れなどをこなしていく。
午前八時という、けっして遅くはない時間だが、もうすでに日差しは強かった。
我慢せずに冷房をつけるよう母から言いつかっていた。けれども、結局最後まで電源を入れることはなかった。この広い本堂で、自分一人だけのために空調をきかすことは、やはり憚られる。
煌びやかな金色の大きな仏壇。柱の黒がアクセントとなり、実に豪奢で壮麗だ。〝お
清掃を終え、お内仏の前にちょこんと正座すると、鈴を鳴らして瞑目合掌した。
八月五日。月曜日。
大学生である紫は夏休みだが、世間では休み明けの平日——いわゆるブルーマンデーというやつである。
母は高校へ、兄は大学へ、それぞれ出勤するために現在支度をしている。父も、午前中に檀家の葬儀があるらしく、同様に支度中だ。
「もう、みんな出る時間かな」
瞑目合掌を解き、そう独りごつと、紫はゆっくりと立ち上がった。少々急ぎ足で、本堂をあとにする。
渡り廊下を使えば、履物を履かずとも中から居宅へと移動できるのだが、あえて直接外に出た。庭を横切るほうが、玄関までの移動距離が短いのだ。
母のサンダルに足を通し、じゃりじゃりと玉石の上を歩く。案の定、軒先には、母と兄の姿があった。
「あ、紫。ありがとう」
紫の姿を捉えるやいなや、申し訳なさそうに声をかけたのは、母の
黒髪のストレートロングヘアーが特徴的な和風美人で、上品なワインレッドのアイシャドウと珊瑚色のルージュが、最近のお気に入りらしい。
眉根を下げることはあまりなく、性格のきつそうな顔立ちをしているが、人当たりは柔らかい。淡泊な口調とは裏腹に、子どもたちへの接し方は非常にソフトである。
「二人とも、今日は何時くらいに帰ってこれそう?」
母と兄の顔を交互に見ながら、本日の帰宅時間を尋ねる。それに合わせて、夕食を準備する心積もりのようだ。
「俺は六時半……くらいかな。母さんは?」
「私もそれくらいには帰れると思うわ。……けど、無理しなくていいのよ? 自分のこと優先しなさいね」
紫の顔を覗き込みながら、都は諭すようにこう言った。夏休みに入ってからというもの、ろくに休んでいない娘を気遣う。
「大丈夫。無理してないよ」
これに対し、紫は頬を緩めて応えた。
それなりに大学の課題はあるけれど、それほど焦る必要はない。バイトもしていないし、とくにサークルにも所属していないので、時間に余裕はある。
しかし、母が心配しているのは、そうした外面的な事柄などではない。
それは、紫自身、よくわかっていることだ。
「いってらっしゃい」
出勤する二人を見送る。ほんの少し、強がりを微笑に貼りつけて。
二人は、それぞれの愛車に乗り込むと、慣れた操作で敷地の外へと走り去っていった。
「……」
無理やり貼りつけた強がりは、すぐに剥がれ落ちた。胸の傷が、容赦なく疼き始める。
やっぱり、夏は苦手だ。
「あーっ!」
「!」
突として背中にぶつかった大声に、紫の肩はびくっと飛び跳ねた。
勢いよく振り返った彼女の視界にすぽんと収まったのは、
「遅かったかー……」
目が冴えるほど絢爛な正装を身に纏った、父——
左肩から背中へと垂らされた、
「どうしたの?」
豪華な格好とはまるで正反対。
俯き、しょぼくれた父に、紫は眉を顰めて問いかけた。
「都さん、お弁当忘れちゃってる……」
「え? ……あ、ほんとだ」
情けない声を発した父の手元には、椿があしらわれた和モダンな巾着袋。その中には、〝愛妻弁当〟ならぬ〝愛夫弁当〟が入っている。
日野家において、朝食と弁当を用意するのは父の役目だ。もちろん毎日というわけではないが、ほとんどの朝は、父が台所に立っている。
勤行の支度を終え、何気なく食卓を見たところ、その上に堂々とこれが鎮座していたらしい。
もともとの垂れ目が、ますます垂れ下がる。色素の薄い、白髪交じりの短髪までもが、なんだか萎れて見えた。
「高校まで、わたしが届けようか?」
さながら主人に放置された犬のよう。父に対する慰藉の念が膨らんでいく。
「んー……いや。お弁当忘れたときは学食で食べてるみたいだし、これは紫が食べてくれると嬉しいな」
だが、父から返ってきたのは、図らずも明るい色の返事だった。
「いいの……?」
「うん。……あっ! ひょっとして、お昼どこかで食べる予定だったとか?」
「え? う、ううん! 今日はどこにも行く予定ないから、家で食べるよ」
ありがとう、と紫が両手で受け取れば、彰は嬉しそうに微笑んだ。
学期間中ずっと食べていた父の弁当。中学二年の二学期から今に至るまで、ほぼ休むことなく食べていた。夏休みに伴い、それも一旦小休止に入ったので、思いがけない
しだいに高くなる太陽。
じりじりと照りつける日差しが、徐々に強さを増していく。蝉たちは、相変わらず大合唱を続けていた。
「……もう、五年になるんだね」
「……うん」
彰の言葉に、紫は頷いた。互いに顔を合わせることなく、同じ空虚感に気持ちを重ねる。
青空に高く湧き上がる入道雲。叩きつけるような蝉の声。薄鈍色の夕立。
夜空に咲いた、大輪の花。
あの日も、紫はこの場所にいた。
「伯父さんたちには、すごく感謝してる。高校にも行かせてもらえて、そのうえ大学まで……ほんとにありがとう」
「紫が頑張ったからだよ。僕たちは、何も特別なことはしてない」
紫の小さな頭に、彰は優しく手を乗せた。
娘の謝意に愛おしさが込み上げると同時に、今朝も家の仕事を手伝わせてしまったことに心苦しさを覚える。
もちろん、強要したわけではない。
でも、それでも。
「何か相談したいこととかあったら、いつでもいいから、遠慮しないで言うんだよ」
五年経った今でも、この小さな体に気を遣わせてしまっているのではないかと。
彰は、そう懸念しているのだ。
「うん、ありがとう。……伯父さん、もうそろそろ出る時間なんじゃない?」
「え……? わっ、ほんとだ!」
「忘れ物ない?」
「うん、大丈夫。……ひとりにしちゃうけど、ごめんね」
「ううん、平気。おつとめ、いってらっしゃい」
不意に頬をかすめた、一筋のぬるい風。
ふるふると手を振り、葬祭場へと向かう父を見送る。父も、他の家族同様に、手慣れた操作で敷地の外へと車を走らせていった。
「……」
誰かが亡くなるたびに、父は勤行へと出かけてゆく。
父が勤行へと出かけるたびに、誰かが亡くなったのだと胸が締めつけられる。
その誰かはきっと、誰かにとって、大切な存在だったのだろう。
自分にとっての、両親のように。
蝉の声にかき消された小さな嘆息。
それは、紫自身の耳にさえ、届くことはなかった。
◆ ◆ ◆
「日野先生。この著者の本、この辺りにかためておきますよ」
「ああ。ありがとう」
都内某所にある某大学。
四年制の総合大学として、そこそこ昔に創立された、そこそこ由緒のある私立大学だ。
その理学部棟の四階。エレベーターのすぐ隣に位置するのが、准教授——日野馨の研究室である。
壁のおよそ三分の二が本棚に覆われたこの部屋。中央にテーブルと一対のソファが備えられており、窓際に事務机が設置されている。
けっして広いとは言えないが、成人男性が三人動き回っても閉塞感を抱かないほどには余裕がある。
「あ。この本、図書館で貸し出し中になってて借りられなかったやつだ。せんせー、これ借りてもいっすか?」
「ああ。気になるやつあったらどれでも持っていけ」
「あざーっす」
太陽のギラギラが最高潮に達した午後二時過ぎ。
馨は、自身が開講しているゼミの生徒二人から、書棚の整理という最上級の施しを受けていた。
職業柄、気づけば手元に本が増えている。ゆえに、気づけばそこらじゅうに本が積み上げられていたりする。もちろん、積み上げているのは馨自身なのだが。
いくら口頭で注意しても改善される見込みなし——そう判断したゼミ生たちを代表し、三年生のこの二人が定期的に片しに来ているのだ。
「桐生。そっちの全集、何冊ある?」
「んーっと……七冊」
「あー……ぎりぎりここに収まるかな」
「……あっ。ごめん、椎名。一冊埋もれてたわ。八冊だ」
「八か。その厚さだと全部は無理そうだな」
「んじゃあ、それこっちに入れるから、これそっちに入れてくんない? これくらいなら入るっしょ」
「だな」
著者名、分野、サイズ……その他諸々を考慮しながら、二人の有志はテキパキと作業をこなしていった。慣れているのだろう。まさに阿吽の呼吸だ。
「あと何冊?」
漆のような黒の短髪に、左目の泣きぼくろがなんとも蠱惑的な、副ゼミ長の椎名と、
「んー……あと十五、六冊ってとこだな。たぶん」
ばっちりとアレンジを施した金髪に、人懐こそうな釣り目が印象的な、ゼミ長の桐生。
本日、馨の空き時間と、夏休み中の二人の空き時間がちょうど重なったため、このように大規模な書棚整理を行う運びとなった。
開始からおよそ一時間半。
〝日野研究室〟は、すっかり綺麗に整頓された。清潔感が漂うあまり、心なしか白光りしているようにも見える。
「おお……」
劇的に変化を遂げた自身の研究室を目の当たりにし、馨は思わず感嘆の声を上げた。
これに対し、桐生と椎名がすかさず溜息を挟む。
「『おお……』じゃないっすよ、せんせー」
「そうですよ。こうなるのわかってるんですから、普段からもっと注意してください」
「いやいや。だって気づかないうちに増殖してるんだぞ? ミステリーだろ」
「……オレらからしたら、せんせーのその生活態度のがよっぽどミステリーっすよ」
真顔での師の珍発言に、ゼミ生二人はがくりと肩を落とした。
整った容姿。優れた知能。わかりやすい講義。
男女問わず学生たちから好感を得ている馨だが、整理——とりわけ書物の整理——ができないという点が、玉に瑕である。
「ありがとう、助かった。二人とも、このあと時間あるか?」
「え? オレは大丈夫っすけど……椎名は?」
「俺も大丈夫です」
「そうか。夕飯はまた今度奢るとして……今日はここでコーヒーでも飲んで帰ってくれ」
無事に掘り返されたコーヒーメーカーを一瞥してそう言うと、馨はおもむろにボディバッグから財布を取り出した。これから購買部に甘味を調達しに行くらしく、二人に希望を尋ねる。
しかし、彼らが返した答えは、〝先生の食べたい物〟という、実に謙虚なものだった。もちろん、馨がそれをすんなりと聞き入れるはずはなく。
数回の問答のすえ、両者ともに、今購買部で人気のレアチーズケーキを所望するという形で落ち着いた。
「そんなに美味いのか」
「アレはやばいっす」
「やばいですね」
「へー」
熱のこもった教え子たちの回答に興味を示した馨。
せっかくだから、可愛い妹にも買って帰ってやろうか。そんなふうに一考しながら、研究室のドアを開けた。
そのとき。
「っと、着信だ。……はい」
ワイシャツの胸ポケットからスマホを取り出し、落ち着いた声で返事を一つ。取り出してから耳に当てるまでの一連の動作は、非の打ち所がないほどに鮮やかだった。
「……ああ、響か。どうした?」
しだいに遠ざかる声と靴音。
廊下に充満していた熱気が、たちまち室内へと流れ込んできた。
それを防がんとする勢いで、追いかけるようにカチャリとドアが閉まる。
「……今の電話、彼女からかな」
「さあ。でもまあ、彼女の一人や二人いてもおかしくないんじゃないか。あのスペックだし」
「な。超絶ハイスペックだもんな。……本の片づけができない以外は」
この場に残されることとなった、桐生と椎名。
手持無沙汰となる暇もなく、彼らは揃ってコーヒーの準備を開始した。
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