八月三日

「——ううん、大丈夫だよ。……うん。うん。わかった。じゃあ、買って帰るね」

 夕日に伸びた自身の影に視線を落としながら、紫はスマホの終話ボタンをフリックした。

 借りていた本を大学の図書館に返却したその帰り道。手帳型ケースの蓋を閉じ、バッグに仕舞い込むと、自宅とは違う方向へ爪先を向ける。

 電話の主は母だった。夕飯の支度をしている最中、トマト缶のストックが切れていることに気づき、紫にお使いを頼んだのである。

 今夜のメニューは、トマトとバジルの冷製パスタ(モッツァレラチーズ和え)らしい。

 八月三日。土曜日。

 集中講義とそれに付随する試験も無事に終えた紫は、大学に入学して以来初めての夏休みを迎えた。単位が取得できているかどうかは……休みの間は忘れておくこととする。

 夕方といえど、暑さが衰える気配は一向に感じられない。赤い硝子玉のような夕日が、紫の小さな背中をじりじりと焦がす。後ろで一つに結んだ髪の毛が、音もなく吹き抜けた熱風になびいた。

 向かうは、商店街の中にある行きつけのスーパー。大学も商店街も、自宅からだと充分に徒歩圏内だ。このペースで歩けば、スーパーには十分程度で到着できるだろう。

 等間隔に並ぶ電信柱。その合間に連なるレトロなビル。

 大学のある大通りから一本中道に入れば、そこが馴染みの商店街だ。

 紫がこの街で暮らし始めたのは今から五年前。中学二年のときだった。

 突如降りかかった災禍により、彼女の生活は一転した。住み慣れた町を離れ、単身上京。父方の伯父夫婦に引き取られ、十四年間名乗っていた名字も変わった。

 慌ただしい……はずだった。けれど、そう感じる暇もないほどに、彼女の心は疲弊していた。

 ——ボロボロだった。

 伯父家族のおかげで、なんとか学生生活に戻り、なんとか大学まで進学することができた。方言や訛りの壁も乗り越えられたし、完璧とは言わないまでも土地勘だって備わった。

 だが、心に負った傷は、いまだ癒えないままだ。

 辿り着いた目的地。紫はそこで、あるやり取りを目にした。

 スーパーの入り口付近で、低学年くらいの男の子が、泣きながら母親に何かを訴えていたのである。どうやら、欲しいものを買ってもらえなかったらしい。

 しばらく問答していたが、母親は、叫ぶ我が子を放置し、その場から立ち去ってしまった。慌てた息子が、走って母親を追いかける。母親は息子に対し、諭すように声をかけると、頷き納得した息子の手を取り、帰路についた。

 微笑ましい。紫は純粋にそう思った。

 今のやり取りで、ほんの少し成長できたであろう男の子の背中をそっと見送り、入店する。

「……」

 微笑ましい。純粋にそう思った裏側で、紫は自身の心の傷がわずかに開くのを感じた。

 痛みが、走った。

 それを拭い去るように短く溜息を吐くと、お目当てのものが陳列する棚を目指す。買い慣れているため、進める足にも伸ばす手にも迷いはなかった。

 二缶ほど手に取り、会計を済ませ、改めて帰路へ。

 傷の疼きは、無理やり抑え込んだ。

 朱と金が色濃く混ざりあった夏の夕空。物憂げな翳りの差す街を、紫は一人歩いた。人々の往来に意識を遣ることもなく、ただ静かに自宅を目指す。自身の周りだけ、音がなくなったような錯覚に捉われた。

 そんな彼女の耳に音が飛び込んできたのは、商店街の出入り口に近づいたときだった。

 聞き慣れた声。耳をかすっただけで、誰のものだかすぐにわかった。

 いくつかテナントが立ち並んだその一角には、世界規模で展開する某有名コーヒーチェーン店が入っている。声は、その軒先から聞こえてきた。

 周囲の人々よりも頭一つ分抜きん出ていたため、彼の——彼らの存在は、すぐに視認することができた。

「まあ、何はともあれ元気そうで良かった」

 紫の視線の先には、兄である馨の姿と——

「アンタもね」

 なんと、あの外国人女性の姿が。

 予期せぬ出来事に固まる紫。兄にかけようとした声は、唾とともに飲み込んだ。

 なぜ、兄が彼女と一緒にいるのか。初対面……などではなさそうだ。そう思える要素など、何一つ見つからない。

 先日、紫が彼女のことを問うた際、心当たりがないと兄は言った。

 もしかして兄は知らないふりをしたのだろうか。嘘を吐いたのだろうか。……なんのために?

 否、ただ単純に上手く伝わらなかっただけかもしれない。……でも、それにしても。

 諸々の思考が、疑念を巻き込みながら大きく膨れ上がる。

「じゃあ、まだしばらくはこっちにいるんだな」

「ええ、そのつもりよ」

 紫の存在に気づくことなく、会話を続ける二人。街行く人は皆、横目でちらりと眺めながら二人の側を通り過ぎていった。無理もない。あの一角だけ、明らかに次元が違う。

 ここで、はたと紫は考え直した。

 ともすれば、目の前に広がるあの光景は、妹として喜ぶべき僥倖なのではないだろうか、と。

 浮いた話一つなかった兄。その兄が、親しそうに話す麗人。二人の関係は、推して知るべしなのでは、と。

 自身の中で結論を出した紫は、声をかけることなくその場を立ち去ることにした。せっかくのの邪魔をするなど、そんな無粋な真似はできない。

 そう思った。

 のに。

「……紫?」

「!」

 あろうことか、たった今気を遣った相手から呼び止められてしまった。思わず背筋がぴーんと伸びる。

 立ち止まった紫のもとへ近づく馨。もちろん、例の彼女もご一緒だ。

 にこりと微笑んだ彼女に、紫は慌ててぺこりとお辞儀した。

「買い物してたのか?」

「あ、うん。伯母さんに頼まれて」

 馨の質問に、紫は買い物袋の中身を見せながら答えた。ちらりと覗いたトマト缶に、兄は今夜のメニューを察したようだ。

 夕日に染まる街で偶然見つけた、兄とその彼女。紫は、改めて並んだ二人を視界に収めた。

 かたや純和風、かたや西洋風。実に対照的な容姿だが、なかなかお似合いである。

 身長はほぼ同じ。以前、馨は自身の身長を百八十一センチだと言っていたので、彼女もそれくらいあるのだろう。

 恍惚とした紫は、心の中で嘆声を漏らした。

「その人、馨兄の彼女?」

 諸々の思考を一周巡らせ、到達した帰着点。

 デート中にもかかわらず、妹を呼び止めるあたり、隠すつもりはないのだろう。そう判断した紫は、兄に対し、なんともド直球な質問を投げつけた。

「……待て。今なんて言った?」

 しかし、紫のこの予想に反し、みるみるうちに兄の顔は歪んでしまった。眉を顰め、不機嫌そうな顔つきで、再度紫に言を請う。

「え? その人、馨兄の、かの、じょ……?」

 兄の反応に驚きながらも、紫はその要望に応えた。

 あれ、なんだか空気がおかしいぞ——そんなふうに思案した矢先。

「阿呆。どこをどう見たらこれが女に見えるんだ。……こいつは男だ」

「…………え」

 青天の霹靂のごとき衝撃が、紫を襲った。

 なんと、先日から紫の脳内を占領していたこの麗人は、〝彼女〟ではなく〝彼〟だったのである。

「……っ……」

 そんな兄妹のやり取りを目の当たりにし、明らかに笑いを堪えている様子の彼女、もとい、彼。

 なんとか笑いを喉の奥に押し込めると、目を白黒させる紫に向かって口を開いた。

「……あー、可笑しかった。こんなにテンパった馨見たの久しぶりだわ。ありがとう、紫ちゃん」

「おい」

 肩を小刻みに震わせ、口元に手を当てながら、彼は愉快そうに笑みを湛えた。一方、馨は不愉快そうに目を据わらせている。

 喋り方といい仕草といい、どの角度からどう捉えてみても、紫には彼が女性にしか見えなかった。一驚が去り、それと引き換えに込み上げてきたのは、羞恥心。ぼっと火のついた顔を隠すように慌てて俯く。

「アタシは久我くがひびき。馨とは、中学高校時代の同級生なの。……一昨日はごめんなさいね。名乗りもしないで」

「あっ、いえ」

 改めて自己紹介をしてくれた彼——響に対し、ぶんぶんとかぶりを振る。響と兄の関係が判明し、響が自分のことを知っていたのは、兄に直接聞いていたからなのだと得心した。

 傾きを増す赤い硝子玉。しだいに影は消え、頭上には紫紺が広がっていた。

 徐々に落ち着きを取り戻しつつある紫に、すでに落ち着きを取り戻した兄が言う。

「母さんがそれ待ってるな。ぼちぼち帰るか」

「あ、うん。……久我さん、あの、お夕飯は?」

 時間帯はまさに夕食時。それを考慮した紫の口を衝いて出た言葉だった。

 これほどまでに兄と親しくしている同級生ならば、両親も快く招き入れるだろう。もしかすると、学生時代、一度や二度はともに食卓を囲んだことがあるかもしれない。そう考えた。

「あら、紫ちゃんまで気を遣ってくれるの? 馨も誘ってくれたんだけど、今夜久々に父と食事することになってるのよ。だから、気持ちだけありがたく受け取っておくわね」

 けれども、響から返ってきたのは辞謝の言葉だった。馨も同じことを考えていたようで、すでに同じ誘いをかけていたらしい。

 申し訳なさそうに頬を緩めた響に対し、紫は頷く程度に頭を下げた。

小父おじさんによろしくな。また連絡する」

「ありがと。またね」

 色白の長い指を伸ばし、ひらひらと手を振ると、響は家路に着いた。

 夕日に映えた、しなやかな背中。彼のその背中をしばらく見送った後、兄妹もまた家路を辿る。

「お前が言ってた『外国人の女の人』って響のことか?」

 先ほどの妹の言動と一昨日のそれが繋がったのだろう。けっして呆れているわけでも小馬鹿にしているわけでもないが、溜息交じりに兄が問う。

「……うん」

 これに紫は小さく首肯した。ほんの少し顔を赤らめ、決まりが悪そうに下を向いている。

「あいつがうちの檀家かって訊かれたら、答えはイエスだな」

「一昨日のわたしの説明で、普通ぴんとくると思うけど」

「俺にとって、あいつは日本人で男なんだよ」

 中学高校の六年間をともに過ごしてきた馨にとって、久我響という人物は、外国人でもなければ女性でもない。カテゴライズされている箇所とは違う引き出しを開けたのだから、そこに存在していなくて当然だ。

「久我さん、久しぶりにお父さんと食事するって言ってたけど、離れて暮らしてるの?」

「ん? ああ、あいつは今ロンドンで……あ。そういえばあいつ、今イギリス人だった」

「……」

 聞けば、響は二十一歳のときに渡英し、以来向こうで生活しているらしい。それまでは日本の大学に通っていたのだが、止むにやまれぬ事情のために、あちらの大学へ編入したのだそうだ。

 やっぱり外国人だったではないか、という無益な反駁はそっと仕舞い込んでおく。

 どうしてイギリスに? 彼の容姿と関係あるの?


 あの日は、誰のお墓参りに?


 兄につい理由や詳細を尋ねてしまいそうになった紫だったが、それらをまるごとすんでのところで飲み込んだ。きっと、安易に立ち入ってはならない、センシティヴな領域に違いないと思ったからだ。

 人には翳りが存在する。誰しも癒えることのない過去の傷を抱いている。その傷の痛みに耐え、必死で息をしているのだ。

「やっと本格的な夏休みだな」

「うん」

 兄と二人、並んで歩く家路。

 足下には、今にも消えてしまいそうな影法師。

「……もう、一人で抱え込むなよ」

「……うん。ありがとう」

 悲しみに滲んだ微笑は、夏の黄昏に溶けてなくなった。

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