夏色の玻璃

那月 結音

八月一日

 うだるような暑さが重くのしかかる。

 燦々と降り注ぐ陽光の下。湧き上がる入道雲を背景に、彼女は歩みを進めた。先ほどからずっと、蝉の大合唱が鼓膜を叩き続けている。

 焼けたコンクリートが放射する熱で、ゆらゆらと揺らめく景色。あと少しの辛抱だと、なんとか自分を鼓舞した。視線の先に捉えたあの角を曲がれば、目的地はもうすぐそこだ。

 セミロングの黒髪が、滲んだ汗とともに首元に纏わりつく。溜息交じりに、持っていたハンカチで該当箇所を拭うと、得も言われぬもやもやとした情感が彼女の胸中を漂った。

 また今年も、この季節がやってきたのかと。

 角を曲がった先に見えてきたのは、立派な本瓦葺きの山門。それをくぐると、丁寧に敷き詰められた石畳が広がっている。

 そして真正面には、荘厳な雰囲気を醸し出す、大きな大きな御堂。この場所でひときわ目を惹く存在である。

 この寺は、彼女——日野ひのゆかりの自宅なのだ。

 大学一年生の紫は、現在夏休みの真っ只中。だが、単位の早期取得を目指し、集中講義を履修しているため、この日も朝からせっせと大学に通っていた。

 時刻は間もなく午後三時。一日の内で、もっとも暑さの厳しい時間帯だ。

 御堂を横切り、生活を営んでいる居宅のほうへと足を運ぶ。そこかしこに植わっている大樹と草花のおかげで、塀の外よりも気持ち涼しさを感じることができた。

 広大な敷地ゆえ、御堂から居宅までは随分と距離がある。道中、幾人かの参拝客に遭遇し、紫は一人ひとりに深々とお辞儀をした。ほとんどは、檀家で顔見知りだった。

 けれど、は違った。

 居宅へと向かう途中、紫はある人物と行き合った。

 すらりとした長身に色白の肌。半袖のサマーニットと細身のデニムパンツという実にシンプルな装いだったが、流麗な身体のラインがなんとも優美であった。

 紫の大きな黒瞳くろめは、一瞬にしてその人物に釘付けとなった。

「……こん、にちは」

 刹那の思考停止。やっとのことで我に返り、ぽつりと挨拶を落とす。

 なんて綺麗な女の人なんだろう——紫は心の中で感嘆を漏らした。

「こんにちは」

 紫の硬い挨拶に、は応えてくれた。つややかな笑みを湛え、軽く頭を下げる。

 彼女は墓域からやってきたらしかった。透き通るような白い手には、墓参に必要な道具が一式携えられている。

「アナタ、ここの子?」

 なかなか緊張をほぐすことができない紫に、柔和な表情で彼女が質問した。女性にしてみれば若干声が低い……ような気がしないでもない。

「あ、はい。娘……です」

 長身の彼女を見上げ、顎を引く程度に肯定する。このとき紫は、彼女が純粋な日本人ではないということに気がついた。

 ウルフカットを施された灰色アッシュの癖毛。瞳は深い深い緑色だった。人工的とは言いがたいほどに、彼女の髪も瞳もその顔立ちにしっくりと馴染んでいる。

「もしかして、紫ちゃん?」

「……え?」

 不意に名前を呼ばれ、思わず目を丸くした。

 間違いなく、彼女とは初対面だ。もし面識があるのなら、こんな日本人離れした麗人を忘れるはずがない。

 紫は、おそらく百八十センチを超えているだろう長身の彼女に対し、疑問符を投げかけた。あまりに唐突だったため、首を縦に振ることすらできなかった。

 しかし、彼女はそれ以上何も言わず、この場を去ってしまったのだ。

 憂いを含んだ線香の匂いと、艶やかな笑みを残して。


 ◆


 夕方。

 仕事で遅くなると母から連絡を受けた紫は、夕飯の支度をするべく台所に立っていた。

 父は言わずもがなこの寺の住職だが、母は私立高校で国語を教える先生だ。三年生を担任しているということもあり、夏休みにもかかわらず忙しそうである。

 夕飯のメニューを何にしようか迷っていると、寺に訪れた檀家から大量に夏野菜をもらったので、それらを使ってカレーを作ることにした。

 それほど頻繁に料理をするわけではないが、最近では、ほんの少しだけ料理の腕が上がったような気がする。もちろん、まだまだ母には敵わない。

「……」

 グツグツとカレーを煮込んでいる最中、紫はずっと例の彼女のことを考えていた。

 彼女はなぜ自分のことを知っていたのだろうか。いくら思い出そうとしても思い出せない。……当然だ。

 紫の記憶に、彼女は存在しないのだから。

 そんなふうに思案に沈んでいると、玄関の扉が開閉する音が聞こえた。

 父は通夜に出かけている。母の帰宅する時間はまだ先だ。思い当たるのは、ただ一人。

「おかえりなさい、馨兄かおるにい

 兄の馨だ。

「ただいま」

 馨は、紫よりも十三歳上の三十二歳。大学で物理学を研究するかたわら教鞭を執っている准教授である。詳しい研究内容については、文系の紫には難し過ぎてよくわからない。

「父さんと母さんは?」

 ネクタイの結び目に指を引っ掛け、緩めながら馨が尋ねた。

 長く黒い前髪から覗く、切れ長の黒い目。女性がうっとりしそうなほど整った容姿だが、紫とは似ても似つかない。

 馨は母親似。紫も、母親似だ。

「伯父さんはお通夜。……商店街の魚屋のおばあちゃんが亡くなったんだって。伯母さんは、明日の補習の準備して帰るって言ってたから、たぶん遅くなると思う」

 紫と馨の戸籍上の関係は兄妹きょうだい。だが、以前は、従兄妹いとこだった。

「そうか。……悪いな。一人で夕飯準備させて」

「ううん、大丈夫。気にしないで。よそったらすぐに食べれるけど……食べる?」

「ああ。その前に着替えてくる」

「わかった。じゃあ、用意しとくね」

「ああ、頼む」

 自室へと向かう馨を見送り、紫は食器を用意した。楕円形のカレー皿とサラダボウル。どちらも白い陶器だ。それから、青の切子グラス。

 ここへ来た頃は、何がどこに置いてあるのかさえわからなかったが、今ではそのほとんどを把握している。広大な敷地の中も、膨大な檀家の名簿も。

 あれから、もう五年になる。

 四人掛けの食卓に二人分の夕食。喉が渇いているだろう馨のために、煮出して冷やしておいた麦茶を切子に注ぐ。

 案の定、戻ってきた馨が最初に口をつけたのは、麦茶だった。

 先ほどのかっちりとしたスーツ姿からは一転。Tシャツに七分丈のスウェットパンツというラフな格好の彼は、どこからどう見ても大学生である。

 口数は少ないが、優しくて賢くてかっこいい。お世辞などではなく素直にそう思えるのに、彼女がいないのだから不思議でたまらない。

「……どうした?」

「え? あ、なんでもない! 食べよ」

 対座する馨に無言で視線を送っていると、怪訝そうに顔色を窺われてしまった。慌ててかぶりを振り、食べるように促す。

 馨に対する恋愛感情などいっさい持ち合わせてはいないが(向こうも全力で同感するだろうが)、妹として兄の浮いた話を聞けないのは、どことなく寂しさを覚える。

 かく言う自分に彼氏がいるのかと訊かれれば、無論答えは『ノー』だ。

 一日の終わり。スパイスの効いた夏の風味に舌鼓を打ちながら、この日起こった出来事を語り合う。

 同じ家に暮らしているといえども、なかなか時間の合わない二人。こうして兄妹だけでゆっくりと話をするのは、実に一ヶ月ぶりのことであった。

 口数の少ない馨だが、けっして紫も口数の多いほうではない。もともとの大人しい性格に加え、口下手ゆえに人と話をすることがあまり得意ではないのだ(ちなみに馨は口下手というわけではなく、ただ必要以上に喋るのが面倒くさいらしい)。

 五年前の出来事により、紫のそれはより顕著なものとなってしまった。

「ごちそうさま。美味かったよ。片付けは俺がするから」

「え? わたしするよ?」

「いいよ。明日、集中講義の最終日だろ?」

「そう、だけど」

「最後の時間に試験あるんだろ?」

「……うん」

「はい、決まり」

「……」

 紫が履修している集中講義の日数は五日。明日はその最終日で、最後の時間には試験が行われる。つまり、その試験には単位がかかっているのだ。

 あえて明言はしないけれど、馨は紫にプレッシャーをかけている。『試験勉強したほうがいいんじゃないか?』と。

 単位を落としたくはないと自分自身焦っていたうえに、大学の准教授でもある彼からこんなふうに促されてしまえば、従うほかない。

 しぶしぶ頷いた紫は、この場を馨に任せて自室に戻ることにした……のだが。

「……あ。ねえ、馨兄」

 何かを思い立った様子で、紫が兄に呼びかけた。

 呼ばれた当の本人は、水仕事の手を止めることなく、不思議そうな面持ちで振り返る。

 馨なら、昼間の疑問を解消してくれるかもしれない——紫は、そう考えたらしかった。

「あの、ね……うちの檀家さんに、外国の人っていたりするのかな?」

「外国人? いや、いないと思うけど。……急にどうした?」

 眉を顰め、本日二度目の怪訝そうな顔つき。どうやら心当たりはないようだ。

 妹の唐突な質問に、至極当然ともいえる反応を示した馨。そんな兄に、紫は時折視線を動かしながら、ゆっくりと説明した。

「えっとね……大学から帰ってきたときに、綺麗な女の人に会ったんだけどね」

「うん」

「日本人離れしたルックスだったし、イントネーションが少し英語っぽかったから、外国人だと思うんだけど……その人、わたしのこと知ってたみたいで」

「……うん」

「でも、わたし、その人のこと全然知らなくて。あんなスタイルのいい綺麗な人、一回見たら絶対覚えてると思うんだけど……」

「……んー」

「わからないよね」

「わからないな」

 悪い、と謝る馨に対し、紫は全力で首を横に振った。

 疑問を解消できなかったのは残念だが、馨が謝る必要など微塵もない。仕方のないことだ。

 だが、馨に心当たりがないとなると、謎はますます深まるばかりである。

 なぜ、檀家ではない彼女が墓参に訪れていたのか。なぜ、ここで暮らし始めて五年しか経過していない紫のことを知っていたのか。

 考えれば考えるほど終着点の見つからない事柄。そんなことに時間を費やしても意味がない。わかっている。わかってはいるが、どうしても気にせずにはいられなかった。

 彼女の艶やかな笑みが、脳裏に焼きついて離れない。悶々と渦巻く思考を抱えたまま、紫は廊下を歩いた。

 自室へと続く内縁の廊下。窓の外では、紺碧の空に上弦の月がくっきりと浮かび上がっている。

 八月一日。

 紫にとって、短く儚い、けれど、特別な夏が始まった。

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