らしくない慰め
夢を、視た。遠く、懐かしい夢を。
まだ女の格好をしていた頃だ。
母の部屋で、母の膝に顔を埋めて幼い自分が泣いている。
父との関係に悩んでいた頃だ。父の冷たさに泣いていたクロニカに、母は頭を撫でながら宥めた。
『クロニカ。大丈夫よ。あの人は、ちゃんとあなたのことが好きですからね』
母上の嘘つき。
今のクロニカが呟く。
父は自分のことが好きではなかった。むしろ憎んでいた。
もう、どうしようもない。
クロニカには、どうにでも出来ないのだ。
● ○ ● ○ ● ○ ●
目が覚ますと、見慣れない天井が視界に入った。
身体が思うように動けなかった。手先と頭はなんとか動くものの、それ以外は動けない。
「おはよう」
親しい声がした。おもむろに頭を動かすと、ジュリウスがいた。
「体調のほうはどう?」
声を出そうしたが、出なかった。喉がガラガラしていて、息が通り抜けるだけで咳き込んでしまった。
「医者呼んでくる」
ジュリウスが部屋から出ていく。
それを見送って、また天井に視線を戻す。
生き永えてしまった。
漠然とそう思った。
母の担当医ではない中年の男性が来て、診察された。
どうやら自分は、高熱を出してずっと眠っていたらしい。身体は衰弱しているが、しっかりと食事を取ったら、体調は戻るだろうとのことだ。
医者と入れ替わるように入ってきたのは、夫人だった。
「よかった……一時は危なかったのよ」
眦に涙を溜め、夫人はクロニカの頭を撫でる。
「あなたを見つけたのは、ジュリウスなのよ」
夫人が語る。
「雨の中、あなたをおぶって屋敷まで運んだのよ。あなたの実家は色々と忙しいから、こっちで看病することになったの」
クロニカは瞠目する。
俄に信じられなかった。自他供に面倒事を嫌う彼が、自分を探して背負い、屋敷まで運ぶなんて。
「時間が空いたら、ずっとここにいてあなたが目覚めるのを待っていたのよ。あの子、あなたのこと、けっこう気に入っているみたいね。あんなに必死になって人のために動いているの、初めて見たわ」
嬉しそうにはみかみ、夫人はそっと手を離した。
どうやら生きてしまった、のではなく、生かされたらしい。
やるせないのか、悔しいのか、それとも嬉しいのか。よく分からなかった。
「さて、汗掻いたでしょう? 着替えましょうか」
普通は女中にやらせる事なのに、夫人は喜々とクロニカの着替えを手伝う。恥ずかしかったが、身体が思うように動けなかったので好きにさせた。
着替えを済ませると、夫人は脱いだ服を持って部屋を出た。その代わりにジュリウスが入室した。ジュリウスは、クロニカを一瞥してベッドの横の椅子に座って分厚い本を広げた。
静寂に満ちる。聞こえるのは、ページを捲る音だけ。
彼は喋らない。喋れないから別に良かったが、どうしてわざわざ此処に来たのだろうか。それは気になった。
「……あれから三日が経っている」
ジュリウスが口を開く。淡々としているが、どこか堅い響きを含んでいるように聞こえた。
「夫人の葬儀は昨日、行われた」
クロニカは瞼を伏せる。
結局、母の顔を見られなかった。遠く見ただけで、別れを告げるにはあまりにも短かった。
悲しくはなかった。ただ虚しかった。胸に空虚ができたみたいで、空虚を撫でてみたら目頭が少し熱くなる。
「あのさ……」
瞼を開く。顔を背け、ジュリウスは言い難そうに言い募る。
「公爵がお前のこと、どう思っているのか知らないけど、夫人はお前のことを大事に想っていたし、愛されていたと思う。お前を産んだ本人が幸せそうに、お前のことを話していたんだから、それでいいんじゃないか」
それと、とさらに紡ぐ。
「桃の木とか、夫人のために植えたやつとか菓子。夫人以外に食べる人がいなかったら、僕が食べてあげる。母上も食べてくれるよ。あの人も、甘いものが大好きだから……せっかくあそこまで育てたんだから、実がならなかったらもったいないだろ」
それだけ言って、ジュリウスはまた部屋の外に出て行った。
彼の言葉を反芻する。
まるで何があったのか、知っている風だった。
誰から聞いたのだろうか。医者か、女中か。
それよりも驚いたのは、彼の言葉だ。
―もしかして、慰められたのか
彼が慰めの言葉を言うなんて、耳がおかしくなったのだろうか。そう疑うほど、彼は気に掛けた言葉を言わないのだ。
でも。
クロニカはまた瞳を伏せた。
『旦那様はお嬢様のことを気にかけておいででしたよ』
『お嬢様からの贈り物を受け取った時の旦那様、とても嬉しそうでしたよ』
『クロニカ。大丈夫よ。あの人は、ちゃんとあなたのことが好きですからね』
今までたくさんの慰めの言葉を貰ったが、どれも信じられなかった。嘘だ、と心の中で拒絶した。素直に受け止めるには、あまりにも信憑性がなかった。
だがジュリウスの言葉は、不思議と説得力があって心に染み込んでいく。
鼻がつんとした。眦から熱いものが零れ落ちた。
母に愛されていた。それが嬉しくて、そしてとても寂しかった。
この時から、クロニカは父に期待することを止めた。
公爵の跡取りとして、遠縁の親戚であるルーカスを引き取っても、何も思わなかった。
父がルーカスを厳しいが決して冷たく接していないことも知っても、失望も絶望もしなかった。
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