母
緩やかに変わっていく二人の関係。それは大地の下で芽吹きの時を待つ花のように、ゆっくりと、そして強かに育んできた。
それが芽吹き始めたのは、二人でぐゆみを食べた年の秋頃だった。
クロニカが誕生日を迎えて十四歳になった、数日後のことだった。
風邪で体調を崩していた母の容態が急変した。朝日も昇っていない早朝の事だった。
廊下が騒がしくて、朝に弱いクロニカも起床した。胸騒ぎがして、おそるおそる廊下に出た。
ひんやりとした空気が足下に絡みつく。心臓がどくどくと脈打つ。感覚を失い、手が震える。喉の奥まで凍えていくようだった。
床に張り付いた足を叱咤して、声がする方へ向かう。
騒がしかったのは、母の部屋の前だった。
行き交う使用人たちの中に紛れて、見慣れた白衣が慌ただしく母の部屋の中に入っていくのが見えた。
胸騒ぎが確信へと変わる。
目の前が真っ暗になっていく。それでもなんとか耐え、ゆっくりと母の部屋に向かう。
閉められた部屋の前で、立ちすくむ母の女中に話しかける。
「なぁ……」
「っ! お嬢様?」
不安げに揺れる瞳を見据え、喉の奥につっかえていた冷たい何かを呑み込む。
喉が震えている。何度も冷たい何かを呑み込んで、脈立つ心臓を抑え、おもむろに口を開いた。
「母上は……危ないのか?」
思っていたよりも、冷たい響きを持った声が出てしまった。
「それは……」
女中の視線が泳ぐ。
この女中は気が利かないことで有名だった。心配りは行き届いているが、慰めになると途端に気が利かなくなるのだ。素直な性分な故、真実を否とは言えない。
その態度が全てを語っていた。
「そ……か……」
絞り出した声は、自分でも分かるほどか細かった。
「え、と、旦那様は中にいらっしゃいます」
「わかった……邪魔したら悪いから、ここにいても、いいか……?」
両親の間に自分が入るのは、気が引けた。あの二人といると、クロニカはいつも孤立する。母は気にかけてくれるが、父は気にかける素振りすら見せてくれない。父にとってクロニカは邪魔者なのだと、ひしひしと伝わってきて、とても間に入ることはできない。
「もちろんですとも。その格好ではお寒いでしょう。毛布を持ってきますね」
「あり、がとう」
そそくさと立ち去る女中の背中が見えなくなる。クロニカは壁にもたれ掛かり、そのままぺたんと座り込んだ。
母が息を引き取ったのは、朝日が昇った頃だった。その間のことを、クロニカは覚えていない。長かったような気もするし、短かったような気もした。
部屋に入ると、母のベッドの横で泣き崩れている父の姿が視界に入った。ベッドに横たわっている母に縋りつき、母の名を呼び、慟哭する父の後ろで白髭をたくえた医者が悲痛な表情を浮かべていた。
「母上……」
無意識に母を呼ぶ。
昨日まで笑っていた母が、静かに眠っている。日溜まりのような声がこぼれていた唇も閉ざされている。
頬に熱いものが伝う。目頭が熱く、喉の奥もヒリヒリする。
父がクロニカに気付いた。強く睨めつけられて、萎縮する。
今まで睨みつけられる事はあったが、こんな瞳は向けられた事がない。
憎しみの炎が揺らめく瞳など、知らない。
父が立ち上がり、大きな足音を立てながら近づいてくる。耳がきぃんとするほど静かな部屋にやけに響く。
クロニカの前に立つと、父は手を振り上げた。
左頬に衝撃が走った。尻餅ついて、左頬に手を添える。じくじく痛い。痛みが広がって、熱が帯びる。
頬を叩かれた。そう理解するのに、さほど時間は掛からなかった。
鈍い頭をおそるおそる上げて、父の顔を仰ぐ。
瞳の奥の炎が黒く、ごうごうと燃え上がっている。そこには憎悪しかなかった。
「お前を」
父が口を開く。泣き続けた後のせいか、しゃがれていた。
「お前を産んでから、ミリアはもっと身体が弱くなった」
ミリア。母の名前だ。
「お前を産んだから、ミリアは死んでしまった」
呪いの言葉だ。それはクロニカの心臓を凍り付かせ、声を縛る。
父を止めなくてはいけないのに。先の言葉を言わせたくないのに。聞きたくないのに。身体が動けない。耳を塞ぐこともできない。
その先を言わないで。
願いも虚しく、父は呪いの言葉を口にした。
「お前さえ、生まれてこなければ、ミリアは死なずにすんだのだ!!」
● ○ ● ○ ● ○ ●
クロニカは部屋から飛び出した。呼びかける声はなかった。もしかしたら、聞こえなかっただけかもしれない。
無我夢中で走った。とりあえず、ここに居たくなかった。家には居たくなかった。
我に返った時には、見慣れない場所にいた。
林の中だった。木々が生い茂って、聞こえるのは風と木の葉の音だけ。虫の声は聞こえない。何一つ気配がない。屋敷の敷地内ではなく、人里から離れているということは分かった。
根本に腰を下ろし、膝を抱える。
寝間着のまま飛び出したから、とても寒かった。足も手も冷える。それ以上に心が冷え切っていた。
女の子は身体を冷やしてはダメよ、と母に言われたのに。風が徐々に体温を奪っていく。
それでもいいか、と静かに受容した。
叱りながらも暖めてくれた母は、もういない。自分が死なせてしまった。
――ほんと、馬鹿みたい
力なく失笑する。
父にとって性別は関係なかった。存在自体を疎んでいたのだ。
努力も結局、空回りでしかなかった。見てくれないことに変わりなかった。
雨の匂いがする。空を見上げると、空がどんよりと曇っていた。風が湿気を伴ってくると、予感が確信に変わる。
けど、帰る気はなかった。動く気もなかった。
ぽたぽた、と頭の上に滴が落ちてくる。雨だ。それはどんどんと勢いを増し、無情にもクロニカを打ち付ける。
細い糸のように垂れ落ちてくる雨は、肌を強く刺す。
クロニカがいるところは木の根元だったのが、それは気休めにしかならなかった。木の葉の間を通り抜けて、大量の水が流れ落ちてくる。
髪も濡れ、寝間着も水を吸い込んで重い。クロニカは動かない。泣くこともできなくなっていた。
帰った所で、家族が暖かく迎え入れてくれるわけでもない。
母が恋しかった。ただただ、あの手の温もりが欲しかった。
頭を撫でる、痩せ細った手。柔らかくて泣きたくなるほど優しい声。
昨日まで触れていた温もりが、聞いていた声が、もう遠い。それが悲しくて、寂しかった。
こんなに雨に打ち付けられているのに、寒くない。感覚がなくなっているのかもしれない。それすら、もうどうでもよかった。
意識が混濁する。気力もなく、水溜まりの中に倒れ込んだ。
水溜まりに身体を浸しながら、ぼんやりと遠い景色を見る。
景色は霞んでいた。視界があやふやで、だんだんと暗くなっていく。
このまま眠り続けたら、この悲しみを忘れられるのだろうか。
母に会えるだろうか。あの温もりに触れられるのだろうか。
会えるのなら、眠りたかった。
会ったところで、母は悲しむだろうが、もうどうでもよかった。
自分の死を悲しんでくれる人は、もういない。
自分が死んだところで、誰も悲しまないのだ。
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