7話 服の魔法(4)

「うん、分かった……ありがとう」

 充分だった。エミリーは手紙をしまおうとローテーブルに手を伸ばして、気付く。

「あ、あの……手」

 ひざの上の右手を動かすと、イルケトリは「ああ」と握っていた手を離した。イルケトリは令嬢の手など握り慣れているから、何とも思っていないのだろう。どぎまぎしているのがエミリーだけだと思うと、何だか悔しい。

 手紙を封筒に入れてポケットにしまうと、ローテーブルに置かれたままになっていたオニギリの皿が目に入った。

「あの、これで話したいこと全部だから。食べて」

 慌ててイルケトリの前に皿を置き直す。

「ああ。じゃあ、ありがたくいただく」

「あ、作ったのはヒフミだから! お礼ならヒフミに言って」

 イルケトリは頷きながら三角のライスボールを取って、かじる。

「うまいな。ヒフミのオニギリは何度食べてもおいしい」

 イルケトリは感心したように手元のライスボールを見つめる。

「今日はサーモンらしい」

「えっどういうこと? 中に何か入ってるの? お米だけじゃないの?」

「焼きサーモンだ。前は肉だった」

「どういうこと? 何味なの?」

「塩とサーモンじゃないか?」

 オニギリというライスボールは、どうやらただのライスボールではないらしい。そういえばヒフミのかたわらに焼きサーモンがあったと今さら思い出す。一体どんな味がするのだろう。戻ったらエミリーもひとつ作ってもらえないか頼もうと、強く決心した。

「食べるか?」

 あまりにも熱心に見つめていたからだろう。イルケトリがオニギリの皿を差し出してきた。

 味が気になる。食べてみたい。しかし。

「や、それはイルキのだから。大丈夫」

 緊張が解けたからか、急に空腹感がでてきて、先ほどから腹が不穏な音を立てている。手遅れになる前に去ろうと、ソファーから立ち上がろうとした瞬間だった。

 小動物の鳴き声のような音が、長く響き渡った。もちろん、エミリーの腹から。

(あああ何で! 何で! いやでもものすごく変な音じゃなくてよかった……って違う!)

 エミリーは崩れ落ちたくなった。とにかく両手で顔を覆う。

「食べろ。食べづらいから」

 イルケトリの声は笑っておらず、むしろあきれている。どちらにしてもいたたまれない。オニギリをもらうとしても一口でいい、と思ったものの、そうすると間接的にキスすることになってしまい、もはやどうすればいいのか頭が考えるのを拒否した。

 結局、誘惑に従って、ふたつ残っていたオニギリをひとつもらうことにした。

「ありがたくいただきます」

 エミリーはオニギリをかじった。最初は塩味の米だったが、なぜかこれだけでも充分おいしい。中に入っていたサーモンとともにかむと、脂と米と塩が絶妙に絡んで、甘い。

「どうしよう、泣きそうなほどおいしい」

「そうだな。ヒフミの国の料理は大体何でもうまいな」

 見るとイルケトリはもう食べ終わっていた。エミリーもかみしめながらオニギリを食べる。戻ったらオニギリの作り方を教えてもらおうと思った。

「もう一個食べろ」

 エミリーがオニギリを食べ終えると、イルケトリが皿を目の前に置いてくる。

「え、もういいよ。ひとつもらっただけで充分だし。ひもじそうに見えた?」

「そうだな。ひとつじゃ足りないんじゃないか」

 イルケトリが吹き出して、からかうような笑みを浮かべる。

「だ、大丈夫です! それにこれはイルキのなんだから、ちゃんと食べて」

「もう下に行って何か食べてくるからいい。食べろ。気に入ったんだろ?」

 たしかに気に入ったがそれはイルキのだから、と言おうとして、ぴんときた。イルケトリは育ちがいいので、女性の前でひとりだけ物を食べるのが忍びないのだろう。しかもエミリーがまだ食べられると分かっている。

 本当に、意識しているのかしていないのか分からないが、紳士だ。紳士すぎて悔しい。

「だ、だめ! ちゃんと食べてないんでしょ? せめてこのくらいは食べなきゃだめ!」

 押しきられないように構えると、イルケトリが自分の魅力を確信している、誘うような笑みで見つめてくる。豹変ひょうへんぶりに、勝手に鼓動が跳ねる。

「そんなに食べさせたいなら無理やりすればいいだろ……口移しでも何でも」

 エミリーは思考が飛んだ。戻ってきて、頬に熱が上ってきて、何言ってるのふざけないでと口から出る寸前、止まる。

 これは、罠だ。断れば「じゃあ食べろ」と言われ、イルケトリの作戦どおりまんまとエミリーが食べるはめになってしまう。絶対に断ると分かっているから、イルケトリはこんなことを言い出したのだ。悔しい。

(いや、でも乗ったふりをしてオニギリを口につっこめば……)

 日頃からかわれているぶんの仕返しもできて、一石二鳥かもしれない。何でも自分の思いどおりにいくと思ったら大間違いだ、今日はこちらがからかってやる、とエミリーは心の中で拳を握った。

「い、いいよ……やる」

 気合いとは裏腹に声が上ずった。イルケトリの顔から笑みが消えていき、目が見開かれる。もしかして呆れられているのだろうか。「冗談だ」とか言われるのだろうか。けれど仕返しすると決めたのだからあとには引けない。

 エミリーはオニギリをつかんで、ソファーの上で人ひとりぶん離れたイルケトリへ、少しだけ近付く。

「ちょ、待て、本気、なのか?」

 イルケトリが体を引く。

「だ、だってイルキがやれって言ったんでしょ?」

「いや、まあ、そうだが」

 イルケトリの目線がそれる。何だか様子がおかしい。

(もしかして、もしかすると……ちょっと動揺してる?)

 そう思ってしまった途端、鼓動が強く大きくなって、オニギリを持つ手が固まる。

(いや、き、気のせい、だよね? ふだんあんなにからかってくるんだから慣れてそうだし)

 急に緊張感が増してくる。けれど本当に口移しをしようというわけではないし、無理だと思ったら途中でやめればいいのだ。動揺しているならいるで仕返しとしては願ったりかなったりである。

 エミリーがとうとうイルケトリの目の前まで近付くと、イルケトリはのら猫のように身構えた。

「お前、うそでも好きでもない男にそんなことしようなんて言うな。未婚の娘だろ一応」

「一応って何一応って!」

 思わずつっこんでしまったが、イルケトリは居心地が悪そうに目をそらしている。隣であくびをされると何だかあくびをしてしまうように、奇妙な恥ずかしさが染みこんでくる。

 たしかに好きでもない男性に冗談でも言うことではないかもしれない。けれど。

「べ、別にイルキのこと好きじゃないけど……嫌いじゃ、ない」

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