7話 服の魔法(1)

 眠る前、静かな虫の音が滑りこんでくる自室で、エミリーはデスクの上の封筒を見下ろしていた。

 赤いバラの封ろうに、黒の差出人。

 ケイティ・ローズドメイ。


 朝一番の掃除を終えて、エミリーは厨房へ入った。

「おはよう」

 いつもどおりヒフミと、今朝はマリアンヌがいた。ヒフミは変わらず「おはよう」と、マリアンヌはややぎこちなく返してくる。

 エミリーがミス・ドレスに戻ってきてから二週間ほどたった。エミリーが焼いてしまった玄関と渡り廊下は修理中で、イルケトリに「修理代はお前の給金から引いておく……冗談だ。そんなんじゃ何年かかるか分からないからな。というのも冗談で、もともと俺の責任だ。気にするな」と殊勝な言葉をかけられ、別の何かを要求されるのではないかとおびえた。

 マリアンヌが隠していたドレスも返してもらった。すぐに何事もなかったかのように、とはいかなかったが、マリアンヌはときどき食事の準備を手伝いに厨房を訪れるようになった。

 理由を尋ねると、「友達なのにあまりしゃべれる機会がないでしょう? だから、ちょっとでも喋りたいと思って」と恥じらいながら告げられた。伏せたまつげと染まった頬がまさに人形のように愛らしくて、エミリーは不覚にもときめいてしまった。

 けれどマリアンヌは本来料理をしない身分だからか、壊滅的に料理が下手だった。なのでヒフミの指示のもと、ひたすら鍋をかき回したり、皿を出したり、なるべく大惨事にならないようなことをやってもらっている。

「ねえ、それ何?」

 台に上って鍋をかき回しているマリアンヌの手前で、ヒフミが両手を握り合わせていた。テーブルには鍋と、サーモンの皿と、白い三角の物体が乗った皿がある。

「おにぎり」

「オニギリ? 何それ?」

 近付いてみると、米粒のようだった。ヒフミは両手を握りこんだまま、斜め上に視線をずらして、エミリーに戻した。

「米三角」

 たしかに三角形の米の塊だが、何も分からない。ヒフミは思いついたように目を見張る。

「ライルボール」

「ああ、ライスボール。でも何で三角なの?」

 ヒフミは動きを止めて、握っていた手から見事な三角のライスボールを皿に置いた。

「知らない」

 きっとヒフミの故郷では、ライスボールは三角なのだろう。

 三角が三つ綺麗きれいに並んだ皿を、ヒフミが差し出してくる。

「イルキに渡して」

 エミリーが首を傾けつつ皿を受け取ると、ヒフミは難しい顔をした。

「ええと、イルキ言った。朝ごはんここで食べない。仕事忙しい食べるの忘れる。心配」

 どうやらイルケトリは仕事が忙しいと食事を忘れるので、ヒフミは心配しているらしい。

「あと、エミリー、イルキと友情」

 エミリーはますます首を傾ける。

「イルキとエミリー、今、友情? 親愛? ない。だから行って話して」

 気付かれていたのかとエミリーは苦い気持ちをかむ。馬車で寄りかかられてからどこか気恥ずかしくて、イルケトリを避けていたのだ。もちろんイルケトリの態度はまったく変わらなかったが。

 それに、数日前から本当は話さなければいけないことがある。けれど。

「マリアンヌに行ってもらったほうがいいんじゃない?」

 先ほどから会話に入りたそうにうかがっていたマリアンヌと、目が合う。マリアンヌのほうが適任なのではないか。

 マリアンヌはりりしい目をして、鍋から体ごとエミリーに向き直った。

「エミリー、もしわたしに気を遣ってるのなら無用だわ。別にイルキのことを特別に思っていないんでしょう? ならちゃんと関係を修復すべきだわ」

 たしかに、イルケトリに特別な感情は持っていないと思う、が。

「うーん……分かった。行ってきます」

 気乗りはしなかったが、ずっと避けているわけにもいかない。エミリーは覚悟を決めて、ライスボールの皿を持って二階へ上がった。イルケトリの部屋をノックする。

 開いたドアから姿を見せたイルケトリは、ネイビーブルーのシャドーチェックのウエストコートで、ネクタイはしていなかった。シャツの首元があいていて、気恥ずかしくなって目をそらす。

「あの、持ってきたから、どうぞ」

 皿を差し出すと、イルケトリは「ああ」と力のない声で受け取る。見上げると、表情にどことなく疲労が張りついている。

「もしかして寝てないの?」

「寝ないスケジュールでやるほど無能じゃない。三時間は寝た」

 それは寝たうちに入るのだろうかと思ったが、エミリーはあえてつっこまないでおいた。

 皿は渡せたが、もうひとつ話さないといけないことがある。仕事のじゃまになってしまうし、廊下で話すことでもないが、今しかない。そう決心したとき、ドアの奥、視界に引っかかったきらびやかなものに、エミリーは釘づけになる。

「ねえ、あれ、ドレス?」

 イルケトリは振り返って「ああ」とうなずく。

「今作ってるやつ?」

「そうだ」

 ドアの隙間からはすべては見えない。

 見たい、と思った。けれどいくら見たいとはいえ男性の部屋に踏みこむのはいかがなものか。それに、作業のじゃまになってしまう。でも。

「見ちゃだめ?」

 非常識だと言われようとも、隙間からしか見えないドレスは引きつけられる何かを持っていて、見たいという思いのほうがまさった。

「まあ、ちょっと休憩しようと思ってたから、そんなに見たいなら止めないが」

「本当? いいの? ありがとう!」

 イルケトリは若干渋るような顔をしていたが、エミリーはかまわず部屋に入れてもらった。非常識だろうが何だろうが、ドレスが見られればそれでいい。

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