6話 寄りかかればいい(6)

「おかえりなさい」

 ヒフミはあきらかにエミリーのことを見ていた。先ほど言われたのだが、と不思議に思う。

「さっき、ただいまを言わなかった」

 ヒフミの表情がほんのわずかに曇ったように見えた。

 ただいまと言えなかったのは、ここはエミリーの唯一無二の居場所ではないからだ。それに、イルケトリにも今後どうするかは考えさせてほしいと言ってしまった。

 けれどヒフミが不満なのか心配なのか分からない微妙な表情をしていたから、エミリーはぎこちなく「ただいま」と口にした。ヒフミは多分満足してくれたのだろう、表情が少しだけ柔らかくなったような気がした。

 もう用は済んだとばかりに玄関へ歩き出したヒフミを、エミリーは呼び止めていた。

「あの! 友達になってくれませんか?」

 ヒフミが振り返る。

 ミス・ドレスへ戻ってこられたら、言いたいと思っていた。もしエミリーがここから去ってしまうとしても、ヒフミとは友達として関係を続けられたらいいと願っていた。

 ヒフミは振り返ったまま動かない。もしかして通じていないのか、断りづらいのかと、エミリーは戸惑う。

「その、仕事は先輩後輩ですけど、それとは別に友達になりたいんです。嫌なら……」

 ヒフミは頷いた。どちらの意味で頷いたのか分からず、エミリーは近付いてくるヒフミを見つめる。

 ヒフミはエミリーの前で立ち止まる。

「分かった。友達。エミリー」

 初めて、ヒフミがちゃんと分かるくらい、微笑んだ。初めて、名前を呼ばれた。力が抜けそうになって、何となく泣きそうな心持ちになって、エミリーは笑った。

「はい。よろしくお願いします」

 ヒフミの視線がずれて、エミリーは視線をたどると、自分を見上げているマリアンヌと目が合った。マリアンヌはばつが悪そうに顔をそらして、痛ましい表情になる。

「マリアンヌさんもなりますか? 友達」

 マリアンヌは弾かれたように、信じられないといった顔でエミリーを見上げてくる。

「あなた、正気なの? だって、わたしはあなたに……」

 言葉の最後が高くなって、マリアンヌは泣き出しそうになった顔を隠すようにそむける。

「全然怒ってないわけじゃないですけど、さっきあれでいったん終わりにしましたし、友達のほうが堅苦しくなくていいかなって」

 マリアンヌは少しのあいだ顔をそむけたまま、やがてエミリーにまっすぐ目を向けた。

「あなたがそう言うなら、なるわ」

 何だかものすごく重大なことのようだ、とエミリーはおかしくなった。

「はい。お願いします」

「友達にそんなかしこまった言い方はおかしいわ」

「ええと、じゃあ、よろしく。マリアンヌ」

 マリアンヌの瞳がれていって、マリアンヌはまばたきを繰り返して大きく頷いた。

「えー、いいな、俺も友達になりたい」

 いつの間にか遠まきに見ていたらしいシンティアが駆け寄ってくる。

「やめて、近寄らないで!」

 マリアンヌが威嚇するようにシンティアへ向けて腕を振る。

「ええ、何で? 俺もマリアンヌとエミリーとヒフミと友達になりたい」

「仕事のこと以外で話しかけないでって言ったでしょう!」

 そんなに厳しい関係だったのかとエミリーはマリアンヌに同情する。シンティアのことを相当汚らわしく思う出来事が何度もあったのだろう。

「もうそんな変態さっさと辞めさせなさいよ」

 玄関に向かっていたハニールが、少し離れたところから嫌悪の表情で声を投げてくる。

「辞めるならハニールが辞めれば? そうやっていっつも嫌みばっかり言ってるから老け顔なんだよ」

 シンティアは何の感情もこもっていない顔をしてハニールを見た。どうもシンティアは女性が関係していないことは心底どうでもいいらしい。

 ハニールの叫びがあふれる瞬間、何かを打ち合わせたような乾いた大きな音が響き渡った。

 体が跳ねる。皆、同じように目を丸くして体をすくませているなか、ヒフミが胸の前で手の平を合わせていた。

「みんな、朝ごはん食べる。お腹すいたは不幸。おいしいは幸せ」

 ヒフミが思いきり手を打ち合わせた音だったらしい。ヒフミは怒ってはいないけれど、有無を言わせない圧力のようなものをまとっていて、皆無言で頷いた。

 小さな笑い声がした。イルケトリが、口元に手を当てて笑っていた。ヒフミがイルケトリを見て、かすかに微笑んだ。緩んだ空気が、ふわりとそれぞれに伝っていく。

 この雰囲気は嫌いではなくて、ここに戻ってこられてよかったと、思った。

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