6話 寄りかかればいい(4)

 手持ちぶさたに、とりあえず窓の外でも眺めようかとしたとき、急に肩に重みがかかった。驚いて振り向くと、すぐ近くにイルケトリの顔が、ある。

 息が止まって、叫び出しそうになった。けれど体が沸騰ふっとうしそうになる一歩手前で、血の気が引く。

「痛いの? 具合悪いの?」

 浮ついた気持ちで恥ずかしがっている場合ではなかった。イルケトリを支えようと手を伸ばすと、気だるそうに開いた瞳に、見下ろされる。

「いや……痛いが、お前が寄りかかれって言ったから寄りかかっただけだ」

 薄い光を帯びて透き通ったエメラルドに吸いこまれて、エミリーは引いていた血が逆流するのを感じた。一気に顔がゆだる。

「は……ちょ、は?」

 たしかに寄りかかればいいとは言ったが、もちろん直接的な意味ではない。

「いやあのそもそもあたしに寄りかかれって言ってないし、お、重いんだけど!」

 逃げようと体を引けばますます倒れかかってこられそうだし、重いのは本当だ。

 イルケトリはエミリーとのあいだに手をついたようで、少しだけ重みがなくなる。けれど、離れる気配がない。

(ちょっと待って、何これ? 何で?)

 もしかしてイルケトリは痛みにやられて正常な判断ができなくなっているのかもしれない。振り向けば間近で目が合ってしまうので、エミリーは前を向いているしかない。頬が熱い。意味が分からない。イルケトリの重みを感じて、淡いバニラの残り香が漂ってきて、鼓動で体がどうにかなってしまいそうになる。

「帰ったら、ヴァイオルトに話し合いを申しこみたい」

 独り言のようだった。

「自分でも言ってたとおり、少しのあいだはおとなしくしてるとは思うが……今まではあいまいならそのままでいいと話し合うのを諦めてた。けど元はと言えば俺があいつを傷付けたのが始まりだ。ちゃんと、話し合う。時間がかかっても……普通の兄弟に、戻れるくらいに」

 イルケトリの声は穏やかなささやきで、真剣なものだと分かればエミリーの鼓動は落ち着いていった。

 あのとき、落ちていくヴァイオルトは、泣きそうな顔をしていた。多分、命令を無視した従僕にイルケトリが殺されてしまうのが、怖かったのだろう。憎しみと同じくらい、ヴァイオルトはイルケトリのことが、大好きなのだ。

「ちゃんと話せると、いいね。というかこんなに巻きこまれたんだから、ちゃんと話し合ってもらわないと困るんだけど」

 冗談めかすと、「そうだな」とイルケトリが小さく笑う声が妙に近くで聞こえた気がして、慌てて話題を探す。

「そ、そういえば何でヴァイオルトがリボン持ってるって分かったの?」

 耳元でイルケトリがかすかにうなって、鼓動が強くなる。せっかく話を変えたのに逆効果だ。まだ前を向いたまま顔を動かせない。目を見て話そうとすれば、近すぎる。

「あれは『直感』なのか勘なのかよく分からない。ただ、あいつを見た瞬間に違和感があった。それで惑いの真紅のありかを聞いて、答え方で確信した。『制御』をかけて自分で持ってるのが一番安全だと思ったんだろ」

「え、でも『制御』って魔力を弱めたってことでしょ? 普通に使えたよね? 何で?」

「暴走してたからじゃないか。切れてるんだろ? それ」

 イルケトリの手が視界に入ってきて、エミリーのひざに置かれたリボンをさす。

「『直感』は見ないと分からないが、暴走してて何となく感じ取れたのかもしれない」

 そういうものなのかと、エミリーはひざの上のリボンに触れた。

 たしかに切れ目が入ってから急に炎が出せるようになったので、暴走しているという状態だったのかもしれない。そういえばエミリーが炎を出したあと、ヴァイオルトは酷く驚いていた。『制御』が効いていなかったということだろう。

「暴走にせよ何にせよ、『制御』を超えるなんて大したもんだ。助かった。本当に」

 素直な声音で呟かれると、どうしていいのか分からなくて、困る。

「イルキの魔飾にも、たくさん助けてもらった。何ていうか……こんなこと言うのも失礼かもしれないけど、すごく、綺麗きれいだった」

 代償はあまりにもむごいものだけれど。胸の中をつかまれたように苦しくなるが、黒いつる草はあまりにも美しかったのだ。この世界のものではないように。

 イルケトリが小さく笑ったのが聞こえた。

「あれはただのできそこないだ。『直感』も『混沌』も、俺は魔飾をひとつもまともに扱えない。ラッチェンスに生まれても、俺はただのできそこないだった」

 声は、自暴自棄というよりはすべて諦めているように乾いていた。イルケトリがここまで自分を卑下するのを、初めて聞いた。そうして、思い出した。

「ヴァイオルトが言ってたんだけど。お父さんがイルキを後継者に選ばなかったのは、これ以上イルキを傷付けたくなかったからだって」

 ヴァイオルトがイルケトリとの過去を話していたとき、言っていたのだ。

『父上は言いました。イルキを選べば、あの子はさらなる批難にさらされる。これ以上、あの子を傷付けたくない』

 父は自分への批難を避けるためでも、イルケトリが混血だからでも、ましてやできそこないだからでもなく、イルケトリを守るために後継者から外したのだ、と。

「だからイルキはすごく愛されてるんだって、言ってた」

 イルケトリは何も言わなかった。エミリーもイルケトリのほうを見なかった。ほんの少し、何か伝わるものがあればいいと、エミリーは手元のリボンに視線を落とした。

 肩にかかる重みが増して、エミリーは体を硬くした。どうしようと勇気を出して顔を向けると、イルケトリは目を閉じて、顔を歪めていた。前髪が流れて、まつげにかかっている。ふざけているわけではなく本当に具合が悪いのだと、エミリーは勘ぐってしまった自分を叱る。

「痛いの? つらい?」

 イルケトリは力なく目を開く。

「ちょっと波があるだけだ」

 そのまま目を閉じてしまい、エミリーはおとなしくイルケトリの重みを受けとめる。

 声のなくなった空気の中で、バニラの香りが流れてくる。甘くて、何かこうのような匂いが混ざった、頭の芯がぼんやりする香りだ。

 イルケトリはいつも、バニラと、おそらくジャスミンの香りがする。甘くて、艶があって、よく似合っている、いい匂いだ。

「ねえ、イルキいつも香水つけてるの?」

 少しでも痛みが紛れればと話しかける。エミリー自身の恥ずかしさもついでに紛らす。

 イルケトリはだるそうに、けれど逆に艶っぽくしか聞こえない、吐息のような小さな声でうなる。

「そうだな……お前もつけてるだろ、いつも。リネンみたいな」

 多分、リネンの香りづけに使うラベンダーのことを言っているのだろう。エミリーがいつもつけている香水には、ラベンダーとバラ、バニラが入っている。

 隣で身じろぎされて、エミリーは身構える。妙に動かれて何事かと振り向けば、イルケトリがうつむくようにエミリーの首筋に顔を寄せていた。

「甘い匂いがする」

 ささやかれた声があまりにも秘め事のようで、エミリーはもはや何も考えられなくなった。まともに考えれば羞恥と熱さと動悸で意識が遠のきそうだと思って、心を空っぽにする。イルケトリは痛みで少しおかしくなっているだけだ。

「嫌いじゃない」

 首筋に吐息が触れたような気がして、せっかく考えないようにしていたことが全部ぶり返した。つきとばしたくなったが、けが人に乱暴なことをするわけにはいかない。恥ずかしくて、鼓動が強すぎて、どうすればいいのか分からない。

「あ……りがとう! もういいでしょからかうのは!」

 精いっぱい声をはり上げると、イルケトリが小さく笑ったのが聞こえた。やはり、からかっていたのだ。身じろぎされて少しだけ距離が離れたのを感じたが、相変わらず肩に重みは残ったままだ。

「お前にもうひとつ謝りたいことがある」

 今度は何だと構えたが、イルケトリの声は真面目で、エミリーはほんのわずかに体の力を抜く。

「な、何?」

「お前が出て行く前に言ったことは……言いすぎた。すまなかった」

 エミリーの中に一番深く残った言葉を、思い出した。そうして、同じことを感じていたのだと、素直に気持ちが落ちてきた。

「あたしもちょっと言いすぎた。ごめんなさい」

 言葉のない、けれど苦痛ではない空気が、ある。

「連れ戻せて、よかった」

 穏やかな呟きだった。

「ありがとう」

 イルケトリは思い出したように、聞こえないくらいの声で付け加えた。なぜ礼を言われるのか分からなかったが、エミリーは息を吐いて、鼓動が段々緩やかになっていくのを感じていた。

「どういたしまして」

 ささやかな仕返しとして、いつかしてくれたように、手を伸ばしてイルケトリの額に触れた。本当は頭の上がよかったのだが届かなくて、エミリーはイルケトリの前髪をくしゃくしゃに撫でた。

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