5話 守るための力(9)

 芝生を踏むかすかな音に、エミリーは驚いて振り返った。黒い木々の並びに隠れるように、白っぽい髪が揺れる。

 しゃがみこんだシンティアが、エミリーのほうを見つめていた。シンティアは体をかがめたままエミリーのところへ来る。

「よかった、エミリー、大丈夫?」

「イルキが、落ちて、木に」

 気遣う顔をしたシンティアに、エミリーは泣きそうな声を上げていた。

「呼んでも起きないの。どうしよう、あたし、どうしよう……!」

 抑えこんでいた感情が決壊した。一度口に出してしまうと、最悪のほうへ気持ちが転がり落ちていって、止まらない。

 シンティアはエミリーの頬を手の平で包みこんで、淡く微笑んだ。

「大丈夫。大丈夫だから。ね?」

 シンティアはイルケトリの横へ移動すると、倒れているイルケトリを観察するように眺めて、急にイルケトリの体をうつぶせに返した。エミリーは悲鳴にならない息を飲みこんだが、シンティアは冷静に、イルケトリの背中と脚に手を当てた。

 シンティアの手から、消えてしまいそうなほどかすかな光があふれる。あふれた光は水のような液体で、イルケトリの体に広がっていく。イルケトリの背中で、あふれた光の水がつながってひとつになる。頭からつま先までを覆った光の水が、静かにたゆたっているのが分かる。

 イルケトリの背中が跳ねて、エミリーは体を震わせた。イルケトリが激しくせきこみ出す。

「イルキ、うるさい、見つかる。もういい?」

 シンティアが迷惑そうに顔をしかめる。イルケトリの上体が起こされるのとともに、光の水が消える。

「それは悪かったな。助かった」

 イルケトリはひとつ咳をして、シンティアを睨みつける。皮肉なのか感謝しているのか分からない。

「経路は?」

「今なら手薄だから予定どおり行ける。なるべく早くして」

 イルケトリとシンティアがエミリーにはよく分からない言葉を交わし合うと、イルケトリは立ち上がった。

「行くぞ、早く」

 エミリーは差しのべられたイルケトリの手を見上げる。考えるのをやめてしまいほどぐちゃぐちゃになった頭の中から、必死で言葉を選び取る。

「痛くないの? 大丈夫なの?」

 か細い声になってしまって、指の内側がまだ震えていることに気付いた。先ほどまで動かなかったのに、イルケトリは何事もなかったかのように動いて、しゃべっている。

 イルケトリは吐息のように「ああ」と思い出した様子でもらした。

「大丈夫だ。最悪窓から逃げる場合はこうやってシンティアが治す計画だった。何の考えもなしに飛び降りたりするほど能なしじゃない」

「俺の魔飾は『治癒』だよ。触ったところの治癒力を促進させる。促進させるだけだから不治の病とかは治せないけど、本人が頑張ればさっきのけがくらいは治せるよ。本当は疲れるからやりたくないんだけど。魔飾はこれ」

 シンティアはズボンのポケットから白いハンカチーフを出す。イルケトリを逆さまにしたのは背中から落ちたからだろうかと、エミリーは納得する。

「帰ったらお菓子でも食べながらふたりで話そう? もっといろいろ教えてあげる」

 柔らかい透明な笑みでエミリーをのぞきこんでくるシンティアを、イルケトリが苦々しい顔で見下ろしている。

 エミリーはもはや収拾のつかない疑問や意見を全部しまいこんで、イルケトリの手を取って立ち上がろうとした。けれど足に力が入らず、手だけ引っぱられて芝生に前のめりに倒れそうになる。驚いた顔をしたイルケトリを見上げて、エミリーは自分が嫌になって泣きそうになる。

「ごめんなさい、立てない」

 一秒でも早くこんなところから逃げ出したいのに、足かせになっているのが自分自身だということが、本当に嫌だった。イルケトリが落ちたときも、エミリーの運動神経がよければイルケトリの負担を減らせたかもしれないのだ。

「あ、じゃあ俺が抱」

 シンティアの言葉の途中で、イルケトリが芝生にひざをつく。エミリーの腰を抱いて肩にかつぎ上げて、立ち上がる。エミリーは悲鳴を飲みこんでイルケトリの背中をつかんでいた。

 イルケトリはどこかためらったように、エミリーの腰に回していた腕をわずかに動かした。

「お前、肉つけるんだったらもう少しつけるべきところにつけろ」

 イルケトリの呟きの意味が分からず、エミリーの思考は止まった。イルケトリは建物に沿って並んだ木に隠れるように歩き出す。

(ちょっと、待って、今、何を……)

 つながりたくなかった事実がつながってしまって、エミリーは燃えるように体が熱くなった。

 今、コルセットをしていない。室内着のようなドレスの下はシュミーズとドロワーズだけだから、感触など伝わり放題なのだ。しかも木に落ちたときにできたのだろう裂け目が腕にあって、切り傷とともに肌があらわになっている。ほかのところも破れているはずだ。

「ばか、変態、下ろして」

 かろうじて声はひそめたが、エミリーはイルケトリの背中を何度も叩いていた。

「もう歩けるようになったのか?」

 からかうように笑みを含んだ声が背後から返ってくる。「叩くな。痛い」と付け加えられて、先ほど倒れていた姿を思い出してしまい、手を止めるしかなくなる。

「イルキ、何でじゃますんの。エミリーは俺が抱っこするの」

 シンティアが隣で不満しかない顔でイルケトリを睨んでいる。

「お前より俺のほうがまだましだ」

「ていうか何、その抱え方。エミリーは荷物じゃないよ」

「片手使えないんだからしょうがないだろ」

「そもそもエミリーのこと全然見てないくせに。エミリー意外と胸お」

「ちょっと変態、ばか、何言ってるの」

 エミリーはあやうく叫びそうになった。泣きそうな気持ちでシンティアに向けて腕を振り回すと、イルケトリに「痛い」と怒られた。

 エミリーは羞恥に埋もれて消えてしまいたい気持ちで、イルケトリの肩の上でおとなしく力を抜いた。大体まだ逃げきれたわけではないのにこいつらは一体何を話しているのだと、心の中でうめく。けれど前にもイルケトリに似たようなことをされた、と思い出した。エミリーがヒフミの魔飾を教えてもらえないと落ちこんでいたときだ。

 多分、イルケトリはエミリーをからかって元気付けようとしてくれたのだ。おかげでもう震えは止まって、飽和寸前だった感情も落ち着いていた。こわばっていた体が柔らかくなって、何だかばかばかしくなって、少しだけ笑ってしまった。

 エミリーはイルケトリの肩から下ろしてもらった。火事だと触れこんで中庭から外までの道を確保してくれたのはシンティアだと知った。

 月の昇る黒い空のなか、エミリーはイルケトリに手を引かれ、振り返ってシンティアに微笑みかけられる。ラッチェンスの敷地の外、ミス・ドレスの周囲に似た黒い森へ、駆けた。

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