5話 守るための力(8)

 エミリーは反射的にイルケトリの前へ飛び出していた。拳銃の銀色が炎の明かりに揺れる。血の気が引く。

(お願い! やめて!)

 胸にリボンを抱きしめて、手を横へふるう。軌跡をなぞるように、まばゆい橙の炎が立ち昇り、ヴァイオルトへ躍りかかる。

 ヴァイオルトは右腕で炎を受けるように顔をかばった。炎に包まれた右腕が煙をあげ、橙色をなくしていく。

 顔をかばう形で止まった腕は、焼けたシャツとの境目があいまいに、ただれていた。黒いレースの手袋だっただろうものも肌に張りついている。

 拳銃を握りしめたままの腕が、下ろされていく。あらわになる見開いたヴァイオルトの目と目が合って、エミリーは吸った自分の息の音で体の感覚を取り戻した。

 人を、傷付けた。明確な意思をもって。

 うそのように足が震え出す。指が、体が震える。立っていられなくなる。

「落ち着け! 大丈夫だ」

 背中を支えられる。かたわらで、イルケトリが腕をつかんでいてくれる。今のうちに逃げなければいけない。なのに。

 ヴァイオルトから、目が離せない。

「気が変わりました」

 ヴァイオルトは驚愕きょうがくのまなざしから、別人のように冷静な表情になる。イルケトリが身構えたのが、つかまれた腕の感覚で分かった。

「僕の魔飾は『制御』です。他人の魔飾と魔法を強めたり、弱めたりできます。けど、エミリー。君には効いていない。この腕が何よりの証拠です」

 ヴァイオルトは平然と焼けた腕を差し出してくる。部屋を囲む炎に照らされる腕から、エミリーは必死に目をそらす。

「魔飾で受けてもこのざまです。効かない理由はいくつか考えられますけど……君に興味がわきました」

 突拍子のない言葉に、エミリーは思わずヴァイオルトに視線を戻してしまった。

 ヴァイオルトは腕のことなど感じさせない、強い微笑みを浮かべる。

「君自身に興味がわきました。君を籠絡ろうらくすればイルキも言うことを聞いてくれる。けど今日はあいにくこのざまなので、素直に諦めます。また日をあらためて迎えに行きますね。君を、イルキともども」

 ヴァイオルトの妖艶な笑みに、エミリーは何を言われているのか分からなくなる。

「結構痛いんですよ? 両方とも。だから少しのあいだ、さようならです」

 ヴァイオルトは微笑を残したまま、右腕と、先ほど切りつけた左の手の平を見せてきた。

 逃げてもいい、と言われている。罠かもしれない。けれど、支えてくれていたイルケトリが、かばうように前に出る。

「また来る。ヴァイオルト」

 そうして、エミリーはイルケトリに手を引かれる。煌々こうこうと橙色が燃え立つ部屋の中、ヴァイオルトと従僕へ体を翻そうとした瞬間。

 ヴァイオルトの斜め後ろにいた従僕が、腕を持ち上げた。向けられた銀色の銃身が、炎を映して浮かび上がる。こげ茶の髪にヘーゼルの瞳の青年が、冷たくも激しくこちらを睨んでいた。

「ヴァイオルトさまを裏切るなんて、許さない」

 やはり、罠だったのか。体の熱が引きかけたとき、ヴァイオルトが驚いた顔で振り返る。

「アーノルド? 何をしてるんです?」

 エミリーは訳が分からずヴァイオルトを見つめる。けれど考える間もなく、イルケトリに強く手を引かれて、つんのめる。

「ヴァイオルトさまが許しても、わたくしはイルケトリさまがこれ以上ヴァイオルトさまを裏切るのは許せません。連れ戻します。それこそ、殺してでも」

「エミリー! 走るぞ!」

 イルケトリの緊迫した声と、金属を弾く重い音が聞こえたのは、同時だった。イルケトリに手を引かれて、ドアのほうへ走る。けれど足が言うことを聞かず、つんのめってしまって速く走れない。もう一度金属の音がして、発砲されているのだと分かった。立て続けに発砲されて、イルケトリがエミリーをかばうように方向を変える。

「アーノルド! やめてください!」

 ヴァイオルトが従僕の青年に立ち塞がるのが横目で見えた。悲痛な面持ちは演技には見えず、青年が独断で撃っているのだと分かった。イルケトリは炎のあいだを抜けて窓のほうへ向かって走る。

 青年がヴァイオルトを押しのけて、重い火薬の音が響いた。途端、目の前のイルケトリが崩れ落ちて、エミリーも一緒に転ぶ。

 うずくまったイルケトリの背中を見て、世界が静止する。

「イルキ!」

 ヴァイオルトの裂くような叫びで、空気が動き出す。撃たれた、のだ。喉が自分のものではないように、声が、出ない。

「エミリー。離れるな」

 小さな声が、聞こえた。イルケトリが顔を上げていき、強い瞳と目が合う。炎の揺らめくエメラルドが、青年をまっすぐ見据える。音がするほど、イルケトリは黒い手袋に包まれた左手を、板張りの床にたたきつけた。

 イルケトリの手から、床へ黒いつる草が描かれていく。まるで、甲の刺しゅうが生きているように、流麗に。美しい、幻を見ているようだった。イルケトリの手から、青年とヴァイオルトの足元まで縦横無尽に伸びたつる草は、音もなく床を、消し去った。

 青年とヴァイオルトと、従僕たちが落ちていく。目を見開いて、泣き出しそうに顔を歪めたヴァイオルトが、イルケトリのほうを見ていた。

 何かが壊れるけたたましい音とともに、エミリーは立ち上がったイルケトリに手を引かれた。

「早く、壊れる」

 エミリーが座りこんでいる床が不穏な音を立てる。部屋の真ん中にあたる床が消えたからだ。立ち上がろうとするが、まったく足に力が入らない。声も出せずにいると、イルケトリがしゃがみこんでエミリーを肩にかつぎ上げた。イルケトリが駆け出したそばから、踏んだ床が壊れて階下へ落ちていく。

「イ、ルキ、う、撃たれたんじゃないの? 痛くないの?」

「かすっただけだ」

 ようやく情けない声が出たのもつかの間、イルケトリが窓のほうを向く。わずかに残った床に、逆光の月明かりで窓枠にふちどられたイルケトリと、抱えられている自分の薄い影が、映った。

「舌かむなよ、飛ぶぞ!」

 イルケトリの言葉の最後が、風の音にかき消される。背中から引きずり落とされるような容赦のない感覚が襲いかかってきて、エミリーは絶叫した。目をつぶり、体が回転したような気がして、激しい葉音と枝の折れる音が耳を裂く。体のあちこちに鋭い痛みが走り、衝撃があって、静かになった。

 エミリーは震えの残る指先を感じながら、目を開けて、顔を上げた。建物に沿って木々の黒い影が並んでいる。中庭に落ちたのだ。すぐに違和感があって視線をずらすと、エミリーの下でイルケトリが顔を歪めて目を閉じていた。頬に切り傷ができて、枝葉が髪に絡まっている。

 エミリーはとっさに体をずらす。体のそこかしこが痛んだが、動けないほどではない。腰に回されていたイルケトリの腕を外して、芝生へ座る。

 イルケトリが、動かない。どうせまた「重かった」などと軽口を叩くのだろうと思っていたのに、身じろぎもしない。イルケトリの表情を見たときから感じていた不安が、にじんで広がっていく。

 エミリーは震えそうになる指先に力を入れて、イルケトリの肩を叩いた。

「イルキ、イルキ?」

 反応がない。よぎってしまった最悪の予感を否定して、イルケトリの胸に、手を置いた。

 鼓動は、あった。胸も上下している。けれど動きが速くて、小さい。エミリーをかばって衝撃をまともに受けたからか。それとも本当は撃たれていたのか。どこか折れていたとしても、血が出ていたとしても、暗くてよく見えないのだ。どうすればいいのか分からない。イルケトリの胸に置いた手が、震えて止まらない。

 どこか遠くのほうで、「火事だ」と叫ぶ声がした。エミリーは意識を引き戻される。

(逃げなきゃ)

 イルケトリが危険をおかしてまで飛び下りたのは、逃げるためだ。エミリーをかばってくれたのだ。今度はエミリーが、イルケトリを引きずってでも逃げなければ。

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