5話 守るための力(7)

 従僕が三人、待ち構えていたようにイルケトリの前に銃口を向けていた。エミリーが振り返ると、追いついてきた従僕が背後にも拳銃をつきつけている。

 部屋の中から、分厚い本を閉じたような音がした。

「中へどうぞ」

 高くもない、低くもない、弦楽器のような深みのある声だ。拳銃をつきつけた従僕へ促されるように、イルケトリとエミリーは部屋の中へ入る。

 中は続き部屋なのか横に広く、部屋の四隅に置かれた大きめのランプ以外、調度品が何もない。

 一面の窓から注ぐ月明かりを背にして、閉じた大きな本を持ちながら、ヴァイオルトは目を細めた。

「こんばんは。いい夜ですね、イルキ。と言ってもさっき会ったばかりですけど」

 ヴァイオルトは本を足元に置くと、板張りの床を靴音を鳴らしながら歩んでくる。従僕たちが拳銃を構えたまま道をあけるように横によけ、ヴァイオルトは悠然とイルケトリの数歩前へ立つ。

「思ったより早かったです。一日くらいは我慢できるようになったのかと思ってましたけど、やっぱりイルキは優しいですね」

 エミリーは握られたままになっていた手に力がこめられたような気がして、隣のイルケトリをわずかに仰いだ。イルケトリは何か信じられないものを見たときのような、迷いを含んだ表情でヴァイオルトを見つめていた。

「戻ってきてくれる気になりました? それともひとりで帰ります?」

「惑いの真紅はどこだ」

 エミリーが聞き間違いかと疑ったのと同時に、ヴァイオルトがけげんそうに首をかしげる。

「彼女が持っていたものですか? 聞いてどうするんです? ああ、彼女のために捜してあげてるんですか?」

 エミリーのリボンの話は先ほど決着がついたはずだ。イルケトリに何の考えがあるのか、エミリーにはまったく読めない。

「惑いの真紅も、彼女も、イルキが戻ってきてくれればちゃんと解放しますよ」

 ヴァイオルトが慈悲深く微笑む。イルケトリは険しい表情をしたまま口を開かなかった。

 険しさの中に薄く漂っていた迷いのようなものが、消えた。

「俺が戻れば店にも、こいつにも、真紅にも手出ししないな?」

 エミリーはイルケトリを仰いでいた。

「ええ。僕の望みはイルキが戻ってくることですから」

「証拠を見せろ」

「証拠ですか?」

 ヴァイオルトは悩んだように小さくうなると、ウエストコートの内側から折りたたみナイフを取り出した。刃を開いて、迷いなく左の手の平を切り裂いた。

 エミリーは悲鳴をかみ殺した。握手を求めるようにイルケトリのほうへ差し出されたヴァイオルトの左手から、血の滴が落ちる。

装縫師そうほうしの手は命と同じ。もし僕が約束を破ったら、切り落としてもらって構いません」

 ヴァイオルトの微笑みの中には、暗い、憎しみのような激しい感情が宿っていた。

 イルケトリはひるんだ様子もなく、真剣な表情でヴァイオルトを見据えていた。イルケトリの表情に、エミリーの胸が波立つ。

(ちょっと、待って、まさか)

 声を出そうとした。けれどイルケトリの声のほうが早い。

「分かった。お前の言うとおりにする」

 たしかに、エミリーはイルケトリが低く呟くのを見た。イルケトリを仰いだまま、言葉は頭の中にあふれているのに、声にならない。そんな、どうして、信じられない、うそでしょう、渦巻く言葉の中から、ひとつ、思いが形になっていく。

(あたしがリボン取り返したいって言ったから?)

 だから、イルケトリを迷わせたのか? もう逃げられないと、諦めるきっかけを与えてしまったのか? 自分を犠牲にして、エミリーとリボンを守ろうというのか?

 それは、だめだ。リボンは大切だけれど、イルケトリと引き替えにしていいものではない。

「待って、イルキ」

 つながれていた手が、離れていく。

「待って、リボンは大丈夫だから!」

 離れてしまった手をつかもうとするが、イルケトリはヴァイオルトのほうへ歩き出して、つかめない。エミリーの横から従僕が左右に立ち塞がってきて、拳銃を向けられる。

 イルケトリはヴァイオルトの目の前で止まった。ヴァイオルトが顔をほころばせる。

うれしいです。やっと分かってくれたんですね。明日からまた一緒に、ずっと一緒に働きましょう」

 ヴァイオルトは心からわき上がる歓喜そのままのように、笑った。憎悪などない、ただ本当に兄を慕う弟に見えた。

 イルケトリがほんの一瞬だけ、胸をつまらせたように表情を揺らめかせた。

「そうだな。また」

 イルケトリは表情を消した。ナイフを持ったままのヴァイオルトの右腕をつかんで、ヴァイオルトのウエストコートの内側に手を入れた。

 取り出されたイルケトリの手には、白い小さな箱。声を失っているヴァイオルトよりも、引き金に指をかけた従僕よりも速く、イルケトリが箱を開ける。

「エミリー!」

 イルケトリが、振り返る。強い目だ。いつかと同じ、強い声だ。イルケトリが、箱から取り出した真紅のリボンを、投げる。

「お前の魔法は傷付けるためじゃない、自分を守るための力だ!」

 エミリーは左右に立ち塞がっていた従僕より速く、手を伸ばす。大切な、心をこめたリボンを、つかみ取る。

 そうだ。これは、自分自身を守るための、力だ。

 胸元に抱きしめたリボンから、全身に鳥肌が立つような感覚とともに、火柱が放たれる。従僕の悲鳴が上がり、エミリーを中心に部屋が赤に包まれる。

 イルケトリが従僕をかいくぐり、エミリーのもとへ走ってくる。手を取られて、かばうように引き寄せられる。けれど足が動かずに、イルケトリの胸へ思いきりぶつかってしまった。

 イルケトリは気付いたようにエミリーを見下ろして、荒っぽく頭をでた。

「いい、よくやった。上出来だ」

 ふと、撫でられた感触がきっかけになったように、ひざに感覚が戻ってくる。もう大丈夫だと、走れると伝えようとして顔を上げると、イルケトリはこちらを見つめるヴァイオルトを、見据えていた。

「どうして……惑いの真紅だから?」

 かげろうのような炎を背にして、ヴァイオルトは目を見開いてうわごとのようにもらす。その目は、はっきりとエミリーを捉えていた。

 イルケトリが強い感情を持ってヴァイオルトをにらむ。

「ヴァイオルト。俺は戻らない。店も、こいつも、渡さない」

 ヴァイオルトは我に返ったようにイルケトリに視線を移し、暗く、あざけるように、笑った。

「いくら逃げたって同じことです。何度でも繰り返して、そのたびにイルキのまわりにいる人が不幸になるんです」

「そうだ。だからもう終わりにするためにお前と話し合いたい」

「話し合いならしたでしょう? 平行線にしかならないのは分かってるはずです」

 イルケトリはためらったように、ほんのわずかに痛みを持った顔をした。

「お前を、そこまで追いつめたことを、ちゃんと謝りたい」

 ヴァイオルトはあぜんとしたように笑みを失わせて、もう一度、強く、引きつったように、あざ笑う。

「今さら何を言ってるんです? ならどうしてもっと早く話してくれなかったんですか? 僕を置いていったくせに。嫌だって言っても聞かなかったくせに。ずっと、嫌いだったのに好きだってうそをついてたくせに!」

 ヴァイオルトの声は、切り裂くようだった。イルケトリはわずかな痛みを残した目のまま、ヴァイオルトから目をそらさなかった。

「もう俺は逃げたりごまかしたりしない。これからどうしたいか、ちゃんと話し合いたい。お前のことは嫌いだった。今はもっと憎い。けど、こんなことをされてもまだどこかお前がやったんじゃないと思う自分がいて、いっそのこと完全に嫌いになれたら楽なのに、俺は……お前が好きだ」

 ヴァイオルトの表情が抜け落ちる。ほんのわずかに、わななくように、泣きそうに揺らめく。けれどすぐに激情にかき消される。

「うるさい!」

 ヴァイオルトがウエストコートの内側に手を入れる。銀色の拳銃をイルケトリへ向ける。

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