5話 守るための力(6)

 エミリーは何とか息を整えて、顔を上げた。

「ごめんなさい。ありがとう。逃げよう」

 頭に置かれていたままだったイルケトリの手が離れる。イルケトリはまだ戸惑った顔をしていた。

「もしかして、助けに来ないと思ってたのか?」

 エミリーは頷く。

「お前、俺を何だと思ってる? さすがに助けに来ないと人として最低だろ」

「うん。だから人として最低だなって思った」

 イルケトリは多少罪悪感はあるのか、口を曲げてふてくされたような表情になる。たしか前にもこんな顔をしていた。エミリーの部屋に謝りに来たときだ。すねてしまったのだろうかと、エミリーは思わず笑っていた。

「でも最低じゃなかった。来てくれてありがとう」

 イルケトリは驚いたように目を開いて、そらした。もしかして照れたのかと思ったが、イルケトリの表情は痛みを感じているように影を持っていた。エミリーが不思議に思うと、イルケトリは何事もなかったかのように立ち上がる。

「あのとき助けに行かないって言ったのは、ヴァイオルトにお前を人質にしてもしょうがないって思わせるための演技だ。効かなかったみたいだけどな。ただ、不安にさせたのは悪かった」

 イルケトリがエミリーに手を差し出す。エミリーは一瞬恥ずかしさに迷って、結局素直に手を取った。体が引き上げられて、風に残り香のような甘いバニラが香った。

「行くぞ」

 ドアへ歩き出すイルケトリのあとへついていく。そういえばどうやって鍵を開けたのだろうと思っているうちに、イルケトリがドアを開けた。

 外へ出たイルケトリに続いて廊下に出ると、黒服の従僕がふたりまとめて縛られて、こうべをたれて座りこんでいた。口には布までかませてある。思わず指差してイルケトリを仰ぐと、頷かれた。先ほどの物音はこれだったのだ。イルケトリは意外と強いのだろうか。

 ドアを振り返ると、鍵穴の部分がまるで切り取られたようにあいていた。指が向こう側へ通る。

「エミリー」

 イルケトリの抑えた声にエミリーは振り向く。イルケトリはいつになく真剣な表情をしていた。

「今から俺の左手には絶対触るな」

 イルケトリの左手に黒い革の手袋がはめられていることに、初めて気付いた。甲の部分に黒でつる草のような模様が刺しゅうされているのが見えた。

(イルキは、特別。イルキは、自分の魔飾を憎んでる)

 ヴァイオルトの言葉が浮かんできて、言いようのない嫌な感覚が広がっていく。

「それ、魔飾なの?」

「あとで話す。外に出るぞ」

 イルケトリがほの暗い廊下を歩き始める。嫌な感覚を抱えたままエミリーはイルケトリの横に並ぼうとして、弾かれたように思い出した。

「待って、リボン」

 叫ぶのはどうにか寸前でこらえて、イルケトリの腕をつかんでいた。イルケトリが驚いたように振り向く。

「リボン、ヴァイオルトに取られたままなの。あの、赤いやつ」

「惑いの真紅のことか?」

 エミリーが頷くと、イルケトリの表情がかげる。

「それは……諦めろ」

「そんな、どうにか取り返す方法とか」

「命よりリボンのほうが大事なのか?」

 反論しかけたエミリーの言葉を、イルケトリの静かで強い言葉が制す。

 リボンは、大切だ。生きていく意味の、シャーメリーのドレスと同じくらい。

 けれどイルケトリの言うとおり、今は生きていることのほうが、大切だ。

「分かった」

 エミリーは大きな喪失感を押し殺しながら、うつむきそうになるのをこらえた。今度こそ歩き始めたイルケトリについていく。

 窓のない廊下は片側にドアが並んでいて、壁かけランプにはまばらにしか火が入っていない。じゅうたんなので幸い靴音は響かない。いつ誰が来るかと、肌がひりつくほど身構えて歩くが、人の気配がない。

 階段で、一階ぶん下へ。一階ぶんで途切れていたことが、脱出も侵入も難しい建物なのだろうとうかがわせた。

 また先ほどと同じような廊下を足早に歩いていると、前方の分かれ道から黒い人影が小さく現れたのが見えた。ほとんど同時にイルケトリに手を引かれ、一番近くのドアの中へ引っぱりこまれる。

 部屋の中でドアの横に背をつけて、イルケトリが険しい顔で口の前に人差し指を立てた。エミリーは頷いて、イルケトリの横で壁に背を押しつける。部屋の中はカーテンがなく、質素な木製のベッドフレーム、デスク、チェストが月明かりに浮かんでいた。

 イルケトリを仰ぐと、厳しい顔でドアを見つめている。

(そっか、じゅうたんだから足音が聞こえない)

 エミリーたちにとって好都合なことは、相手にとっても同じだったのだ。これではやりすごせたのか、気付かれてしまったのか分からない。

 自身で感じ取れるほど、鼓動が速く大きくなっていく。もう通りすぎたのか、それとも数秒後には踏みこまれているのか。いつ引かれるか分からない縄を首にかけられているように、張りつめた恐怖を必死に抑えこむ。

 ドアが開いた。エミリーがそう認識したときには、黒服の従僕がふたり、イルケトリへ拳銃を向けていた。

 イルケトリは何のためらいもなく、つきつけられた拳銃を黒い手袋をした手でつかんだ。拳銃に何かがうごめいたように見えて、拳銃が跡形もなくかき消える。イルケトリが脚を振り上げて従僕のあごを蹴り飛ばし、もうひとりの拳銃をつかむ。拳銃を握り潰すようにかき消して、勢いをつけて従僕のあごを蹴り上げた。

 従僕が崩れ落ちる。ふたりとも、伏して動かない。エミリーは体のこわばりが解けないまま、ゆっくりとイルケトリに目をやる。

 イルケトリは痛みに耐えるように顔を歪ませて、手袋をしたほうの手首を握りしめていた。

(イルキは特別。直感。絶対に、触るな)

 エミリーの頭の中で言葉が連鎖する。

 イルケトリは間違いなく、拳銃を消した。

 イルケトリは痛みをこらえるような顔のまま振り返ると、エミリーの手を引いた。

「走るぞ。もう気付かれてる」

 エミリーは返事をする前に部屋から連れ出され、廊下を走る。

 閉じこめられていた部屋の、鍵穴が切り取られたようにあいていた理由が分かった。イルケトリが中に入るために鍵穴を消したのだ。

 廊下の前方に従僕が現れる。ふたり、さらにふたり、四人になる。一度に相手できる数ではないと判断したのだろう、イルケトリがきびすを返してエミリーの手を引く。けれどそちらからも従僕が六人ほど迫ってくる。

 イルケトリは舌打ちして一番近くにあったドアへ走った。体当たりするように、開けた。

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