5話 守るための力(5)

 エミリーは目を覚ました。眠ってしまっていたことに気付いて、跳ね起きた。幸い、めまいとみぞおちのあたりにあった気持ち悪さはだいぶやわらいでいた。

 エミリーは部屋を調べ始めた。ドアには鍵がかかっており、もうひとつあったドアは洗面所のもので、外には通じていなかった。カーテンを開けた先の窓にも鍵がかかっていて、ガラスの向こうの闇に目をこらすと、眼下に木の並ぶ中庭と思わしき風景が見えた。どうやら四、五階ほどの高さらしい。

 時計がないので分からないが、おそらく数時間しかたっていない。丸一日眠っていたとしたら、ヴァイオルトが爪をはぎに来ているはずだからだ。酷いめまいと気持ち悪さは、眠らされるときに使われた薬のせいだったのだろう。そこまで考えて、立ちつくした。

 状況が、厳しい。逃げ出すとすると、ドアは壊す手段がない。家具はベッドとデスクだけで、椅子などの持ち上げられるものが一切ないのだ。

 可能性があるとすれば窓で、デスクの上にある本をまとめてシーツでくるみ、窓を叩き割って、つなげたシーツをロープ代わりにして下りるしかない。最悪の手段は壁かけランプの火でシーツを燃やして火事を起こすことだが、それは本当に最後の最後にしたい。あとはドアが開くのを狙って逃げ出すか、ヴァイオルトを説得するかだ。

 すべて綱渡りのように、安全なものはひとつもない。監禁されているところから逃げ出すなど、人生で初めてなのだ。けれど自分しか頼れない以上、どれかを選ぶしかない。何もせず暴行されるのは嫌だ。

『お前、そうやって自分を可愛かわいがって嘆くだけで、現状を変えようと努力したのか? そうやって人のせいにして自分は何もしないやつが俺は一番嫌いだ』

 なぜか、イルケトリの言葉が浮かんできてしまった。たしかに、現状を変えようと努力しなければ今エミリーの身は危ういが。

「何で思い出しちゃうのかなあ」

 傷と、痛みとともに、ほんの少しだけ、後悔がある。ミス・ドレスに来なければよかったと、ぶつけた気持ちは本当だ。けれど、来てよかったこともあったのだ。

 掃除中、風に乗ってくるキンモクセイの心緩む香り、料理のためにつんだレモンバームの、淡いレモンの香り。ヒフミと毎日の食事の準備で少しずつ親しくなれたこと。イルケトリが悩んで、部屋まで謝りに来てくれたこと。

 あのときの怒りはおさまったわけではない。ただ、過去に起きてしまったことに文句を言っても、新しいものは生まれてこないということも、分かっているのだ。

(ほんのちょっとだけ、言いすぎたって、言いたい)

 絶対に謝らないし、謝られなければ気が済まないが、その気持ちだけは伝えたかった。

(そのためにはここから逃げないといけないんだけど……いや、でもそもそもこんな目に合ってるのってイルキのせいだよね?)

 本当に悪いのはヴァイオルトだが、イルケトリに対してもやのような不満がわき上がる。大体いくら保身のためとはいえエミリーを見捨てるなど、人として最低だ。考えていたら、段々腹が立ってきた。

「やってやろうじゃない。言葉どおり」

 王子は来ない。助けを待つ姫という柄ではない。努力で、自力で現状を変えてやる。

 今なら勢いで何でもできそうな気がする。もう逃げてしまおう。そう思ってシーツに手をかけたとき、ドアのほうから何かがぶつかったような大きな音がした。驚いてシーツから手を離して身構える。けれどそれ以上何も聞こえてこないので、誰か転びでもしたのだろうかと、もう一度シーツに手を伸ばす。

 ドアが開く音がした。エミリーは体を跳ね上げて振り向く。

 壁かけランプのだいだい色と陰影をまとって、イルケトリが、入ってくる。迷うことなく、エミリーのほうへ歩んでくる。

 イルケトリが、こわばった顔でエミリーの前に立つ。

「けがは?」

 エミリーは反射的に首を横に振る。

「行くぞ」

 エミリーが頭の中であふれる言葉からどれを拾えばいいのか分からなくなっていると、腕を引かれた。

「ちょっと待って、何? どういうこと? 何しに来たの?」

 イルケトリは思いきり眉をひそめた。

「助けに来たに決まってるだろ」

 エミリーは目を見開いた。つかまれていた腕を引かれて、つんのめった。イルケトリが慌てたように、つかんでいた腕でバランスを取る。

「具合悪いのか? 大丈夫か?」

「どうして?」

 イルケトリを見上げて、呟いていた。

「もしかしてリボンのため? あたしがいなくなると分からなくなっちゃうから? 調べてるって言ってたもんね」

「そういうわけじゃない」

「じゃあ何で?」

 イルケトリは面食らったように目をそらす。具合が悪そうに口を引き結んでいたが、はっきりとした瞳でエミリーを見つめる。

「お前が必要だからだ」

 エミリーはイルケトリを見つめ返す。イルケトリは顔をそらしてしまい、体を翻す。

「分かっただろ。早く逃げ」

 ひざから力が抜けて、エミリーは勝手にボルドー色のじゅうたんに座りこんでいた。腕をつかんでいたイルケトリが引っぱられるように振り返る。焦ったように表情を変えて、しゃがみこむ。

「大丈夫か?」

 エミリーは同じ目線になったイルケトリをただ、見つめていた。

 絶対に、助けに来ないと思っていた。けれど、来てくれた。

 エミリーが必要だと、言ってくれた。

 涙がこみ上げてきた。泣きたくなくて顔をそむけたが、今まで抑えこんでいた恐怖や、衝撃や、憤りや、驚きが安堵とともにあふれてきて、涙が落ちてしまった。

「ごめん、なさい」

 顔をうつむけて涙を拭う。イルケトリに見られたくない。泣いている場合ではなくて、早く逃げなければいけないのに。

 頭に何か触れて、少しだけ顔を上げると、イルケトリの手だと分かった。すぐに涙があふれてきてしまって、顔を伏せる。

「すまなかった」

 ためらったような小さな声だった。正直、いくら謝られても足りないくらいだ。けれど。

(ばか。今は逆効果だっていうの)

 エミリーはこみ上げてきた涙と一緒に、しゃくり上げた。

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