5話 守るための力(3)
ヴァイオルトが息を吐き出すのが聞こえた。
「まさか断られるとは思いませんでした。でも大丈夫です。君が苦しんでいる証拠を見ればすぐ戻ってきてくれますよ」
「イルキは、来ない」
ヴァイオルトがベッドまで歩み寄ってくるのを感じながら、エミリーはドレスとシーツの白を見つめて
イルケトリは、来ない。エミリーはもう関係のない存在だからだ。イルケトリ自身と、エミリーとどちらが大切かといえば、当然自分を選ぶだろう。意に沿わないこと、ラッチェンスに無理やり連れ戻されてまでエミリーを助けるメリットも義理もない。エミリーは代えのきく存在だからだ。分かっている。当たり前だ。それなのに。
どうしてこんなに、心がえぐられて、痛くて涙が出そうになるのだろう。
「そんなことないです。イルキは来ます。必ず」
ヴァイオルトが慈愛のある微笑みを浮かべながら、ベッドの端に腰かける。肌が
けれど、恐れている場合ではない。自分の身は自分で守らなければ、もう誰も助けてくれない。逃げなければ、暴行される。
「イルキは来ない。あたしに人質の価値なんてない。解放して」
「来ますよ。だってイルキは僕が知っている中で一番優しいですから。もっとイルキを信じてあげてください。かわいそうです」
ヴァイオルトが困ったように微笑んで、エミリーは眉をひそめる。
「あなたが言える立場じゃないでしょ? こんなことして捕まらないとでも思ってるの」
ヴァイオルトはやや不思議そうにエミリーをのぞきこむ。
「捕まるって、警察にですか?」
それ以外に何があるのだと言おうとして、思い出してしまった。警察の元締めである国家の重臣はラッチェンスと癒着している。庶民の娘がたとえ暴行の末に死んでしまったとしても、何の問題にもならないのだろう。
黙りこんだエミリーに気付いたのか、ヴァイオルトが微笑む。
「おとなしくしていたほうが賢明です。君がぼろぼろになってもイルキが戻ってこなかったら、解放しますから」
「殺すんじゃ、ないの」
人質としての使い道がなくなれば、当然最後は殺されるものと思っていた。けれどヴァイオルトは悩むように小さくうなる。
「君が生きているか、死んでいるか、どっちがいいのかは考えましたけど……殺してしまうのはあまりにもありきたりですし、多分、解放したほうがイルキは苦しいんじゃないかと思いました。きっと君は解放したらイルキのところへ行くでしょう? だって、自分をぼろぼろにしたイルキを、殺したいほど憎んでいるはずですから」
背筋が、震えた。具合の悪さでふだんより感覚が鈍っているはずなのに、はっきりと分かる。狂っている。本当に。けれど声を上げて否定できない。イルケトリを憎まないと、断言できない。イルケトリと会わなければこんなことにはならなかったと、ミス・ドレスで叫んだときと同じように。
ヴァイオルトは人の醜い心の機微を知っている。それを当たり前のように、突いてくる。
「どうして、そこまでしてイルキを連れ戻したいの?」
ヴァイオルトの笑みに艶めいたものが混じる。瞳に赤の光が走る。ヴァイオルトはベッドに手をついて片ひざを乗り上げ、近付いてきた。エミリーは後ずさりする。
「イルキが嫌いだからです」
ヴァイオルトは人の心をとろかすような色のある笑みで見つめてきた。これとよく似た笑みを見たことがあると思っていた。イルケトリと、同じなのだ。
「嫌い、なの?」
「大好きですけど、同じくらい憎いです」
エミリーが何も言えずにいると、ヴァイオルトが目を細める。
「知りたいですか? 僕とイルキのこと。イルキが、人を殺したこと」
突拍子がなさすぎて、エミリーは思わずヴァイオルトを凝視してしまった。
ヴァイオルトは「君には話しておきますね」とまるで秘め事のようにささやく。
ヴァイオルトとイルケトリは、七つ年が離れている。異母兄弟だった。イルケトリの母は外国人で、父の金に手を出して追放されたのだと、ヴァイオルトは物心ついたときには知っていた。家の中でイルケトリは使用人たちから腫れ物扱いされていて、ヴァイオルトが望まずとも
けれどヴァイオルトは無口で近寄りがたい父よりも、優しいけれど乳母以上に会う機会の少ない母よりも、イルケトリのことが好きだった。イルケトリは東南の国の血が混じっているからか、顔立ちがとても整っていて、
イルケトリはとても頭がよかったが、魔飾はヴァイオルトのほうが先に作れるようになった。仕立ての技術は優れているのに、魔飾が作れないことでイルケトリは落ちこぼれ扱いされた。ヴァイオルトはイルケトリの手前、素直に喜べず、けれどイルケトリはひがみのひとつも言わず優しく祝福してくれた。イルケトリのすごさを知っているのは自分だけだ、いつか絶対、イルケトリは誰よりも素晴らしい魔飾を作る。そう思っていた。
けれど十歳のとき、イルケトリではなくヴァイオルトが正式な後継者として、父から指名された。
それからまもなく、イルケトリは魔飾を作れるようになった。ヴァイオルトは自分のこと以上に喜んだ。予感したとおり、イルケトリの魔法はとても珍しく、とても強力だった。
けれど。その強力さゆえ、イルケトリの魔飾は人を殺してしまった。
それから、イルケトリは部屋にこもり、誰とも会わなくなってしまった。ヴァイオルトは何度もイルケトリの部屋を訪れて、口を開かなくなったイルケトリに話しかけ続けた。
「イルキのせいじゃない」
「僕の魔法とイルキの魔飾を合わせればきっとうまくいく」
「だからお願い」
元のように、優しく快活なイルケトリに戻ってほしかった。
「もう、やめてくれ」
何度目かの朝、イルケトリは呟いた。身繕いをしていないイルケトリはひげが目立って、髪も乱れていた。強く
「お前に何が分かる? 全部持ってるお前に。本当はお前も心の中でばかにしてるんだろ?」
ヴァイオルトは何を言われたのか分からなかった。イルケトリの充血した瞳が見開いて、憎しみとも痛みともつかない形にひずむ。
「お前がいなければよかった。そしたら俺は後継者にもなれたし、お前と比較されることもなかった。こんな思いをすることもなかったのに!」
イルケトリの瞳が、激烈に、細くなる。
「お願いだから……もうこれ以上俺を苦しめるな!」
そのあとどうやって自分の部屋へ戻ってきたのか、ヴァイオルトは覚えていない。ただ、イルケトリに言われた言葉だけが、繰り返し頭の中を回っていた。
イルケトリは、ヴァイオルトを憎んでいた。大好きなのに、互いに同じ気持ちだと思っていたのに、そうではなかった。ずっとずっと優しくて大きな存在だったイルケトリは、全部うそだったのだろうか? 信じたくない思いと、切り裂かれた心の痛みが半分ずつあって、ヴァイオルトは
イルケトリが部屋から出てくることはなく、ヴァイオルトも部屋を訪れることはなかった。時折、開いたドアから叫び声がして、従僕が皿を投げつけられているのを見ることがあった。
それからいろいろな出来事があり、一年がたったころ、イルケトリは人が変わったように身綺麗にし、堂々とした目をして部屋から出てきた。ラッチェンスから独立する、という話がまたたく間に流れた。
ヴァイオルトは動揺した。嫌だった。たとえイルケトリが自分を憎んでいたとしても、イルケトリのことが好きだった。独立してしまえば、もう一緒にはいられない。
ヴァイオルトは、イルケトリに廊下で呼び止められた。一年ぶりに見るイルケトリは、何かがそぎ落とされたような
「あのときのことは……正気じゃなかったとはいえお前を傷付けた。あれが全部うそだったとは言わない。けど、お前が大切なのも本当だ。本当に、すまなかった」
ヴァイオルトの中で濁っていたものが澄んでいく。けれど。
「独立するって、本当ですか?」
イルケトリは予想していなかったように「ああ」と戸惑いつつ
「どうしてです?」
「俺はもう魔飾を作らない。作らないならここにいるわけにはいかない」
「そんな、どうして。僕の魔法を使えばイルキの魔飾は実用化できます。あんなに素晴らしい魔飾を作らないなんて、だめです」
「それは買いかぶりすぎだ。それに、もう決めたんだ」
イルケトリは困ったように、けれど揺るがない目をして微笑んだ。
違う。魔飾を作ってほしいというのは手段だ。気持ちを伝えないと、伝わらない。
「一緒にいたいです。イルキの魔飾に僕の魔法が必要なように、僕にはイルキが必要なんです。だから、行かないで」
大好きなイルケトリと離れるのは、嫌だ。
イルケトリは悲しそうな顔を押しこめるように、笑う。
「すまない」
そうして、イルケトリはラッチェンスを出ていった。
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