5話 守るための力(2)

 ドアが三回ノックされた。ヴァイオルトが歩いていって、ドアを開ける。

 開かれたドアから、左右を黒服の従僕に挟まれて、イルケトリが入ってくる。イルケトリは部屋の中を一瞥いちべつして、とても冷たい目でヴァイオルトを見据えた。エミリーとは目を合わせなかった。

 ヴァイオルトがベッドの隣、部屋の中央まで歩いてきて、イルケトリと向かい合う。

「お久しぶりです。おかえりなさい、イルキ」

 ヴァイオルトは慈悲深く微笑む。イルケトリはエミリーでさえ感じ取れるほど、硬く冷えた表情でヴァイオルトを見つめていた。

「すぐに帰る。早く話せ」

 ヴァイオルトは微笑んだまま小さく首を傾ける。

「どうしてです? 戻ってきてくれるために来たんじゃないんですか?」

「違う」

 ヴァイオルトは意外そうな顔をする。

「そうなんですか? わざわざ彼女にお別れを言いに来たんですか?」

「話をそらすな。用件を言え」

 イルケトリの底冷えした声に、ヴァイオルトは目を細めた。

「イルキがラッチェンスに戻ってくれば、彼女を解放します」

 エミリーは話のつながりがまったく理解できなかった。エミリーの視線に気付いたのか、ヴァイオルトが振り向く。

「君に話さないのは公平ではないですよね。イルキは僕の兄で、ラッチェンスの次期当主なんです」

 言葉が頭に染みこむまで、間があった。けれど、すべてがつながった気がした。

 イルケトリがラッチェンスの社員証を持っていたのも、所作や食事の仕方から上流階級めいた雰囲気をにじませていたのも、ラッチェンスの令息だったからだ。

「そいつは部外者だ。言う必要はない」

「何でそんなこと言うんです? わざと?」

 ヴァイオルトがおかしそうに笑う。イルケトリはヴァイオルトを冷視したまま表情を変えない。

「ちょっと、待って。あたしはたしかに部外者だけど、本当に部外者なの?」

 イルケトリがエミリーを疎外したことにほんの少し心が引っかかれたが、今はそれより大切なことがある。先ほどヴァイオルトは「イルキが戻ればエミリーを解放する」と言った。それはつまり。

 ヴァイオルトがエミリーを哀れむように眉をひそめる。

「ほら、イルキが部外者なんて言うからです。とらわれのお姫様は大切な役柄でしょう?」

 そうして、エミリーを振り向く。

「僕はイルキに戻ってきて当主になってほしいんです。けどいくら言ってもイルキは戻ってきてくれない。だから君の身柄と交換ということにしました」

 予想が、すべて最悪の確信に変わる。吐き気とめまいで鈍くなった頭でも分かってしまう。

 エミリーを森で襲ったのは、ヴァイオルトだ。つまり、エミリーは人質だ。

「父上が後継者として選んだのはお前だ。俺じゃない」

「それでも、僕が当主になればイルキを当主にします。そして今、僕は当主代理です。ラッチェンスに戻ってください。イルケトリ・ラッチェンス」

「ヴァイオルト」

 イルケトリの声は低かった。瞳は怒りよりも強く、凍っていた。

「ラッチェンスには戻らない」

 ヴァイオルトの瞳が、細くなる。

「本当に?」

「戻らない。絶対に」

 イルケトリとヴァイオルトは目を離さなかった。ヴァイオルトが視線を外して、小さく息を吐く。

「分かりました。今日は諦めます」

 そしてこの上なく残念そうに、顔を曇らせる。

「明日から彼女の爪を一枚ずつ送ります」

 あいさつのように、ヴァイオルトの言葉が流れる。

「手と足合わせて二十日、戻ってきた時点でやめます。それでもだめなら……どうしましょう?」

 ヴァイオルトは心底困ったという顔をして首を傾ける。

「次は歯とかですかね? 正直そこまでイルキが耐えられると思ってないんです。だって、イルキは優しいから」

 何を言っているのかと、聞き間違いではないのかと、エミリーの頭は理解を拒否する。ヴァイオルトの紫の目と視線が合ってしまい、体が固まる。

「本当は僕もこんなことはしたくないんです。君からもイルキにお願いしてくれませんか?」

 痛ましそうに細くなった紫の目に、破片のような赤が入りこむ。瞬間、分かってしまった。

 ヴァイオルトは、本気だ。

 怖気おぞけ立った。後ずさりしようとして、視線に撃たれたように体が動かないことを知る。鼓動が速くなって、もともとあった気持ち悪さが増してくる。かろうじて、息を吐く。握った指先が冷たい。後ずさりできたとしても、どうせベッドの上だ。逃げられない。

 狂っている。

「何をされようと戻らない」

 イルケトリの声は、変わらない。

「彼女を見捨てるんですか?」

「エミリー」

 ヴァイオルトの声が断たれて、初めて、この硬く冷たい声を向けられた。見たくないと抗う気持ちを押さえつけて、イルケトリの顔を見る。

「お前を解雇する」

 今まで、線を引かれていると感じることはあった。それでも、イルケトリの表情に体温はあった。

 見えているものすべて、熱がないようだった。イルケトリはエミリーを命ごと、拒絶した。

「彼女を解雇してもやることは同じです」

「勝手にしろ。俺にはもう関係ない」

 イルケトリがヴァイオルトに背を向けて足を踏み出すと、後ろに控えていた従僕が両側からイルケトリの前を塞ぐ。

「いいです。見送りをお願いします」

 イルケトリは入ってきたときと同じように左右を従僕に固められながら、部屋を出ていった。

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