5話 守るための力(1)

 回る、色のついていない世界で、ただ、どこへ行っても炎から逃げられないという意識だけが、続いていた。

 目を開けて、エミリーは今、夢を見ていたことを知った。知らない、アイボリー色の天井、そこからカーテンのように下りた薄布、知らない、とがったバラのような匂い。エミリーは反射的に上体を起こす。けれど目の前が大きく揺らいで、元のように倒れこんでいた。みぞおちのあたりが気持ちが悪い。景色の揺れがおさまらずに、目を閉じる。

「目が覚めました?」

 高くもなく低くもない声が聞こえてきて、エミリーは目を開く。右横の薄布が開かれて、不思議な色をした瞳と、目が合った。

 少年か、少女か、どちらともとれる人物だった。子どもにしては大人びた雰囲気で、大人にしてはどこか柔らかさが残っている。ドレスを着ていないので、おそらく十五、十六歳の少年だ。髪は艶やかな黒で、ところどころくせのように跳ねている。肌は髪と対照的に際立って白い。瞳は紫で、ランプの光の加減か、赤が差している。

 あのときは紫の瞳だった。珍しくて綺麗きれいだったので、よく覚えている。

 コムセナでエミリーに道を尋ねてきた少年だ。

「お水を持ってきますね」

 薄布の向こうに少年の姿が消えて、衣擦きぬずれと、静かな水の音が聞こえる。気持ちの悪さをこらえて首だけ動かすと、どうやら天蓋のあるベッドに寝かされているらしいと分かった。

 戻ってきた少年は薄布を開いて、「どうぞ」とランプの光に反射するカットグラスを差し出してきた。エミリーはゆっくりと上体を起こして、ヘッドボードに背を預けてグラスを受け取った。礼を言って、水を一口飲みこむ。

「あの……どうして」

 何もかもが分からない。かろうじて口にすると、少年は安堵あんどしたように、微笑ほほえんだ。

「君、森で倒れてたんです。覚えてますか?」

 頭を弾かれたように、エミリーの中に一気に記憶がよみがえってくる。ミス・ドレスから飛び出して、森でしゃがみこんでいたら誰かに背後から襲われて気絶させられたのだったか。

 もやがかかっていた頭がはっきりして、あらためてあたりに目を配ると、どこかの部屋のようだった。天蓋の薄布ごしにつる草模様の壁紙とボルドー色のじゅうたんが透けて見える。

 ドレスも、気絶させられる前に着ていたメイドのエプロン姿ではなくなっている。白で、ナイトドレスのようにゆったりとした、腰で共布ともぬののリボンを結ぶものだ。胸元や袖口にたくさんのレースが重なっている。

 少年が気付いたように「ああ」と声をもらす。

「ドレスは汚れていたのでメイドに着替えさせました。今、洗濯してるので、安心してください」

 エミリーの頭の中で疑問と疑念が渦巻く隙間に、ひとつ、とても大切なことが思い浮かぶ。

「あの、リボンは? 赤い」

 ずっと握りしめていた大切なリボンがなくなっていることに、今気付いた。少年は穏やかな表情のままエミリーを見つめる。

「それも洗濯しています。大丈夫です」

 少年は自然にエミリーの手から水のグラスを取って、薄布の向こうのデスクへ置いて戻ってくる。天蓋の薄布を開いて、ベッドの支柱へ留める。

 少年は白いシャツに白いタイ、チャコールグレーのウエストコートにワインレッドのズボン、黒い革靴を身につけていた。右手に、指先のない甲までの黒いレースの手袋が見える。ドレスを着て髪を結っていれば少女と言われても分からないだろう。そのせいなのか、ランプに照らし出される姿は、ただたたずんでいるだけなのに、どこか艶めいて見える。

「あの、失礼なんですが、どちらさま、なんでしょうか」

 まだおさまらない目の前が回っているような感覚と気持ち悪さをこらえながら、エミリーは少年を見上げた。少年はわずかに首を傾けて、艶やかな笑みを浮かべる。

「ああ、失礼しました。ヴァイオルト・ラッチェンスと申します」

 聞き覚えのある音がエミリーの鈍い思考にかろうじて引っかかる。けれど、引っかかったものに思考が止まる。

「ラッチェンス?」

「ええ。当主は今伏せっていてごあいさつできないのですが、僕が当主代理なので、ご容赦ください」

 目の前の少年、ヴァイオルト・ラッチェンスは申し訳なさそうに、緩く微笑んだ。

 ラッチェンス。誰もが知っている注文服屋。魔飾の生産も行い、ラッチェンスがなければ魔飾の輸出は立ち行かないほどの、大手メゾン。

 なぜ、今ラッチェンスの当主代理と対面しているのか、分からない。森で倒れていたところにたまたまラッチェンスの関係者が通りかかったのか? それとも。

「あの……助けていただいてありがとうございました。もう大丈夫なので、帰ります」

「そんな、真夜中ですよ? 危険です」

 ヴァイオルトは目を見張って、気遣わしげな顔をする。エミリーはさりげなく部屋に目を走らせたが、時計が見当たらない。

「それに、もうすぐ迎えが来ますから」

 気持ちに寄りそおうとするように、ヴァイオルトが微笑む。

 予感がした。決してすがすがしいものではない予感が。不気味に広がる色のように、思い出してしまったのだ。

 イルケトリが、エミリーを助けるために警察署でラッチェンスの社員証を見せたことを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る