4話 誰かのかわり(4)

 朝食のあと、エミリーは二階で真鍮しんちゅうのドアノブを磨いていた。重曹を水でペースト状にしたもので磨くと、黄土色だったノブが驚くほど金色になるのだ。綺麗きれいになったという達成感があるので、この作業は好きだった。

 金色になったドアノブを眺めながら、晴れない気持ちで考える。決めつけるのはよくないし、たまたま不思議なことが重なっただけかもしれない。けれど、やはりおかしい。裁縫箱は違う場所にしまってしまったのかもしれないが、ドレスをクロゼット以外のところにしまうなど、ありえない。もちろん部屋中を捜してみたが、見つからなかった。

 疑いたくない。けれどもし、これが意図的な嫌がらせだったとしたら、どうすればいいのだろう。誰かがやったのなら、部屋の鍵を開けて入ったということになる。

 でも、本当に裁縫箱もドレスも自分がしまいこんでしまっただけかもしれない。それとなく皆に裁縫箱を見なかったか聞いてみようかと浮かんだ瞬間、ドアに影がかかって視界が塞がれた。

「だーれだ」

 楽しげな声に、エミリーは喉で悲鳴を凍りつかせた。何を言えばいいのか、どうすればいいのか完全に頭も体も固まってしまった。

 視界の束縛が解かれて、儚げな妖精が横から顔をのぞきこんでくる。

「エミリー? びっくりした? ごめんね」

 シンティアが困ったようにエミリーを見つめていた。エミリーはようやく油をさしていない機械のように硬い動きで頷いて、一歩、二歩とシンティアから距離をとる。

「ええと……はい。いいえ」

 衝撃を受けすぎてもはや自分でも何を言っているのか分からない。とにかくあまり近付かないようにして、少しでも不穏な空気が流れたら全速力で逃げなければ。

 相対したシンティアは、害など一切感じさせない微笑みを見せる。

「そんなにおびえなくて大丈夫だよ。俺、約束は守るから。無理やり襲ったりしないよ」

 言っていることのあけすけさと、清廉せいれんな微笑みの落差が激しすぎる。

 今日のシンティアは眠そうではなく、髪も寝ぐせとは違い自然に緩くカールしている。

 白いシャツに細幅の青いリボンタイ、グレーのチェックのウエストコートに、黒に近い濃い緑のズボンだった。シャツの袖は折り返されていて、細い手首が見えている。女性並みの細さだが、近くで見ると体つきはちゃんと男性で、身長もエミリーより高い。

 エミリーはいまいちシンティアを信用しきれず、体に力を入れたまま思惑をはかるように見つめた。

「大丈夫だってば。ね? 約束破ったらイルキにものすごく怒られて殴られるだろうし、最悪辞めさせられちゃうかもしれないし」

 シンティアが小首をかしげて微笑む。笑顔で物騒なことを言われても困るのだが、エミリーはこわごわ頷いた。シンティアは満足そうに、柔らかに笑う。

「エミリー、掃除してたんでしょ? 手伝ってもいい?」

 エミリーは磨き布を力いっぱい握りしめていたことに気付いた。そういえばドアノブ磨きの途中だった。

「な、何でですか?」

「敬語じゃなくていいよ。ええとね、掃除とか洗濯って前は俺とヒフミでやってたんだ。でも今はエミリーがいるからいらないって言われちゃって、『暇なら書類整理しろ』ってイルキが言ってくるから逃げてきて、エミリーと一緒に掃除しながら話そうかなって」

 シンティアは途中、いかめしい顔つきになってイルケトリの声を真似まねた。意外と似ている。

「えっと……気持ちは嬉しいんだけど、ひとりで大丈夫。手伝ってもらったらイルキも怒るかもしれないし」

 シンティアは「ええ……」と気落ちしたように表情を曇らせる。こういう反応は子どものように素直だな、と思う。

「分かった。それならしょうがないけど」

 本当はふたりきりになる時間を長くしたくなかった、ということもあるのだが、先ほどの理由もうそではないので言わないでおく。

 エミリーはシンティアと見つめ合ったまま、立ちつくす。会話が終わったのでシンティアが去るかと思いきや、動く気配がない。

「あの、えっと、掃除、したいんだけど」

「してていいよ」

「その。見られてると気になるから、ひとりにしてもらえると嬉しいんだけど」

 エミリーは勇気を出してシンティアを見据えた。その気はないと言われても、いつ心変わりされるか分からない。

 シンティアは言われたことを理解するように間をあけて、少し悲しそうな顔をした。

「そっか。分かったけど、残念」

 なぜかこちらが悪いことをしているようで心が痛むが、そもそもの原因はシンティアなので惑わされてはいけない。

 シンティアは切り替えるようにふわりと微笑む。

「でも俺、エミリーともっと仲良くなりたいんだ。また話そうね」

 無垢な笑顔で言われてしまうと、もはや何が本当なのか分からなくなる。エミリーはされるように頷いていた。

 シンティアは手を振って、ようやく廊下を歩いて階段を下りていった。

 エミリーは長く息を吐き出した。緊張がとけて押し寄せてきた疲労感に、しゃがみこみそうになる。

(何とか切り抜けられてよかった……)

 そもそもなぜシンティアはひとりでこんなところに来たのだ、と思ったが、書類整理が嫌で逃げてきたと言っていたのを思い出した。シンティアは装縫師そうほうしではないのだろうか。作業場にいなくても大丈夫な立場なのだろうか。

 ずっと作業場にいなくても、怪しまれないのだろうか。

 引っかかってしまった考えを、エミリーは振り払った。


 夕食後、いつものようにヒフミとふたりで皿洗いをしているとき、エミリーは切り出した。

「すみません。こんなところで話すことじゃないんですけど、いいですか?」

 隣のヒフミは皿から視線を上げた。ヒフミも背が高いほうではなく、エミリーと目線が同じくらいだ。

 ヒフミは「何?」というように首をかしげる。

「あの、一週間だけ、夕食のあとの片付けを抜けさせてもらえませんか?」

 エミリーはヒフミに裁縫箱とドレスがなくなったことを話した。

 裁縫箱は勇気を出して全員に聞いてみたが、皆知らないと言っていた。もう一度部屋を徹底的に捜してみたが、裁縫箱もドレスも見つからなかった。

 やりたくはなかったが、自分の部屋を見張るしかない、と思った。もし犯人がいるのなら、また部屋に入るだろう。

 昼間の掃除中はある程度自由に動けるので、部屋に目を光らせていればいいが、一番可能性が高いのは夕食のあと、エミリーが片付けをしている時間だった。夕食は終業後なので、食事が済むと皆部屋に戻っていき、一番人目につきにくい。エミリーが犯人なら、その時間を選ぶ。

 一週間だけ自分の部屋に目を光らせて、何もなければそれでいい。けれどそれにはヒフミへの相談が必要だった。万が一ヒフミが犯人だった場合、もう何も起こらないかもしれないが、多分違う気がしていた。

 エミリーの話を聞き終えたヒフミは、かすかに不安そうな顔をした。

「片付けは、分かった。けど、イルキに言わない、いいの?」

 エミリーは言葉につまる。本当はイルケトリに言うべきだ。けれど誰かを疑っているのかと、お前の気のせいだと言われるかもしれない。

 あのとき、アップルパイのことでエミリーが責められたとき何も言ってくれなかったように、助けを求めて拒絶されるのが、怖い。

「おおごとにしたくないので、まだ黙っててもらえますか? あたしの気のせいかもしれないし。埋め合わせはちゃんとするので、迷惑かけてしまうけど、お願いします」

 エミリーの訴えを感じ取ってくれたのか、ヒフミは不安そうな顔のままながらも、小さく頷いた。エミリーは礼を言って、止まっていた皿洗いの手を動かし始めた。


 翌日から、エミリーはなるべくひんぱんに自室の前に目をやるようにした。誰かいないか、誰か出てこないか。かといってずっと見ているわけにもいかないので、夜、部屋に戻ってきたときは朝と何か変わっていないかと、恐る恐る部屋を見渡した。

 正直、何か起こるかもしれないと常に身構えているのは、つらくて、何より、怖かった。夜中、目が覚めたらドアが開いていて誰かがいる、という夢を見て、恐怖を思い出しながら、夢でよかったと深く息を吐き出した。

 そうして一週間がたった日の終わり。

 誰かが部屋に入るのを見ることもなく、部屋からは何もなくならなかった。

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